立川エリアの交通手段として重責を担う多摩都市モノレール(写真:あやともしゅん / PIXTA)

赤羽駅と立川駅。赤羽は交通利便性の高さから近年急速に「住みたい街」として注目されるようになった。立川は都市開発が進み、多くの商業施設と豊かな自然という2つの要素を兼ね備え、「住みたい街」としての地位をすでに確立している。

都心に近い赤羽と郊外の立川。一見相容れない2つの街に、実はある共通点がある。そのキーワードは“軍都”である。

軍都として機能した街

終戦から70年以上が経過した今、戦争を経験した世代の多くは鬼籍に入り、存命者たちも高齢化している。戦争の記憶は、年を追うごとに薄らいでいる。戦争を物語る街に残された遺産も風化しており、一般市民がそれを見ても、戦争によるものだと伝わらなくなっている。

戦前期、全国各地に“軍都”と呼ばれる都市が誕生した。“軍都”の明確な定義はないが、おおむね「軍もしくは軍事産業でにぎわった都市」というのが一般的な解釈だ。


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東京都は、1943年に東京府と東京市が統合されて誕生した。その背景には軍事体制を強化する目的があった。いわば、東京都そのものが軍都であるとも言える。軍都・東京は敗戦後すぐに消し去られたわけではない。軍都として機能した街は、その後も何かしらの理由によって、軍都機能を保持し続けている。

東京都北区に所在する赤羽駅は、京浜東北線・埼京線・宇都宮線・高崎線などが停車する北の要衝でもある。また、JRの赤羽駅から少し離れているが、東京メトロ南北線の赤羽岩淵駅もある。さらに、バス路線も充実している。

2001年に湘南新宿ライン、2015年に上野東京ラインが次々と開業すると、赤羽駅から神奈川県横浜方面へのアクセスが飛躍的に向上した。赤羽駅が持つ拠点力は、これらを機に一気に高まった。


赤羽駅(写真:sunny / PIXTA)

赤羽駅前は新しい駅前広場が整備されているものの、駅一帯には昔ながらの商店街がいまだ根強く残っている。湘南新宿ラインの開業と時を同じくして、赤羽駅周辺のどことなく懐かしい飲み屋街が注目されるようになった。これらの、安く飲める立ち飲み屋・居酒屋は“センベロ”と称されているが、それが大々的にクローズアップされ出したのは2000年代後半。デフレという社会情勢を追い風にしたことが大きい。

戦後長らくは多くの土地が接収されていた赤羽

北の要衝・赤羽駅が発展を遂げるのは自然な流れのようにも思えるが、バブル期まで北区のにぎわいを牽引していたのは赤羽駅ではなく王子駅だった。

交通の要衝でもある赤羽駅が王子駅の後塵を拝していたのには理由がある。赤羽駅が戦前期から軍都として栄え、戦後長らくは多くの土地が接収されていたからだ。

軍都としての赤羽駅の歴史をひもとくと、1891年に陸軍が赤羽駅から近い台地の空き地に目を付け、ここに被服廠(ひふくしょう)の倉庫を開設。今となっては聞き慣れない用語だが、被服廠とは、軍隊用の服や靴を製造する工場のことを言う。陸軍は台地なら人の出入りが管理しやすく軍事機密が漏れにくいと考えた。そのため、1919年には本所区(現・墨田区)にあった被服本廠を赤羽台に移転。倉庫から本廠へ格上げされたことで、赤羽駅を利用する軍人や軍関係者が急増した。

赤羽に被服本廠が移転してくると、原料生産を手掛ける日本製麻の赤羽工場といった関連の軍需工場が赤羽の一帯に集積していく。終戦直後までに第一師団工兵第一大隊や近衛師団工兵大隊などが集まっていた。

軍関連の工場が集まれば、当然ながら多くの労働者が赤羽には集まる。飲食店や商店が集まるのは自然な流れだった。

また、大正期には岸一太が赤羽飛行機製作所を設立。耳鼻咽喉科の医師だった岸が、飛行機に興味を引かれたのは南満洲鉄道で働いていたときだった。

当時の南満洲鉄道総裁は、後藤新平。そのときに後藤の知遇を得たことで、岸は日本初の民間飛行機製造工場の立ち上げに成功する。そして、赤羽に工場を構えたこともあり、製造された飛行機「つるぎ号」は陸軍にも納入される。

赤羽駅から近距離にある板橋にも、火薬製造工場や軍関連の工場が集積していた。両者間の物資輸送を円滑にするべく、軍用トロッコも敷設された。赤羽には引き込み線が敷設されて各地から輸送されてくる物資の受け入れをしていたが、それらとは別に赤羽―板橋間の軍需工場を行き来する軌間762mmの軍用トロッコも走った。

時代を経るごとに、赤羽は軍都の色を濃くした。それは鉄道網にも大きく影響を及ぼしている。赤羽駅から延びていた軍用鉄道は緑道や道路に転換されており、現在は軍用鉄道の面影を残していない。

ちなみに、日本住宅公団が建設したマンモス団地「赤羽台団地」は団地マニアの間では有名な存在になっているが、この地は高級住宅街然としており、清朝の皇族・川島芳子が赤羽台に居住していた過去がある。

敗戦後、赤羽の軍事施設はことごとくGHQに接収された。被服本廠はアメリカ軍の住宅地に、そのほかの施設も兵器補給廠や戦車練習場になった。

接収された旧軍用地は返還後に公団住宅や公園、小中学校などへと生まれ変わった。しかし、一部は防衛省の十条駐屯地として残った。

東京都心部と多摩とを接着させる交通の要衝

軍都だった赤羽は、戦前・戦後を通じて交通の要衝を背景に大変貌を遂げた。同様の構図は東京都立川市の玄関として機能する立川駅にも当てはまる。


立川駅(写真:MK2014 / PIXTA)

日露戦争に勝利した日本は、その後も来る戦いに向けて軍備を怠らなかった。特に陸軍は飛行機という新たな兵器による攻撃を研究しており、その研究会は東京の中野に置かれた。

陸軍の飛行機研究が熱を帯びてくると、陸軍は最初の飛行訓練場に埼玉・所沢を選定する。陸軍が所沢を選んだ理由は、広大な土地があったこと。それに加えて、研究会が中野にあったことから中央線でのアクセス面が重視された。

陸軍は所沢で操縦士の養成を開始したが、軍部において空軍力の増強が重要との認識が強まるのは第1次世界大戦以降だ。

第1次世界大戦において、ヨーロッパ戦線では航空機が兵器として大活躍した。戦後のワシントン会議では、戦勝国を中心に各国の軍縮が話し合われた。特に戦艦の保有数など、海軍力に制限がかけられた。

ワシントン会議での海軍軍縮という方針を受け、日本は空軍力の増強に舵を切る。陸軍は飛行訓練場の新増設に着手し、1922年には45万坪もの広大な立川飛行場が開設、第5連隊が移駐。航空部隊の主力を担うことになる第5連隊が立川に移駐した理由は、鉄道が大きかった。立川は中央線で容易にアクセスができるほか、物資輸送に活躍していた青梅鉄道(現・青梅線)も通じている。まさに、立川駅は東京都心部と多摩とを接着させる交通の要衝だった。

第5連隊が立川駅を拠点に定めると、立川は急速に軍都化した。1928年には陸軍航空本部技術部が、1935年には陸軍航空廠が、1938年には陸軍航空技術研究所が、1940年には陸軍航空工廠が次々と開設された。


昭和記念公園。かつては立川飛行場があった(写真:oriion3 / PIXTA)

国の動きに連動して、民間の飛行機メーカーも続々と立川に集結した。石川島飛行機製作所は1930年に工場を立川に移転。1936年には、立川飛行機と改組した。

航空産業が集積したことにより、立川は工業都市となり経済的にも活況を呈した。いつの頃からか、立川は“空都”と呼ばれるようになる。

空都として隆盛を誇った立川だったが、敗戦により暗転。立川の軍用地はGHQに接収された。駅前の広大な敷地は、1977年の全面返還までアメリカ軍の基地および後方支援施設が並んでいた。

全面返還後、立川駅前の大部分を占める国有地は国の出先機関や公共施設が立地されたほか、国営昭和記念公園に転換された。また、一部は民間に払い下げられたものの、一画が大きすぎたことから個人用住宅として分譲されることはなく、大資本へと売却された。

しかし、立川駅前の土地が民間に払い下げられた後も立川駅前の開発は遅々として進まなかった。立川駅前の発展を阻害していた要因は、市街化調整区域という都市計画法の壁だった。

都市計画法は、開発を促進する市街化区域と開発を抑制する市街化調整区域とを線引きしている。こうした線引きがなされる理由は、無制限に開発を許可してしまうと、無計画な都市がつくられてしまい、上下水道や道路をはじめとするインフラ未整備の街ができてしまうからだ。市街化調整区域だったこともあり、立川駅の一帯は長らく不遇をかこった。

多摩都市モノレールの設立により状況が一変

しかし1986年に多摩都市モノレールの運営会社が設立されると、状況は一変する。商業施設や高層マンションが建設できるようになり、広大な空地には次々と開発計画が浮上した。

立川の軍都化の一翼を担った立川飛行機は、戦後に製造業部門と不動産部門を分離。名称も立飛企業と改めているが、その立飛企業が立川駅前の開発を主導した。


2015年には三井不動産とタッグを組んで大型商業施設「ららぽーと立川立飛」を開業。2017年には、プロバスケットボールの本拠地「アリーナ立川立飛」をオープンさせた。アリーナ立川立飛はバスケットボールの試合だけではなく、大相撲巡業なども開催されており、立川市民のみならず市外からも人が集まる。

こうしたことから、立川駅は三多摩でも屈指の繁華街と化した。発展著しい立川駅だが、前述した歴史をたどったことからも住宅地が少ないことが課題として残る。立川市の人口は約18万人。立川市よりも都心から離れている八王子市の人口は約57万人、同じく町田市の人口は約43万と、人口面で後塵を拝したままだ。

市の人口がそのまま駅の勢いに直結するわけではないが、それでも市の人口が玄関駅に与える影響は大きい。軍都として発展した赤羽駅と立川駅。両者はともに交通の要衝というアドバンテージを得ている。今後、街の発展は鉄道網を生かせるかどうかにかかっている。