イスラエルのガザ攻撃を止めるにはどうすべきか…中東で100年以上も泥沼の戦争が繰り返される理由
※本稿は、舛添要一『現代史を知れば世界がわかる』(SB新書)の一部を再編集したものです。
■イスラエルとパレスチナはなぜ対立しているのか
第一次世界大戦のとき、イギリスは対戦国ドイツの同盟国オスマントルコを後方から攪乱(かくらん)するために、アラブ人の力を借りた。
見返りに、戦後にアラブに独立を認めるとしたのである。この協定は、イギリスの中東担当弁務官マクマホンとメッカの太守であるフセインの間で、1915年7月から1916年3月の間に交わされた書簡の内容で、「フセイン・マクマホン協定(書簡)」と呼ばれている。この約束に基づいて、アラブの反乱を指導したのが、映画などで有名な「アラビアのロレンス」である。
フセインは1916年にヒジャーズ王国を建国し、1918年にはフセインの子であるファイサルがダマスカスを占領し、シリアの独立を宣言した。
■悲惨な結末を招いたイギリスの「三枚舌外交」
しかし、イギリスは二枚舌、三枚舌外交を展開した。1916年、三国協商を結んでいたイギリス、フランス、ロシアの三国は、戦後にオスマン帝国を分割して管理するという秘密協定を結んだ。
その具体的な内容は、イギリスがイラクとシリア南部、フランスがシリア北部とキリキア(小アジア東南部)、ロシアはコーカサスに接する小アジア北部を領有し、パレスチナは国際管理するというものであった。ロシアは、1917年のボリシェヴィキ革命(59ページで後述)によって秘密協定から離脱した。この協定は、交渉したイギリスの政治家サイクスとフランスの外交官ピコの名前から「サイクス・ピコ協定」と呼ばれる。
この協定とフセイン・マクマホン協定が矛盾していることは明白である。
さらに、1917年11月、イギリスは、戦後、パレスチナにユダヤ人国家を建設することを認めるとユダヤ人に宣言した。これは、ロイドジョージ内閣のバルフォア外相が、ロンドンのユダヤ人財閥のウォルター・ロスチャイルドに書簡を送って記したもので、公開された。これを「バルフォア宣言」と呼ぶ。
世界のユダヤ人の間ではユダヤ国家の樹立を求めるシオニズムの運動が高まっており、イギリスはそれに迎合し、ロスチャイルド家などからの戦費の支援を期待したのである。
第一次世界大戦後、パレスチナはイギリスの委任統治領となり、ユダヤ人は入植を開始し、国家建設の準備を始めた。アラブ人は、バルフォア宣言の撤回を求め、ユダヤ人を襲撃し、ユダヤ人も自衛のために武装した。
今日に至るパレスチナ問題の源は、イギリスの二枚舌、三枚舌外交にある。
■イスラエル建国と第一次中東戦争の勃発
第二次世界大戦が終わると、委任統治国のイギリスは、パレスチナ問題の解決を国連に委(ゆだ)ねた。国連は、1947年11月、パレスチナを分割してユダヤとアラブの二つの国家を作る決議(パレスチナ分割決議)を採択した。土地の面積では、前者が56%、後者が43%の比率であった。残りの1%は、国連管理の中立地帯でエルサレムとベツレヘムなどであった。
この分割案をユダヤ人は歓迎したが、アラブ人は反対を表明した。ユダヤ人は1948年5月14日にパレスチナにイスラエル国家を建国し、シオニズムは目的を成就した。しかし、その結果、居住地から追い出された数十万人のパレスチナ人は難民となってしまった。パレスチナ人にとっては、「ナクバ(大厄災)」の日である。
イスラエル建国に反対するエジプト、サウジアラビア、イラク、シリアなどアラブ諸国は、翌日イスラエルに侵攻した。これが第一次中東戦争であるが、戦争はイスラエルの勝利に終わり、翌年6月に、国連の仲介で停戦が成立した。
イスラエルは、パレスチナに国連分割決議以上の領土を確保し、国家を建設した。アラブ側については、東エルサレム(旧市街)を含むヨルダン川西岸がヨルダンに、ガザ地区がエジプトに分割された。
■くすぶり続ける双方の不満
イスラエルは、「嘆きの壁」があり、ユダヤ教の聖地であるエルサレム旧市街を獲得できなかったし、アラブ側は大幅に領土を減らし、多くの民が難民となった。こうして双方に不満が残り、その後の対立と紛争の源となった。
1951年までにイスラエルの人口は140万人に増えた。一方、敗戦したアラブ諸国では、体制批判が強まり、1952年7月にはエジプトでナセルらの「自由将校団」が革命を起こし、王制を打倒して、共和制に転換した。
エジプトは、ナイル川の氾濫(はんらん)に対処するため、1952年、イギリスの援助によるアスワン・ハイ・ダムの建設を計画した。革命のため、これは中止となったが、政権をとったナセル大統領は計画を再開し、英米の支援を取り付けた。
しかし、ナセルはソ連とも接近したため、アメリカはそれに抗議して、1956年7月19日に支援中止を通告した。そこでナセルは、財源を確保するため、同年同月にイギリスが管理するスエズ運河の国有化を宣言したのである。
イギリスはこれに反発し、スエズ運河の管理権維持のためにナセル政権の打倒を図り、アメリカに協力を求めた。しかし、アメリカはそれを拒否したため、イギリスはフランスと共同軍事行動を起こすことを決め、イスラエルも仲間に引き入れたのである。フランスは、アルジェリア戦争で独立勢力を支援するナセルを排除するのに賛成であった。
■第二次中東戦争とイギリスの弱体化
10月29日、三国のエジプト攻撃は、イスラエル軍のシナイ半島侵攻によって始まった。これが第二次中東戦争である。アメリカ、ソ連をはじめ国際社会は英仏・イスラエルを非難し、11月2日に国連総会は即時停戦を求める総会決議を採択した。
軍事的に追い詰められたエジプトは、廃船を沈めてスエズ運河を通航不能にするなど、抵抗を試み、またサウジアラビアも英仏と断交した。こうして、国際社会の圧力によって、11月7日、英仏・イスラエルは停戦を受け入れた。
国際世論の支持を受けたエジプトはスエズ運河の国有化に成功した。ナセルはアラブ世界で英雄視されるようになった。一方、この戦争の結果、イギリス経済は困窮し、国際的威信も低下した。
アラブ世界のリーダーとなったナセルは、アラブ民族の統合を掲げて、1958年2月にシリアと合同してアラブ連合共和国を樹立する。しかし、この連合は、1961年9月にシリアで起こった軍事クーデターによって解消された。
1964年5月にはパレスチナ解放を目指すPLO(パレスチナ解放機構)がアラブ人によって組織された。
■第三次中東戦争…イスラエル軍に完敗したアラブ
1967年6月5日、ヨルダン川の水利権を巡ってシリアと紛争状態になったイスラエルは、アラブ諸国を攻撃した。イスラエル軍の奇襲攻撃は功を奏し、エジプト、シリア、ヨルダンを撃破し、ヨルダン川西岸、ガザ、シナイ半島、ゴラン高原を占領した。また、東エルサレム(旧市街)の支配権も確立し、全エルサレムをイスラエル領とした。
イスラエル軍に完敗したアラブ側は、6月8日にヨルダンとエジプトが、6月10日にシリアが停戦した。こうして、6月10日には戦争は終わった。これが第三次中東戦争であり、6日戦争と呼ばれる。
国際社会はイスラエルの占領を認めず、国連安保理決議242(1967年11月22日)は、イスラエルの占領地への返還を求めている。しかし、イスラエルは占領地に入植者を続々と送り込み、さらに多くのパレスチナ人が難民となった。
アラブ諸国が構成するアラブ連盟は、9月の首脳会議において、イスラエルに対して「和平せず、交渉せず、承認せず」ということを決議した。2023年10月にハマスがイスラエルを奇襲攻撃したのは、UAE(アラブ首長国連邦)、バーレーン、スーダン、モロッコなどが2020年にイスラエルと国交を正常化し、サウジアラビアまでがそれに続こうとしたからである。因(ちな)みに、エジプトは1979年3月に、ヨルダンは1994年10月にイスラエルと平和条約を結んでいる。
第三次中東戦争でナセルの威信は失墜し、1970年9月28日に急死した。後任にはサダトが就任した。さらに、この戦争の結果、スエズ運河も1975年まで閉鎖され、世界経済に大きな影響を与えた。
■第四次中東戦争…エジプト軍の奇襲攻撃とイスラエル軍の油断
この大勝利で慢心したイスラエルに対して、1973年10月6日、エジプトがシナイ半島に、シリアがゴラン高原に奇襲攻撃を仕掛けた。アラブの軍事力を過小評価し、油断していたイスラエル軍は後退を余儀なくされた。
開戦の日がユダヤ教の祝祭日、ヨム・キプールの日であったため、ヨム・キプール戦争と呼ぶが、これが第四次中東戦争である。奇(く)しくも50年後に、ハマスがイスラエルに奇襲攻撃を行っている。
10月11日以降、イスラエルは反撃に出て、ゴラン高原を再占領した。また、シナイ半島でも中間まで戻し、エジプト軍を包囲する勢いとなった。この時点で、国連安保理は、10月22日に停戦を求める決議338号を採択した。25日には国連安保理決議340号が採択され、停戦監視のため国連緊急軍が編成された。
緒戦で成果を収めたエジプトのサダト大統領は、イスラエルにシナイ半島の返還を要求した。また、アラブの産油国は、イスラエルに対抗するために石油を政治的武器として活用する。
アラブ石油輸出国機構(OAPEC)が原油価格を引き上げるとともに、イスラエル支持国への石油禁輸も決め、第一次石油危機となり、世界経済を直撃した。停戦によって、シナイ半島はエジプトに返還される見通しとなったが、ヨルダン川西岸やガザ地区からのイスラエルの撤退は認められなかった。
■和平への試みはなぜ挫折したのか
第三次中東戦争の後イスラエルに対してPLOがゲリラ闘争を展開したが、1970年9月、ヨルダンはPLOが王制にとって危険と判断した。そこでヨルダン政府はPLO排除を決め、難民キャンプなどを襲撃し、ヨルダン内戦となった。PLOのアラファト議長はヨルダンの難民キャンプを拠点としていたのである。PLOは拠点をレバノンに移した。
PLOはテロ活動を活発に行った。たとえば、1972年9月にはミュンヘン・オリンピックを襲撃している。
1973年の第四次中東戦争の結果、1974年のアラブ首脳会議は、PLOをパレスチナ唯一の代表として認めた。また、ヨルダンがヨルダン川左岸の統治権を放棄したため、PLOはそこに国家を建設する計画を実施に移そうとした。
レバノンでは、拠点を移したPLOに対して、キリスト教マロン派(レバノンで影響力のあるキリスト教の一派)などが反発し、1975年4月にレバノン内戦が始まった。この内戦にシリアも参加し、PLOを攻撃した。
そのような状況下で、エジプトのサダトは政策の大転換を図る決意を固める。サダトは、1977年にイスラエルを電撃訪問し、クネセット(議会)で演説した。1978年9月には、イスラエルのベギン首相とエジプトのサダト大統領が、アメリカのカーター大統領の仲介によって、大統領別荘のキャンプ・デービッドで12日かけて会談した。
■エジプトをアラブ世界で孤立させた「キャンプ・デービッド合意」
その結果、両者は、エジプトはイスラエルを承認し国交を開くこと、そしてイスラエルはシナイ半島をエジプトに返還し、ヨルダン川西岸とガザ地区でのパレスチナ人の自治について交渉することで合意した(キャンプ・デービッド合意)。こうして単独和平を達成し、1979年3月26日にはイスラエルとエジプトの間で平和条約が締結されたのである。
しかし、この画期的な合意は、他のアラブ諸国やPLOによって厳しく断罪され、エジプトはアラブ世界で孤立した。サダトは、イスラム復興主義の過激派によって、1981年10月6日に暗殺された。
キャンプ・デービッド合意に加え、後述するようにイラン革命、イラン・イラク戦争によって、アラブ諸国が団結してパレスチナ人を支援する構図は崩壊した。
エジプトとイスラエルの和平は成立したが、双方の原理主義的過激派は、それを認めようとせず、武装闘争を止めなかった。アラファトに率いられるPLOは、レバノンからイスラエルを攻撃したため、イスラエルは1982年6月、PLOに反撃するためレバノンに侵攻した。追い詰められたPLOは本拠地をチュニジアに移したが、影響力を失ってしまい、イスラエルとの和平を模索せざるをえなくなった。
1987年12月、ガザ地区のパレスチナ人は、武器を持たず、投石などによるイスラエルへの抵抗を試みた。これをインティファーダと呼ぶ。
1990年8月、イラクのサダム・フセイン大統領はクウェートに侵攻し、これにアメリカが反撃し、湾岸戦争が起こるが、アラブ諸国間での戦争であり、アラブの団結は乱れた。PLOはイラクを支持したため、アラブ世界での孤立が深まった。
■オスロ合意と過激派の台頭
1993年9月13日、ノルウェーの仲介で、オスロ合意が成立し、イスラエルのラビン首相とPLOのアラファト議長は、「パレスチナ暫定自治協定」を調印した。
その内容は、両者は相互に承認し、PLOはイスラエルの生存権を認め、またテロを放棄するというものであった。そして、暫定自治宣言によって、ヨルダン川西岸とガザ地区にパレスチナ暫定自治政府が樹立され、着実にパレスチナの自治の拡大へと進むことが期待された。
しかし、イスラエルでもパレスチナでもオスロ合意に反対する過激派が武器を置かなかった。そしてイスラエル軍の撤退が予定通りに進まなかったり、新規にユダヤ人の入植地が作られたり、ユダヤ人過激派がパレスチナ人を攻撃したり、イスラム過激派によるテロや民衆のインティファーダが頻発したりと、和平への道のりは遠くなっていった。
パレスチナではPLOの和平路線に反対する過激派のハマスが台頭し、自爆テロなどを繰り返した。またイスラエルでもリクードなどの右翼の強硬政党が勢力を伸ばした。オスロ合意に導いた労働党のラビン首相は、1995年11月4日にユダヤ教徒の急進派に暗殺された。
2001年3月に、リクード党に所属する強硬派のシャロンがイスラエルの首相に就任した。9月にはアメリカで同時多発テロが起こり、アメリカはアフガニスタンに侵攻した。シャロンは2002年3月、パレスチナ自治区に侵攻し、アラファト議長を軟禁した。
■ハマスによるイスラエル奇習攻撃の伏線
アラファトは2004年11月に死去し、アッバスが後継者となった。この間、リクード党内で右派のネタニヤフが台頭するが、シャロンは、対抗上、路線を転換した。具体的には、パレスチナ人国家の存在を認め、ガザからのイスラエル軍の完全撤退を決め、2005年8月にはそれを実行した。
しかし、イスラエルはヨルダン川西岸で入植を進め、入植地に壁を建設してパレスチナ人の排除を続けた。このような状況に、過激派のハマスが勢いを増し、2006年1月のパレスチナの総選挙で第一党に躍進した。
アッバスが率いるPLO主流派のファタハはハマスの首相就任を拒否し、ハマスと対立した。その結果、ヨルダン川西岸はファタハ、ガザはハマスが統治するということになった。
シャロン首相が2006年1月に病魔で倒れたため、右派の力が高まり、7月にはイスラエル軍が、レバノン南部を拠点とするシーア派武装組織ヒズボラを攻撃するためにレバノンに侵攻した。12月には、ガザを空爆し、ハマスもこれに応戦した。
こうして双方で二国家共存を否定する過激派が勢力を拡大し、オスロ合意は破綻した。2021年5月10日には、ハマスがガザからイスラエル軍にロケット弾を発射し、イスラエル軍がこれに報復した。この戦争は、エジプトの仲介で5月20日に停戦した。
そして、2023年10月7日、ハマスはイスラエルを奇襲攻撃したのである。
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舛添 要一(ますぞえ・よういち)
国際政治学者、前東京都知事
1948年、福岡県生まれ。71年、東京大学法学部政治学科卒業。パリ、ジュネーブ、ミュンヘンでヨーロッパ外交史を研究。東京大学教養学部政治学助教授を経て政界へ。2001年参議院議員(自民党)に初当選後、厚生労働大臣(安倍内閣、福田内閣、麻生内閣)、都知事を歴任。『ヒトラーの正体』『ムッソリーニの正体』『スターリンの正体』(すべて小学館新書)、『都知事失格』(小学館)など著書多数。
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(国際政治学者、前東京都知事 舛添 要一)