なぜ日本人の給料は上がらないのか。一橋大学名誉教授の野口悠紀雄さんは「『年功序列型の報酬体系』の影響は無視できない。このため古い技術にしがみつく年長者が高い賃金を得て、若い人材の持つ専門知識は正当に評価されない」という――。(第3回/全3回)

※本稿は、野口悠紀雄『どうすれば日本人の賃金は上がるのか』(日経プレミアシリーズ)の一部を再編集したものです。

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■主要国のなかで日本だけが長期的に賃金が下がっている

税制は人々の働き方に大きな影響を与える。それを示すのが、つぎのようなデータだ。「日本の賃金は、長期にわたって停滞している」ということはよく知られている。しかし、「毎月勤労統計調査」のデータを見ると、図表1のように、1990年代の中頃以降、停滞しているというより、かなり顕著に下落している。2000年の109.8から20年の100.0まで、9.8%もの下落だ。

日本の平均賃金指数の推移(2020年=100) 出所=『どうすれば日本人の賃金は上がるのか』

図表2に示すOECDの賃金統計で見ても、同じ傾向が見られる。

日本の平均年賃金の推移(OECDデータ) 出所=『どうすれば日本人の賃金は上がるのか』

日本の年平均賃金は、2000年の464万円から20年の440万円まで、5.2%下落した(毎月勤労統計調査のデータよりこちらの方が下落率が低い理由は、後で述べる)。上に見たような賃金の長期的下落は、他の国では見られない現象だ。

自国通貨建ての計数を見ても、つぎのように、2000年から20年の間に、多くの国で、賃金が著しく上昇している。フランス48.7%、ドイツ52.0%、イタリア31.7%、韓国118.4%、イギリス65.3%、アメリカ78.1%。主要国の中で日本だけが低下しているのは、日本経済が深刻な病を抱えていることの結果ではないだろうか? 真剣に考えるべき問題だ。

なお、さきほど見たのは自国通貨建ての数字なので、日本の場合に為替レートが円安になっていることの直接的な影響はない(市場為替レートで比較すると、円安の影響が加わるので、日本の賃金の低下傾向は、右に見たよりさらに大きくなる)。

■全体的な賃金は上がっているのに、なぜ平均賃金がさがるのか

社員もパートも賃金は下がっていないのに、なぜ平均賃金が下がるのか?

多くの人は、「賃金が上がらない」とは思っているだろうが、図表1、2に見るほど下がったとは実感していないだろう。実感と統計の数字との間で、なぜこのような乖離(かいり)が生じるのだろうか? 一つの理由は、日本の賃金体系は年功序列的で、歳をとるほど上昇することだ。したがって、社会全体の賃金が下がっても、個人の賃金は上昇することが多い。このため、経済全体の賃金低下が大きな問題として意識されないのかもしれない。

しかし、図表1、2で見たように日本の平均賃金の下落は厳然たる事実なのだから、その原因を解明する必要がある。そこで、一般労働者とパートタイム労働者に分けて推移を見ると、図表3のとおりだ。

一般労働者とパートタイム労働者の賃金指数の推移 出所=『どうすれば日本人の賃金は上がるのか』

パートタイマーの賃金は、継続的に上がっている。一般労働者も、傾向的に下がっているわけではない。2007年頃までは停滞したが、13年頃からは上昇している。このように一般労働者もパートタイマーも賃金が格別に下がっていない。それなのに、全体で見ると、なぜ平均賃金が下落してしまうのだろうか? これは、知的なパズルとしても興味ある問題だが、それだけではない。ここには、日本の賃金事情の大きな問題が隠されている。

■パートタイマーの増加が平均賃金低下の原因

この問題を解く鍵は、パートタイマーの増加にある。これについて以下に説明しよう。

例えば、これまで100の賃金の人が2人いたとする。そこに、これまで働いていなかった人が、この2人の労働時間が半分で50の賃金で働くようになったとする。この場合、このグループの平均賃金は、100から、250÷3=83.3に下がる。下がる原因は、3人目の人(パートタイマー)を、最初の2人(一般労働者)と同じように扱って、全体の労働者数を3人と数えたからだ。

この場合には、労働時間あたりの賃金は下がっていないので、平均賃金の低下は、ある意味では、見かけ上のものということができる(ただし、第3の人が、本当は長く働きたいのだが、何らかの理由でそうできないのであれば、大きな問題だ。これこそが、ここで論じたいことだ。この問題は後で論じる)。

平均賃金を計算する際、このことを調整する方法がある。これが、「フルタイム当量」(FTE)というものだ。上の例の場合には、パートタイマーは0.5人と数え、労働者数は2人から2.5人になったと考えるのだ。その場合には、平均賃金は100から、250÷2.5=100になるわけで、変化はないということになる。なお、いまの例の場合、賃金所得の総額は増える。したがってGDPも増える。

他方、国民数は不変なので、一人あたりGDPは増えることになる。平均賃金では日本より韓国のほうが高いのに、一人あたりGDPでは日本はまだ韓国に抜かれていないのは、一人あたりGDPの場合には分母が総人口であることの影響が大きい。

■労働時間が短いだけでなく、時間給も低い就業者が増えている

パートタイム労働者の比率は、日本では顕著に上昇している。それに対して、他国では、さほど増えていない。OECDのデータによれば、2020年におけるパートタイム労働者とフルタイム労働者の比率は、つぎのとおりだ。日本が25.8%、韓国が15.4%、OECD平均が16.6%。

OECDの賃金統計は、フルタイム当量によるものだ。それに対して日本の賃金統計は、フルタイム当量で計算していないので、平均賃金の下落が大きく見える。これが、図表1の下落率が図表2の下落率より大きくなる原因だ。

OECDの統計は、フルタイム当量によるものであるにもかかわらず、日本の平均賃金が下落している。これは、パート就業者は、単に「就業時間が短い」だけでなく、「時間給も低い」ことを意味する。これは、先程の例で、3人目の人が労働時間が半分だが賃金が40だとしたら、フルタイム当量で計算しても、平均賃金は100から、240÷2.5=96に下がることを考えれば、分かるだろう。これが、日本の就業構造の大きな問題点だ。

つまり、労働時間が短いだけでなく、時間給も低い就業者が増えているのである。では、なぜそうした就業者が増えるのだろうか? これには、税制が大きな影響を与えている。

■「103万円の壁」が平均賃金を引き下げていた

図表1でも2でも、2018年頃に賃金が上昇している。これは、18年に行われた税制改正の影響だ。具体的にはつぎのとおり。従来は、配偶者の給与収入が103万円を超えれば、配偶者控除を受けることができなかった。

そこで、パートなどで働く人は、労働時間を抑えて働いていた。これが「103万円の壁」といわれてきたものだ。このように、税制は、働き方に大きな影響を与える。日本の場合に女性の就業がパートタイムを中心にしたものになってしまうのは、このような税制の存在が大きな原因だ。

ところが、18年の改正で、配偶者の給与収入が103万円を超えても、150万円までなら配偶者控除と同額の配偶者特別控除を受けられることになった。そして、201万5999円までであれば控除を段階的に受けられるようになった。この改正に対応して、多くのパートタイマーが労働時間を増やしたのだ。このため、平均賃金が上昇した。

ただし、いまでも配偶者控除制度による制約は残っているのだから、本当はもっと働きたい人が、労働時間を抑えている可能性が否定できない。労働力が減少する社会において、このような制度の存在は、大きな問題だ。配偶者控除という制度は、「女性は専業主婦」という時代の名残だ。こうした制度を変えることによって、女性の社会参加を増やすことが可能だろう。

■2013年から女性の就業者数は顕著に上昇しているが…

一国の人口のうちどれだけの人が労働力になっているかを示すために、通常使われるのは、「労働力率」という指標だ。これは、15歳以上人口に対する労働力人口(働く意思のある人)の比率だ。労働力調査によれば、日本の労働力率の推移は、図表4に示すとおりだ。

労働力統計による労働力率の推移 出所=『どうすれば日本人の賃金は上がるのか』

男性は低下気味。それに対して、女性は2013年頃からかなり顕著に上昇している。男女計では、12年頃までは緩やかに低下していたが、15年頃から上昇している。20年では、男女計で62.0%、男が71.4%、女が53.2%だ。男性の数字が低下してきたのは、高齢者の比率が上昇しているためだ。これが人手不足を引き起こしており、経済成長の足を引っ張っている。

しかし、図表4は、いまの日本が抱える問題を的確に表しているとはいえない。なぜなら、女性の就業者にパートタイマーが多いことを反映していないからだ。

■日本人の6割近くは働いていない

「労働力調査」や「毎月勤労統計調査」には、パートタイマーの状況を示すいくつかの数字がある。しかし、バラバラに示されているので、全体像を把握するのが難しい。これらの情報を総合的に捉えるには、FTE労働力(フルタイム労働力)の概念に集約して示すことが望ましい。

OECDは、FTE労働力率のデータを公表している。いくつかの国を見ると、つぎの通りだ(2019年。15〜64歳のFTE労働力人口の同年齢人口に対する比率)。OECD平均では、男が76.4%、女が54.7%。アメリカは、男77.4%、女60.8%。韓国は、男82.6%、女55.2%。スウェーデンでは、男74.7%、女65.6%。ところがどういうわけか、日本の数字がない。

そこで、以下に独自に計算してみることにしよう。

労働力調査によれば、女性は約3割がパートタイマーだ。ここでは、労働力調査の数字を参照して、パートタイマーの労働時間は、一般労働者の半分であるとした。これによって、FTEベースの労働力率を計算すると、図表5のようになる(*1)(*2)。

FTEベースの労働力率の推移 出所=『どうすれば日本人の賃金は上がるのか』

図表4と比べると、2013年以降の女性の労働力率の顕著な上昇は見られない。また、右に見た諸外国の値と比べると、男も低いが、女がきわめて低い。2020年におけるFTEベースでの労働力人口は、男3376万人、女2255万人、計5632万人だ。労働力調査による労働力人口6868万人より約1236万人も少なくなる。

5632万人の中には、失業者が含まれているが、彼らが職を得ても、総人口1億2580万人に対する比率は、44.8%にしかならない。つまり、フルタイム当量で見れば、日本人の6割近くは働いていないのだ。

(*1)労働力調査では、全就業者を「営業主」「家族従業員」「雇用者」に分け、「役員を除く雇用者」を「正規」と「非正規」に分けている。そして「非正規」を「パート」「アルバイト」「契約社員」「嘱託」等に分けている。ここでは、「非正規」のすべてが短時間労働者であるものとした。そして、その就業者総数に対する比率を「非正規率」とした。また、パートタイマーの労働時間は、「労働力調査(基本集計)2021年」の図5「雇用形態,週間就業時間別雇用者の割合」から、正規の半分とした。なお、図表5では、15歳以上のFTE労働力人口の同年齢人口に対する比率を示している。
(*2)図表5では15歳以上のFTE労働力人口の同年齢人口に対する比率を考えているのに対して、OECDの数字は15〜64歳についてのものであることに注意。

■アジアとヨーロッパで大きく異なる賃金のありかた

日本企業の報酬体系は、年齢が上がるほど賃金が上昇する「年功序列型」の仕組みになっている。これは、男子の一般労働者においてとくに顕著だ。図表6に見るように、賃金月額は、19歳未満の18万3000円から年齢とともに増加し、55〜59歳で42万円のピークになる。その後は下落し、70歳以上では26万1000円となる。これは、25〜29歳とほとんど同じ水準だ。

日本の年齢階級別賃金(男性、一般労働者、2020年) 出所=『どうすれば日本人の賃金は上がるのか』

これに対してアメリカの場合には、図表7に示すように、30代半ば頃までは職務経験の蓄積を反映して賃金が上昇するが、30代後半から60代前半までは、ほとんど年齢に関係なくフラットになる。

アメリカの年齢階級別賃金(男性、フルタイム労働者、2021年) 出所=『どうすれば日本人の賃金は上がるのか』

なお、OECD, Connecting People with Jobs, Towards Better Social and Employment Security in KoreaのFigure1.18に、各国の年齢別賃金のデータが示されている。それによると、韓国も、日本と似た年功序列型だ。それに対して、ヨーロッパ諸国では、アメリカと同じように、30歳以降は、65歳以上まで含めて、ほとんど年齢に関係がないフラットな形になっている。

■年功序列的な報酬体系は生産性の向上を妨げている

日本の報酬体系は、生産性の向上を妨げている面が大きい。第1の問題は、年功序列的な賃金は、労働の成果に応じる報酬になっていないことだ。図表6に見るように、55〜59歳の賃金は19歳未満の2.3倍であるが、単に年を重ねただけで、生産性がこれほど上がるとは考えられない。

むしろ、年をとることによって、時代の変化に対応できなくなる危険のほうが大きいだろう。それにもかかわらず日本の賃金体系で賃金が年齢とともに上昇するのは、年をとれば管理職の地位につくという、それだけの理由による場合が多いからだろう。そうした人たちが意思決定権限を持つことになるので、企業が新しい事業に取り組むことが阻害される。なぜなら、新しいものの導入は、年長者の地位を危うくするからだ。

本来であれば新しい技術体系に応じて新しいビジネスモデルを導入する必要があるのに、日本企業は古い技術体系にしがみつこうとする。そして、変化する技術体系に適切に対応することができない。ましてや、新しい変化を世界に先駆けて実現することなど、ほとんど不可能だ。

また、年功序列的な報酬体系は、能力や生産性に応じて賃金を支払うことを難しくしている。このため、若い人材が持つ専門知識が適切に評価されない。日本の企業の多くが新しい社会状況にうまく適応できない大きな原因が、ここにある。「デジタル化の遅れ」ということがいわれるが、それは、こうした傾向の一つの現れにすぎない。日本の報酬体系が、様々な変革を阻害していると考えざるを得ない。

■解雇規制や退職金の影響で労働力移動が少なくなっている

また、日本の報酬体系の中で、退職金は重要な地位を占めている。その額は、勤務年数と強く関連づけられている。

「退職金・年金に関する実態調査結果」(日本経済団体連合会、東京経営者協会、2022年3月)によれば、大学卒の退職金は、勤務年数が38年の場合には2243万円であるのに対して、10年の場合には289万円でしかない。このように、勤続年数によって、非常に大きな違いがある。このため、早期に退職して他の企業に移ると、得られる退職金の額が大幅に減ってしまう。

野口悠紀雄『どうすれば日本人の賃金は上がるのか』(日経プレミアシリーズ)

労働政策研究・研修機構「データブック国際労働比較2022」によって勤続年数別雇用者割合(2020年)を見ると、日本では、短期間勤務者の比率が低く、長期間勤務者の比率が高い。アメリカは、ちょうどその逆になっている。

すなわち、勤続年数1年未満が、日本は8.5%、アメリカは22.2%であるのに対して、20年以上は、日本は21.7%であるのに対して、アメリカは10.8%となっている。これは、日本で企業間の労働力移動が少ないことを示している。このことは、産業の新陳代謝を遅らせ、生産性を低める要因になっている。

企業間の労働力移動が少ない理由として、日本では解雇規制が厳しいこともあるだろう。それに加え、先に見たように、ある企業に一定年数在籍しないと十分な額の退職金を得られないことが、他の企業への移動に対して大きな障害になっていると考えられる。変化が激しい世界では、労働力が他の企業に容易に移動できることが重要だ。

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野口 悠紀雄(のぐち・ゆきお)
一橋大学名誉教授
1940年東京生まれ。63年東京大学工学部卒業、64年大蔵省入省、72年エール大学Ph.D.(経済学博士号)を取得。一橋大学教授、東京大学教授、スタンフォード大学客員教授、早稲田大学大学院ファイナンス研究科教授、早稲田大学ビジネス・ファイナンス研究センター顧問を歴任。一橋大学名誉教授。専攻はファイナンス理論、日本経済論。著書に『「超」整理法』『「超」文章法』(ともに中公新書)、『財政危機の構造』(東洋経済新報社)、『バブルの経済学』(日本経済新聞社)、『日本が先進国から脱落する日』(プレジデント社)ほか多数。
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(一橋大学名誉教授 野口 悠紀雄)