#6 治療ではなく「ケア」をするという視点──斎藤環さんと読む、中井久夫の著作【別冊NHK100分de名著】
斎藤環さんと読む、「こころの医師」・中井久夫の思想
回復が難しいとされてきた統合失調症の治療に希望をもたらし、阪神・淡路大震災において被災者の「心のケア」を行うなど、常に苦しむ人の心に寄り添い続けた精神科医・中井久夫。
『別冊NHK100分de名著 集中講義 中井久夫』では、優れた文筆家でもあった中井久夫の論文・エッセイを、精神科医・筑波大学名誉教授の斎藤環さんと読み解きます。やさしさと鋭い知性から紡がれた中井の言葉は、心の病に関わる人だけでなく、あらゆる人のセルフケアのヒントになるでしょう。
2026年7月~9月に開催の「100分de名著」シリーズ・図書カード全員還元キャンペーン対象書籍でもある本書より、「はじめに」と「第1講」を全文特別公開いたします(第6回/全6回)。
『別冊NHK100分de名著 集中講義 中井久夫 心の病の「豊かさ」を読む』書影
「キュア」よりも「ケア」の視点に立つ
かつて統合失調症は、特殊な謎の病気で、治る見込みはないと考えられていました。中井久夫は、生涯をかけた研究でその考えを覆し、誰もがかかり得る病であり、また治療できる病であることを世に示しました。
分裂病は本来回復しやすい病気であって、ただ、それを妨げる内外の要因もまた多いというものなのかもしれません。
その過程では常に、「キュア(治療)」ではなく「ケア」の方に視点が置かれていたと私は考えています。診断を下し、それに見合う治療をしっかり行うという考え方よりも、病気の如何にかかわらず、徹底して患者に寄り添い、話を聞き、応答し、ケアしていきましょうという思想が一貫してあったのだろう、と。
「医者が治せる患者は少ない。しかし看護できない患者はいない」。これは、体系化を一切志向しなかった中井の著作中、教科書的に読まれている唯一の著書『看護のための精神医学』に書かれた言葉で、中井による箴言としてしばしば引用されます。ここで言われている「看護」は「ケア」に置き換えてもいいと思うのです。
中井が患者の身体症状をとてもつぶさに観察したことは先にお話ししましたが、体調観察に参照していたのは、医師のカルテよりも看護日誌でした。『最終講義』に書かれていることも、統合失調症という疾患だけに当てはまる精神療法というより、どんな疾患にもある程度通用するような、丁寧なケアの方法として読むことができます。「全ての疾患はケアできる」という発想で、治療は絶望的だと考えられていた統合失調症患者と向き合い、阪神・淡路大震災後の被災者の心のケアにも力を注いだのだと思います。
災害時に「心のケア」という言葉が使われたのは、阪神・淡路大震災のときが初めてでした。二〇〇四年には兵庫県にPTSDの研究や治療に当たる「兵庫県こころのケアセンター」ができ、中井久夫は初代センター長を務めています。中井久夫が常にケアの視点に立っていたことを思うと、心の「治療」ではなく「ケア」という言葉が選ばれたことに、より深い意味を感じることができるのではないでしょうか。
また、現在のメンタルヘルス領域では、疾患ごとの特異性のない、どの病気にも対応できるようなケアの思想で病と向き合っていきましょうという考え方が注目されつつあります。中井久夫はいろいろな面で高い予見性を発揮しましたが、ケアというものの重要性を非常に早い段階から強調していたことは、特筆すべき功績だと思います。
私が現在、啓発に取り組んでいるオープンダイアローグは、精神疾患に対する統合的なアプローチです。その発想と中井の考えには、通底するところが実に多いと感じています。オープンダイアローグがもたらした重要な示唆の一つに「個人の権利や尊厳に配慮した倫理的な姿勢は、それ自体が治療的である」ということがありますが、中井はそれを数十年前から実践していました。また、医師、患者、患者の家族や友人、臨床心理士などが一か所に集まって対話を繰り返す対話実践も、「治療」より「ケア」の視点で行っています。中井が残した知恵の一つ一つが、オープンダイアローグの対話の思想と響き合い、これからの私たちの活動を照らしていくものになるのでしょう。
『最終講義』という本は、統合失調症という病気がテーマでありながら、それだけに限定されない広い射程を持っています。そもそも中井久夫は、統合失調症の人もそうでない人も何も変わらないという前提で語っていますし、治療ではなくケアに重心を置いているという点でも、万人向けに書かれたものだと言っていいでしょう。おそらく中井自身も、あらゆる人がコミュニケーションや対人関係、セルフケアのヒントにするような読み方を望んでいたのではないでしょうか。
また、中井久夫の文章自体が、ケアの精神がベースにあるせいか、読んでいてほっとする、癒やされると感じる方が多いようです。一方で、その文章の背景には、領域横断的な博識と、不正義を許さないという強い覚悟も見て取れます。「ほっこり」や「癒やし」だけでは飽き足らないという読書家の方にとっても、手に取る価値のある本であることは間違いありません。
本書『別冊NHK100分de名著 集中講義 中井久夫 心の病の「豊かさ」を読む』は、大好評を博した「NHK100分de名著 中井久夫スペシャル」の番組テキストに、後期の代表作『徴候・記憶・外傷』を読み解く書き下ろし新章を加えた決定版として、
・「心の生ぶ毛」を守り育てる
・「病」は能力である
・多層的な文化が「病」を包む
・精神科医が読み解く「昭和」と「戦争」
・「記憶」がひらく新たな地平
という全5講義で、中井久夫の著作とその思想を紹介しています。
斎藤 環(さいとう・たまき)
精神科医、筑波大学名誉教授。1961年、岩手県生まれ。医学博士。筑波大学大学院医学研究科博士課程修了。爽風会佐々木病院等を経て、筑波大学医学医療系社会精神保健学教授を務める。2024年、つくばダイアローグハウスを開業。専門は思春期・青年期の精神病理学、病跡学、ラカンの精神分析。一方で、時事問題から文学、美術、音楽、サブカルチャー全般に及ぶ評論活動を行う。著書に『ひきこもりはなぜ「治る」のか? 精神分析的アプローチ』(ちくま文庫)、『母は娘の人生を支配する』(NHKブックス)、『イルカと否定神学 対話ごときでなぜ回復が起こるのか』(医学書院)ほか多数。『心を病んだらいけないの』(與那覇潤氏との共著、新潮選書)で第19回小林秀雄賞を受賞。
※全て刊行時の情報です。
■『別冊NHK100分de名著 集中講義 中井久夫 心の病の「豊かさ」を読む』(斎藤環 著)より抜粋
■脚注、図版、写真、ルビは権利などの関係上、記事から割愛しております。詳しくは書籍をご覧ください。
※本書第1講における『最終講義』からの引用は、『最終講義──分裂病私見』(みすず書房)に拠ります。

