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シトロエン・カマルグ(1972年)

ベルトーネとシトロエンが初めてタッグを組んで誕生したのが、当時のGSをベースにしたカマルグモデルである。1972年のジュネーブ・モーターショーで初公開されたカマルグは、実用性よりもスタイルを重視する若い層をターゲットにした流線型のクーペで、実質的にGSの2+2バージョンであった。

【画像】誰もが知る「ランボルギーニ」の代名詞的存在【ランボルギーニ・カウンタックを詳しく見る】 全44枚

しかし、シトロエンは深刻な経営難に陥っており、1973年には窮地に立たされていた。1974年にプジョーが同社に出資し、1976年には合併してPSAが誕生した。


シトロエン・カマルグ(1972年)

BMW 5シリーズ(E12、1972年)

今なおBMWのラインナップの主力である5シリーズの系譜は、ここから始まった。BMWは1960年代に危機的状況から同社を救ったノイエ・クラッセ・セダンの後継車を必要としていた。

5シリーズはまさにその役割を担うモデルであり、4気筒および6気筒のガソリンエンジンをラインナップし、セダン仕様のみで販売された。しかし、生産後期には高性能モデルのM535iが登場した。これは次の世代の5シリーズであるE28(外観はE12とほとんど変わらない)と共にデビューしたM5の先駆けとなった。


BMW 5シリーズ(E12、1972年)

アウディ50(1972年)

1960年代後半から1970年代初頭にかけて、欧州の自動車メーカーはこぞってハッチバックに注力し始めた。前輪駆動の人気が高まる中、このトレンドに追随するため、フォルクスワーゲンとアウディはファミリー向けのハッチバックシリーズを開発しようとした。

その先駆けとして、イタルデザインには小型ハッチバック(ゴルフ)が、ベルトーネにはさらに小型のスーパーミニの設計が依頼された。ベルトーネに所属していたガンディーニ氏はアウディ50を考案し、まもなくフォルクスワーゲン・ポロとしても発売された。1978年にはアウディが高級志向へシフトしたため、同車はフォルクスワーゲンブランドでのみ販売されるようになった。


アウディ50(1972年)

フィアットX1/9(1972年)

アウトビアンキA112ランナバウトの影響を強く受けたX1/9は、手頃な価格のミドシップスポーツカーとして業界に新風を吹き込んだ。

当初は1.3Lエンジンを搭載していたが、後に1.5Lエンジンが追加された。生産後期にはフィアットではなくベルトーネのブランド名で販売されており、総生産台数は約16万台に達する。


フィアットX1/9(1972年)

NSUトラビーズ(1973年)

NSUを知る人は多くないが、その中でもトラペーズはすっかり忘れ去られてしまっている。ベースとなっているのは不運なNSU Ro80だ。Ro80は1968年の欧州カー・オブ・ザ・イヤーを受賞したものの、その後NSUを破産に追い込んでしまった。ロータリーエンジンと前輪駆動を採用したトラペーズは、深く包み込むようなフロントガラスと際立ったウェッジシェイプなど、ランチア・ストラトスから多くの要素を借用している。

しかし、ストラトスとは異なり、トラペーズはコンパクトなエンジンをリアアクスルの上に配置しており、後部座席をさらに後方に配置することが可能だった。前席を車体中央に据え、後部座席をエンジンの両側にオフセット配置することで、広いレッグルームを確保した。しかし、この奇抜なアイデアは普及しなかった。


NSUトラビーズ(1973年)

ランボルギーニ・ウラッコ(1973年)

1970年のトリノ・モーターショーで初公開されたウラッコだが、量産化にはさらに3年を要した。ようやく発売にこぎつけた際も、最高出力220psのミドシップ2.5L V8エンジンの性能に物足りなさを感じた消費者の心を掴むことはできなかった。

さらに、製造品質も粗かった。250psのウラッコP300では性能面が改善されたが、依然として造りが非常に粗く、買い手は遠のいてしまった。1973年から1979年の間に生産されたウラッコはわずか791台だ。


ランボルギーニ・ウラッコ(1973年)

ランボルギーニ・エスパーダ4ドア(1973年)

発売から5年が経過してもエスパーダへの人気はあったが、ランボルギーニは後継車開発の必要性に迫られた。しかし、同社にはまったく新しいモデルを開発する余裕がなかったため、ガンディーニ氏にエスパーダの改良版を考案するよう依頼した。その結果生まれたのが、リトラクタブルヘッドライトを備え、量産車よりホイールベースを100mm延長した4ドア・クーペだ。しかし、残念ながら設計図の段階を超えることはなかった。


ランボルギーニ・エスパーダ4ドア(1973年)

フェラーリ・ディーノ308 GT4(1973年)

エンツォ・フェラーリ氏がエンジンをフロント以外の場所に搭載することに強く反対していたことは、よく知られている。彼は、エンジンを乗員の後方に置くことは間違っていると考えていたが、革新的なランボルギーニ・ミウラの存在にはさすがに注目せざるを得なかった。

その結果として1968年に登場したのがディーノこと206 GTであり、その後1973年にはフェラーリ初のミドシップV8搭載車308 GT4が登場した。このモデル以降、ミッドシップV8の系譜はしばらく続いたが、フェラーリは1993年のモンディアルの生産終了をもってミドシップ4シーターから手を引いた。


フェラーリ・ディーノ308 GT4(1973年)

ランボルギーニ・カウンタック(1974年)

視覚的なインパクトにおいて、1971年のジュネーブ・モーターショーでコンセプトカーとしてお披露目された初代ランボルギーニ・カウンタックに勝るものは少ないだろう。

3年後に量産化された際もそのドラマチックな外観は色あせることなく、パワートレインはミウラからミドシップ4.0L V12エンジンを引き継いだ。1990年には、排気量は5.2Lへと拡大していた。


ランボルギーニ・カウンタック(1974年)

マセラティ・カムシン(1974年)

カムシンは、おそらく過去40年で最も目立たないマセラティ車と言えるだろう。ボーラと同じ4.9L V8エンジンを搭載しているが、ボーラのミドシップ配置に対し、カムシンではフロント配置となっている。これは、マニュアルまたはオートマティック仕様で展開された2+2のカムシンにおいて、後席のスペースを確保するためであった。

1974年から1982年の間に計435台が生産された。


マセラティ・カムシン(1974年)

ランボルギーニ・ブラボー(1974年)

1970年代初頭、ベルトーネとランボルギーニは非常に緊密に連携していた。ランボルギーニ・ウラッコはベルトーネの設計によるもので、トリノ・モーターショーではそのホイールベースを短縮した2シーターのコンセプトカー、ブラボーが披露された。

300psを発生するパワフルな3.0L V8エンジンを搭載し、走行可能で、細部に至るまで見事なディテールが散りばめられていた。しかし、製作されたのは1台のみ。現在は個人の所有下にある。


ランボルギーニ・ブラボー(1974年)

イノチェンティ90/120(1974年)

ランブレッタのスクーターでよく知られるイノチェンティは、1961年から1976年までミニをライセンス生産していた。1972年にはブリティッシュ・レイランドがイノチェンティを買収した。

イノチェンティは当初、2気筒750ccエンジンを搭載した新型車の開発を進めていたが、ブリティッシュ・レイランドが関与するようになると、代わりに998ccまたは1275ccのAシリーズエンジンを用いたミニのメカニズムが採用された。その結果、モダンでスタイリッシュな外観を持ちながら、構造的にはシンプルなハッチバックが誕生した。


イノチェンティ90/120(1974年)

マセラティ・クアトロポルテII(1974年)

初代クアトロポルテはマセラティにとってかなりの成功を収めた。8年間で776台が販売され、1974年にはクアトロポルテII(QPII)が発表された。しかし、当時マセラティはシトロエンの傘下にあり、QPIIにおいては前輪駆動のSMをベースにし、3.0L V6エンジンを搭載するよう強く求められていた。

その後、シトロエンは財政的に行き詰まり、マセラティはライバルのデ・トマソに売却された。結果的に、QPIIはわずか十数台しか生産されず、欧州以外の市場向けに供給された。欧州では販売認可が得られなかったためである。


マセラティ・クアトロポルテII(1974年)

フィアット・ビジターバス(1975年)

フィアットはミニバン(MPV)分野にいち早く参入し、600をベースにしたムルティプラを展開していた。ムルティプラは1965年に、やや大型の850Tに取って代わられた。1975年になると、フィアットは旧式化しつつあった850Tの後継車のデザインをベルトーネに依頼した。

ガンディーニ氏はビジターバスという奇妙な名前のモデルを考案した。850Tのプラットフォームをベースとし、3列の座席への乗り降りを容易にするため6ドアを備えていた。しかし、走行可能な試作車が1台製作されただけでプロジェクトは中止となり、フィアットはこの車両を自社工場の見学ツアーに使用した。


フィアット・ビジターバス(1975年)

ランボルギーニ・シルエット(1976年)

ランボルギーニは1970年代を通じて苦境に立たされていた。ウラッコの販売が振るわなかったため、より人気を集めそうな2人乗りジュニア・スーパーカーを開発する決定が下された。

しかし、一から新型車を開発する資金がなかったため、ウラッコをベースとするタルガトップ仕様のシルエットが誕生した。ウラッコと同じ3.0L V8エンジンを搭載するが、出力は260psにチューニングされている。しかし、販売はさらに難航し、1979年にランボルギーニが破産管財手続きに入るまでに生産されたのはわずか52台だった。


ランボルギーニ・シルエット(1976年)

フェラーリ308 GTレインボー(1976年)

フェラーリは長年ピニンファリーナと密接な関係にあり、ベルトーネが同社との大規模な共同プロジェクトに参画する機会に乏しかった。そこでベルトーネは、しなやかな跳ね馬ではなく、308 GTレインボーという挑戦的なモデルを開発し、1976年のトリノ・モーターショーに出展した。

308 GT4のプラットフォームを100mm短縮し、直線と平面が交差するデザインを採用。美しいとは言い難かったが、革新的なモデルだった。ルーフパネルを回転させてシートの後ろに収納することで、オープンタイプのスポーツカーに変身する仕組みだった。


フェラーリ308 GTレインボー(1976年)

アルファ・ロメオ・ナバホ(1976年)

量産化される見込みなど微塵もない、空想の産物。これこそがかつてのコンセプトカーの醍醐味だった。ナバホの場合、プラットフォームと主要部品はアルファ・ロメオ33ストラダーレから流用され、ミドシップに230psの2.0L V8エンジンを搭載していた。

ヘッドライトは横方向に飛び出し、リアスポイラーは車速に応じて調整可能だ。一方、車内はミニマルな仕上がりで、ダッシュボードは当時の戦闘機のコックピットから着想を得たデザインとなっている。


アルファ・ロメオ・ナバホ(1976年)

(翻訳者注:この記事は「後編」へ続きます。)