内田良『ブラック部活動 子どもと先生の苦しみに向き合う』(東洋館出版社)

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「部活動」は生徒の自主的な活動とされている。しかし実際には9割近くの生徒が部活動に所属しており、加入は学校運営の前提になっている。部活動には魅力がある。だからこそ過熱し、「絆」が生徒と先生の双方を苦しめる――。著書『ブラック部活動』(東洋館出版社)で「部活動問題」を提起した内田良氏の寄稿をお届けしよう。

■「自主的な活動」なのに休めない

「部活がしんどい、やめたい」「もっと休みがほしい」「なぜ全員強制なの?」「授業に向き合う余裕がない」――日本の中学校や高校に通ったことがあるならば、一度はこのような感覚をもった人も多いことだろう。早朝と放課後、土日はもちろん、場合によってはお盆やお正月までも部活動がある。しかも部活動に参加しないことは許されず、全員にそれが強制される。

ところが少し調べを進めてみれば、部活動というのは制度の上では「自主的な活動」であることがわかる。文部科学省が定める学習指導要領には、部活動は「生徒の自主的、自発的な参加により行われる」(中学校学習指導要領、高等学校学習指導要領)と明記されている。

自主的な活動であるはずなのに休めないとは、どういうことか。自主的であるのに全員に強制されるとは、どういうことか。少し考えただけでも、こうして矛盾が噴出してくる。

そして、冒頭の訴えはじつは、生徒ではなく先生からの訴えである。私が、生徒からではなく先生自身の口から聞いたことを、紹介したものだ。部活動の顧問を担当する先生たちが、「部活がしんどい、やめたい」「もっと休みがほしい」「なぜ全員(に顧問の担当が)強制なの?」「授業に向き合う余裕がない」と切実に訴えているのである。

部活動は、言うまでもなく、授業とは異なるものだ。学校で必ず教える・教えられるべきものではない。さらに教員においては、部活動に費やされる時間の大半は、時間外勤務だ。教員は法制度上、時間外勤務が認められていないため、部活動指導は形式的には教員が自分の意志で好んでやっていることになる。

部活動とは、生徒にとって「自主的な活動」であると同時に、教員にとっても「自主的な活動」なのである。だけれども、現実には自主性はほぼ認められず、教員は部活動のために、時間外勤務をただ働きで強いられ、土日までをも指導のために費やしている。いま話題の「部活未亡人」(教員である夫が部活動指導に時間を奪われ、まるで夫がいないかのような立場に置かれた妻)が生み出されるのも、平日の夕方以降にくわえ土日まで部活動に拘束されるという異常事態が、背景にある。

■苦しいのは生徒だけ?

さて、このところ連日のように、部活動改革関連の話題を見聞きするようになった。部活動が、あまりに負担が大きく、また理不尽なことが多すぎるというのだ。これら部活動関連の諸問題には、先生にも生徒にも当てはまることが多くある。その休みなき過重負担に、先生も生徒も悲鳴を上げている。

これまで部活動を問題視する議論の大半は、「生徒の苦しみ」に向けられてきた。部活動が過熱し、練習を休めない、勉強に割く時間がない。根性論的な指導による身体への負荷(熱中症や野球肘・肩)、安全配慮の欠如による死亡や重度傷害、部内のいじめやしごき、さらには顧問による暴力や暴言など、これらはいずれも、生徒が受ける被害であった。

他方で、「先生の苦しみ」には、長らく関心が寄せられてこなかった。むしろ、先生たちは、「生徒の苦しみ」を引き起こしたことの責任が問われ、部員を適切に指導できなかったことについて教員としての資質を問われるというのがオチであった。

私たちがそうした「生徒の苦しみ」を強調するばかりに、部活動という巨大な慣行のもとで苦しんでいる先生たちの声はかき消されてしまう。「部活やめたい」というのは、生徒だけではなく先生の声でもある。生徒が被害者で、先生が加害者という従来の構図に加えて、生徒と先生の両者の苦しみに目を向けるところから、部活動改革を考えていかなければならない。

■部活は楽しい! 魅力が魔力に変わるとき

「しんどい」「休みたい」などと書くと、部活動はすべてにおいて、まるで生き地獄のように見えてしまう。だが、中学校や高校で生徒として部活動を経験し、それを振り返ったときには、むしろ逆の実感をもつ人が多いだろう――「つらかった面もあるけれど、部活動はやってよかったと思っているし、学校生活のなかでいちばんよい思い出になっている」と。

なるほど、クラスメートとよりも部活動仲間とのほうが、濃密な時間を過ごす。卒業後も、親友として付き合いがずっと続くこともよくある話だ。大学入試や高校入試の面接でも、部活動でどれほど頑張ったかを、誇りをもってアピールする受験生も多いと聞く。強制的な苦役というよりは、みずから積極的に関わった意義ある活動として、その経験は語られる。

先生もまた、同じような思いを共有している。毎日と毎週末の部活動は、たしかにつらいこともあるけれども、それ以上に楽しいことも多い。日々の練習をともにして、一つひとつの勝ち負けに一喜一憂し、3年生の引退試合のときには、皆で涙を流す。

自分が積極的にかかわるほど、チームは活気を増し、技能は上達し、土日を惜しんで練習するようになる。生徒は部活動顧問をクラス担任や教科担任以上に慕い、そして保護者は顧問を厚く信頼する。部活動では、絆や達成感、信頼感という何にも代えがたい感情的なつながりが生み出される。

部活動は、みずから積極的に関わりたくなるような、魅力ある活動である。だからこそ、歯止めがかからなくなる。みずから進んで活動し、そして楽しくて夢中になるからこそ、過熱していく。文部科学省はかつて、文部省の時代の1997年に、中学校では週に「2日以上」、高校でも週に「1日以上」の休みをとるよう指針を示しているが、そこから20年の間、部活動はむしろ過熱してきたくらいである(拙稿「『部活週2休』有名無実化」)。

気がついてみると、土日もお盆もお正月も、部活動に参加している自分がいる。部活動の「魅力」はすぐに、「魔力」へと転化する。「やりがい」が「搾取」につながるのと同じ構図である(「拙稿「"ブラック部活"と"やりがい搾取"」)。

■交錯する「強制」と「過熱」

部活動の改革を訴えている先生には、部活動が大好きな、あるいは大好きだった先生がたくさんいる。夢中になって部活動を指導してきたのだけれども、ふとしたときに気づくというのだ――「このままではいけない」と。

部活動の現状を苦役や強制の側面だけに注目して問題視するだけでは、いま起きていることの半分しか照らし出せない。部活動は、単なる苦役や強制ではなく、みずからハマっていく「楽しみ」でもある。

部活動というのは、基本的に制度上は「自主的な活動」である。だが現実には、自主的どころか強制的になっている。その一方で自主的とされているからこそ、歯止めがかからずに過熱していくことにもなる。「自主的な活動」をめぐる、この「強制」と「過熱」の仕組みを明らかにして、議論を整理していくことが、これからの部活動のあり方を考えるうえで、不可欠な作業なのだ。

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内田 良(うちだ・りょう)
名古屋大学大学院教育発達科学研究科准教授。1976年生まれ。名古屋大学大学院教育発達科学研究科博士課程修了。専門は教育社会学。日本教育社会学会理事、日本子ども安全学会理事。ウェブサイト「学校リスク研究所」「部活動リスク研究所」を運営。著書に『ブラック部活動 子どもと先生の苦しみに向き合う』(東洋館出版社)、『教育という病 子どもと先生を苦しめる「教育リスク」』(光文社新書)、『柔道事故』(河出書房新社)などがある。Twitterアカウントは、@RyoUchida_RIRIS

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(名古屋大学大学院 准教授 内田 良)