J SPORTSのMLB解説でもおなじみ、報知新聞・蛭間豊章記者 (C) Baseball Journal

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報知新聞のMLB担当にして、「記録の神様」故宇佐美徹也氏(1933-2009報知新聞記録部長、編集委員、BISデータ初代本部長)の愛弟子、蛭間豊章記者。最近はJ SPORTSのMLB解説でもおなじみです。

MLBの日本開幕戦を前に、取材スタッフの陣頭指揮をとっておられる蛭間記者に、東京ドームホテルでお話を伺いました。胸には取材記者のクレデンシャルパスが揺れています。

――お忙しいところ、ありがとうございます。

このクレデンシャルパスは、色によって入れるエリアが違うんです。昨日は何かの手違いで、グラウンドに降りるパスが僕に回ってこなかった。仕方がないから記者席で見ていたのですが、おかげで川崎宗則とイチローのすごいキャッチボールを見ることができました。二人でどんどん距離を広げていって、最後は90メートルくらいの距離からキャッチボールをしていた。

イチローは楽々投げていましたが、川崎は助走をつけないと届かなかった。僕のブログにも書きましたが、いいものを見たと思いましたね。やはり、野球は開場と同時に行った方がいろんなものを見ることが出来ますね。

僕は取材の時には早く来るのが好きなんです。昔はスピードガンの担当をしていたんです。1979年、ちょうど日本にスピードガンが来た頃ですね。作家の新宮正春さんと組んで1年間、データマンとして一緒に動きました。僕は記録担当だからデスクワークが多かったので、外での取材がうれしくてね。あの1年間は本当に楽しかった。今でも、取材現場に来るのがうれしくて、早めに来るようにしているんです。

――新聞記者になられたのはいつですか?

高校出て大学を落っこちて、1年間ぶらぶらしていたんです。当時、うちの会社には宇佐美さんが部長の記録部があって、それまでは普通に試験を受けて通った記者が所属していた。でも、記録というのは積み重ねじゃないですか。2年くらいいて部署が代わったりすると、記録のエキスパート、後継者が育たないと言うので、独自に記録部専属の記者を募集していたんです。

「高校卒業以上」と書いてあったので受験しました。50人くらい受けたのかな?それでなぜか二人合格したんです。僕は1954年生まれですから、19歳の年。1973年から記者をしています。今年がちょうどまる40年目ですね。

――宇佐美徹也さんの内弟子みたいなものですね。

宇佐美さんの内弟子には前藤衛さんという優秀な先輩記者がいらっしゃったんです。その人がNo.1です。宇佐美さんが定年で辞められるときにも、当時の運動部長に「前藤だけは頼む」と言っておられました。私と同期に怒るのと、前藤さんへの怒り方は違います。我々よりも厳しいしかり方は、隣にいても怖かったですね。でも、今から思えば一番弟子の前藤さんへの愛情があったんだと思います。

――野球の記録に興味を持たれたのはいつくらいからですか?

僕は埼玉県の野球名門校、大宮高校出身です。甲子園に出たいなと思って入学したのですが、僕らの学年には1m80cmが5、6人いた。だから1年生のときに早くも無理だろうなと思った。僕たちより2歳下の江川卓が大宮高校に入るはずだったくらいですから。

で、野球部をあきらめて、大宮の氷川神社の参道に「キクヤ」という小さな古本屋があったのですが、そこで大和球士さんの『プロ野球三国志』に出会った。これが全てです。昭和30年代に出た初版でした。表紙は平嘉門さんのイラストが描かれた新書版です。それを読んで野球の歴史は面白いなと思ったんです。

「キクヤ」は小さい本屋だったので野球の歴史の本は何冊もなかった。そこで大宮駅西口の「橋本書店」という別の古本屋で、本棚の一番上にベースボールマガジン社から出た『プロ野球戦後二十年』という分厚い本を見つけた。当時で5000円くらいしましたが、おやじさんが「1500円でいいよ」と言ってくれた。すごい野球好きだったんです。そこで、おやじさんに神田の古書街で野球の本を仕入れてもらって、これを買って読みました。
僕は『週刊ベースボール』世代で、その前に『月刊ベースボール』があったことをそのとき初めて知りました。昭和30年代の長嶋茂雄さんが入る前の雑誌も読みました。また昭和20年代の『ホームラン』という雑誌をまとめて3年分仕入れてきて「1冊100円でいいから」ということで、全部買って読みました。

――大リーグとの出会いは?

その『ホームラン』にジャッキー・ロビンソンストーリーが連載されていました。また、『月刊ベースボール』には内村祐之さん(1897-1980東大医学部名誉教授、プロ野球コミッショナー 野球殿堂入り)が、大リーグのコラムを書いておられた。うちの新聞もその時分は鈴木惣太郎さん(1890-1982 草創期のプロ野球のマネージメントに尽力 野球殿堂入り)が顧問でいらして毎日のように大リーグのことを書かれていました。

長嶋茂雄さんが入団して、各スポーツ紙が人気が上がってきた日本のプロ野球についてのスペースがどんどん増えたことで、かえって大リーグのコーナーが小さくなくなったんですね。昭和20年代の野球ファンは、そういうものを読んで、大リーグのことはわりとよく知っていたんですね。

――報知新聞では、先輩の前藤さんとともに宇佐美さんの下に付かれたのですか?

そうですね。
昭和37、8年頃、当時パ・リーグ記録部におられた宇佐美さんは、週に一度報知の原稿も書いておられたんですね。その記事が認められて、記録部長の山内以九士(1902-1972パ・リーグ記録部長 殿堂入り)さんがパ・リーグを定年でやめたときに、一緒に辞めて報知新聞に入られたのです。

僕が入ったころは、記録室は宇佐美さん前藤さんと集計だけをする先輩がいました。僕がはじめて記録の原稿を書いたのは、2年目のオフでした。それまでは毎日記録の整理をしていたんです。今はBISがあり共同通信社が詳細な情報を送っていますけど、当時はそういうのがなくて、時事通信社が打撃10傑とか簡単な情報を配信しているだけでした。
ですからプロ野球のイニング、ボックススコアなどは、スポーツ新聞が各球場にアルバイトを派遣して、電話で数字を送っていた。それを我々が全部手集計していました。

――当時セ・パ両リーグや連盟はそういう数字は出していなかったのですか。

週報や年報などは出していました。あの頃でも共同通信社を使っていればデータの配信があったのでしょうが、報知新聞は入っていなかったから、全部自分たちでやりました。ファクシミリもなかった時代ですから、各球場から電話で送ってくる成績を速記さんが受け取り、我々のところに送られてくるのです。

僕は会社に入ってから2年間は、今でもスポーツ新聞を飾っている打撃30傑担当でした。
『ベースボールレディレコーナー』という打率や勝率の早見表があるのですが、これを見ながら毎日毎日、打率ランキングを更新していました。

宇佐美徹也さんはこの早見表を高校の時に手作りしていたんです。これを山内以九士さんに持っていったら、山内さんから「こういう本があるんだ」と分厚いレコーナーを見せられてびっくりした、というのは有名な話ですが。

1988年生まれの3人の“先輩”に注目(第599回)

試合当日、僕は毎日、チームの試合数に3.1をかけて規定打席を書きだしていました。そして集計カードをもとに打撃30傑を作る。今はパソコンで何でもできますが、報知新聞では今でも集計カードをつけています。連続無失策の記録とかがすぐにわかりますから。アナログですが、ゼロの記録はカードが違うと忘れてしまいます。

僕は打撃30傑の担当。同期に入ったやつは勝敗表の担当でした。記録室は5人ですがそのうち3人が集計でした。もう一人は投手10傑担当。防御率のレコーナーもあったんですね。

でも間違えるんですよ(笑い)。ぼくはずっとやってて3回くらい規定打席に入っていない選手を入れたりする間違いをしました。
大変でしたが、野球の世界の仕事をしているという楽しみがありました。でも入社1年で5キロ痩せました。夜が遅いじゃないですか。目は悪くなるし。お盆に実家に帰った時に「お前どうしたんだ」って驚かれましたよ。優勝が近づくといろんな表を作らなくてはいけなくて、ずっと休めなかったですね。

――記録部という部署は報知新聞だけがもっていたのですか?

あのころのスポーツ新聞にはプロ野球専属の記録記者が各社にいたんです。今の記録記事は数字が優先ですが、宇佐美さんの原稿は数字をうまく使ってドラマを浮き上がらせていました。宇佐美さんは報知に入った頃は後楽園で5、6回くらいまで試合を見て、それから帰って原稿を書いたりしていたようです。

先輩の前藤さんがしょっちゅう怒られるのをみて「ああ大変だな」と思ってね。僕がつまんない原稿を書くと、口を利かなくなる。で「前藤、お前書け」ってね。あの人は滅多に褒めることがない。たまに「これはちょっと面白いかな」って思った原稿は、宇佐美さんが相当手を入れている。

僕は宇佐美さんに面接で「Runs Batted In(RBI打点のこと)」の意味が解るか、と質問されました。「知りません」って、答えたのがすごく印象に残っています。

<この頁、続く>