2022年下半期(7月〜12月)、プレジデントオンラインで反響の大きかった記事ベスト5をお届けします。ビジネス部門の第3位は――。(初公開日:2022年11月16日)
今年8月、崎陽軒のシウマイ弁当の具材が59年ぶりに「マグロ」から「鮭」に変わった。1週間限定とはいえ、歴史に残る決断を下したのは、その3カ月前に40歳で昇格したばかりの野並晃社長だった。野並社長は「やりたくてやったことではなく、本当に申し訳ないという気持ちです」と話す。ライターの伏見学さんが取材した――。
撮影=プレジデントオンライン編集部
今年5月に崎陽軒の社長になった野並晃さん。 - 撮影=プレジデントオンライン編集部

■59年ぶりのメニュー変更という珍事

2022年8月、“事件”は起きた。

崎陽軒(本社:横浜市)のシウマイ弁当の「鮪(マグロ)の漬け焼」が「鮭の塩焼き」に変わったのだ。原材料不足による苦肉の策ということで、1週間という期間限定だったが、具材の焼き魚が変わるのは59年ぶりだった。

崎陽軒は「起こしてはならないこと」とお詫びしたが、消費者の間では「シウマイ弁当がリニューアルした!」「超レア!」などと話題になり、多くの売店では連日完売になった。その余波は本来のシウマイ弁当が復活した後もしばらく続いた。

画像提供=崎陽軒
1週間限定で販売されたシウマイ弁当。「鮪の漬け焼」が「鮭の塩焼き」に変わった。 - 画像提供=崎陽軒

「非常に珍しいことだからここまで盛り上がったのでしょう。『鮭の塩焼きもおいしかった』というお客さまもいました。ただ、やりたくてやっていることではなく、本当に申し訳ないという気持ちです」

崎陽軒の野並晃社長はこう述べる。5月25日に40歳で社長就任したばかりで、いきなり重大な決断を迫られた。前社長の野並直文会長に言わせると、現在のシウマイ弁当は「完成形」。中身のラインアップは約20年間ほぼ変わっていない。それをいじるのは勇気のいることだったのではないか。

だが、「仕方のないこと。その時、その時で最善の判断を下すのみです」と野並社長はクールに話す。

■昨秋から綱渡り状態だった

実は、マグロの調達については昨秋から陰りが見えていた。新型コロナウイルスの感染拡大の影響で、サプライチェーンが支障をきたしており、ずっと綱渡り状態だったという。

残された選択肢は3つ。(1)シウマイ弁当を販売しない、(2)販売数量を減らす、(3)おかずを変える、である。

崎陽軒は横浜市民からシウマイなどの製造を委託されている会社だと語る野並社長。(撮影=プレジデントオンライン編集部)

結論から言えば、前の2つはすぐに消えて、おかずの変更に決まった。では、マグロに代わる魚は何にすればいいのだろう。いろいろな案が出たが、最終的に野並社長のところへ上がってきたのは「鮭の塩焼き」の一択だった。

「基本的にはマグロと同じ品質、サイズでなければいけません。弁当の売価も変えられないし、仕入れ在庫も十分なものとなれば、ほかに選択肢はありませんでした」

今年8月、ついに供給の限界を迎え、苦渋の決断を下した。しかし、不幸中の幸いで、収益面では数字を落とすどころか、むしろ欠品が出るほど売れに売れた。

こうした不測の事態は常に起こり得ること。今回はうまくしのいだが、今後はどう対処していくのだろうか。

「崎陽軒が大事にするべきなのは、シウマイ弁当の中身を何十年も守り続けるのではなく、お客さまに何十年もご愛顧いただくこと。シウマイ弁当を絶対に変えないと決めてしまうと、一つのおかずの原材料が跳ね上がったときに困りますよね。例えば、2000円でなければシウマイ弁当は売れませんとなったら、誰も買わないでしょう。そうではなく、お客さまのために価格を抑えるなら、中身を変えてもいいと思います」

■横浜市民に受け入れられるかどうか

野並社長がこう考える背景には、崎陽軒は横浜市民に支えられているという思いがある。

「シウマイやシウマイ弁当は横浜市民のもの。崎陽軒は、その製造と販売を委託していただいている会社だと思っています。市民が応援してくれる形であれば変えるし、逆に、市民が駄目だと思うような変え方はしてはいけません」

あくまでも地元の人々を中心に据える。従って、変えることは悪ではなく、何をどう変えるのかが重要になる。崎陽軒の社長は横浜の文化や伝統を守っていかなければいけないのだという。

創業から114年。初代社長の野並茂吉氏から数えること4代目の野並社長は、なぜそうした経営哲学を身に付けたのだろうか。

■弁当工場で怒られた日々

父であり、現会長の直文氏から31年ぶりに崎陽軒社長のバトンを受け継いだ野並社長は、中学から大学までサッカー部で汗を流した体育会系ビジネスパーソンである。インタビューでも大きな声でハキハキと話す姿が印象的だった。

また、既に高校生の時には、将来は組織のトップになりたいと公言していたほど、リーダーとしての意識が高い。

「人に指図されるのが嫌なのかもしれません。仮に、チームとしてのゴールや達成すべき目標があって、自分が未熟なゆえにそれができなくて指図されるならまだいいのですが、理解できないことを押し付けられるのが苦手で。まあ、体育会なんて理不尽の塊ですけどね……」

慶應義塾大学経済学部を卒業後、2004年4月にキリンビール入社。3年間の営業経験を積んでから、崎陽軒に中途入社した。最初の1年間は現場研修で基礎を徹底的に叩き込まれた。野並社長がとりわけ印象に残っているのが、弁当工場での仕事だった。

「弁当の具材を詰めるのが遅いと、ベテラン社員の方に何度も怒られました。私のせいでよく製造ラインも止めてしまいました」

この厳しい製造現場を目の当たりにして分かったことがある。

「毎日約2万7000個のシウマイ弁当が作られていくリアルを肌で感じました。シウマイ弁当を作るのは簡単ではありません。私たちはこの仕事に誇りをもっています。現場で働く機会を得たことで、そうした思いをいっそう強くしました」

1年間の研修を終え、まずは崎陽軒が運営するレストランの店長を務めた。その後、2年間のビジネススクール通いを経て、新規事業の立ち上げ担当になった。ここで野並社長は大失敗をする。

撮影=プレジデントオンライン編集部
高校時代には既に組織のトップになることを思い描いていた。 - 撮影=プレジデントオンライン編集部

■新規事業で大失敗

「机上の知識が不要だとは思いませんが、世の中は計算式だけで成り立っているわけではないことを痛感しました」

新規事業として野並社長が手がけたのは、2013年4月にオープンしたサンドイッチ専門店「RIGHTEOUS」。本格的なサンドイッチを手軽に食べられる店をコンセプトに、鳴り物入りで飲食業界に新規参入した。ところが、月次の売り上げ目標を一度も達成できないまま、わずか2年ほどで閉店したのである。

「グルメバーガーのように、本格的な料理を提供する一方で、店舗の作りはファストフード店に近い。双方のいいとこ取りをしたいと思ったのですが、それがまったくできませんでした」

ただし、この痛恨の失敗は、野並社長にとって大きな糧になった。以後、社員のチャレンジを積極的に後押しするようになったのである。

■なぜ全国展開をあきらめたのか

野並社長はそこから営業店舗などの事業責任者、そして経営幹部となり、今年5月に社長となった。

横浜駅前にある崎陽軒本社(撮影=プレジデントオンライン編集部)

交代を機に社内改革を進めるトップもいるが、野並社長は違う。守るべきものは守り、必要であれば変えるというスタンスである。冒頭に触れたシウマイ弁当もそうだ。わざわざ変えようと思ったわけではなく、変えざるを得なかったにすぎない。

崎陽軒が掲げる「真に優れたローカルブランドをめざします」という経営理念についても、基本的に守り続けるべきだとする。崎陽軒は、地元に根差したローカルブランドに徹することがナショナルブランドをも超える存在になるとして、販路を首都圏に絞っている。

これには過去の苦い経験がある。かつて全国の小売・流通でシウマイを販売していたことがあった。ただ、それによって、横浜名物であることの強みが失われ、ブランド価値を毀損(きそん)してしまったのだ。現会長のトップダウンによってそうした販売手法をやめ、それ以来、基本的には神奈川と東京を中心とした首都圏でしか崎陽軒の商品は販売していない。

■売り上げが大事だと思っていた過去の反省

実は当時、野並社長は営業担当役員だった。事業売り上げを預かる立場として、「これだけの売り上げが一気になくなります。それでも本当にやるのですか?」と会長の判断に意見した。

ただ、親子とは言っても組織である以上、経営トップの判断がすべて。最終的にはそれに従った。結果的に、この方針転換は功を奏して、崎陽軒はローカルブランドの地位を強固にした。野並社長はこの一件から何を学んだか。

「リアルな数字のエビデンスと、経営感覚はどちらも大事です。ただ、それ以上に目先のことではなく、物事を長い目で見ることが大切だと思いました。もし日本中でシウマイ弁当を販売すれば、この1、2年は過去最高の売り上げになると思います。でも、それを横浜市民の方々にご理解いただけるかというと、到底受け入れられないでしょう」

だから、そうした選択をすることはないし、これからもローカルブランドを守り抜く姿勢は変わらないという。

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目先のことではなく、物事を長い目で見ることが大切だと力強く語ってくれた。 - 撮影=プレジデントオンライン編集部

■「お前、ベンツには乗るなよ」

変化を拒んでいるのではなく、単に無駄なことはしたくないというのが、野並社長のスタイルである。以前こんなことがあったと明かす。

日本青年会議所(JCI日本)の会頭を務めていた時に、もっとトップらしくしなさいと周囲からアドバイスされた。わかりやすく言えば、高級ブランドのバッグなどを使いなさいという話だった。しかし、野並社長はそうするべきだとは思わなかった。

「私をトップに指名していただいたのは、(高級品を身に着けていない)そうした部分も含めてのことだと思います。だからトップになったことで態度が急変したら、期待を裏切ってしまうことになります」

崎陽軒の社長になってからもぶれていない。華美な格好はしないし、傲慢(ごうまん)にもならない。これは父から受け継いだ“家訓”も関係しているだろう。

「お前、ベンツには乗るなよ、とよく言われました。われわれは5円、10円の積み重ねで商売させていただいている会社だから、と会長からずっと聞かされてきました」

ベンツというのは比喩だが、要するに、庶民の目線に立って経営しなさいということだろう。ちなみに、野並社長の自家用車はトヨタ・アルファードである。会長夫妻も加えると大家族になるため、「大きなクルマが必要だった」という。

■社長が誰であるかより、シウマイが大事

社長として偉ぶらない理由はほかにもある。トップであっても組織の一人にすぎないという考えがあるからだ。

「社員がいるからこその会社です。皆に気持ち良く働いてもらわないと、崎陽軒としての評価も上がりません。社長としての責務は果たしますが、一人ですべてを背負っていても仕方ない。一人で頑張ることよりも、2000人の社員で頑張ったほうが、絶対に良い力になりますから」

そして、大前提にあるのは、横浜市民に愛されるブランドを作り続けること。自分自身の地位や名誉を守ることよりも、市民の思いに応えることが優先される。「お客さまからすれば、崎陽軒の社長が誰であるかよりも、シウマイ弁当をおいしく食べられることのほうが重要なのです」と野並社長は強調する。

社長就任早々から波乱の連続だったが、飄々(ひょうひょう)とやってのける野並社長に、新時代の崎陽軒の輪郭を見た気がした。

撮影=プレジデントオンライン編集部
シウマイ弁当の食べ方については、父親とは異なるそうだ。 - 撮影=プレジデントオンライン編集部

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伏見 学(ふしみ・まなぶ)
ライター・記者
1979年生まれ。神奈川県出身。専門テーマは「地方創生」「働き方/生き方」。慶應義塾大学環境情報学部卒業、同大学院政策・メディア研究科修了。ニュースサイト「ITmedia」を経て、社会課題解決メディア「Renews」の立ち上げに参画。
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(ライター・記者 伏見 学)