【プロとして生きる道はJリーグだけか?】

■インタビュー サッカー選手・和久井秀俊

waku04 【プロとして生きる道はJリーグだけか?  和久井秀俊 Vol.4】

そして、エストニアというわけですね。来シーズンの予定は? ご自身の目標にチャンピオンズリーグというのがあると思うんですが。


「チームの目標は優勝だったので、そこにたどり着けなかったのは、力不足だったと感じます。それだけじゃなく、客観的に自分とクラブの価値を冷静に見て、それなりの力があったかというのを判断するのは大事なことなので、そういう部分では、今シーズンは十分過ぎるぐらい結果を残せたかなと。おかげさまでいくつかオファーは頂いているので、年齢のこともあるし、その中から十分に熟考して決めたいと思っています。目標の一つにチャンピオンズリーグの決勝の舞台というのがあるので、そろそろ5大リーグに挑戦したい気持ちもあるし、ただ今年はヨーロッパリーグ出場圏内で終えたのもあるし…」


年齢的にもちょうど脂が乗っている時期です。


「僕の中で計画があって、18〜27歳は『自分の価値を生んで高める』作業、28〜33は『それを広める・伝える』作業だなと思っていて。具体的なことの一つに、『ヨーロッパ5大リーグに行って結果を残す』というのがあって、ちょうどそのタイミングだし、まあ少し遅いかなという印象もあります。もともとJリーグでプレーしていなかったし、24・25歳でヨーロッパのトップリーグでプレーできるとは考えていなかったので、順調かなという実感はあります」


確かに、サッカー人生の計画として、思い描いた通りに進んでいます。過程では紆余曲折があったことも伺いましたが、結果はその通りです。


「とりあえず、サッカー選手として前には進んでいるのかなとは思います」


サッカー選手である前に、人としてすばらしい人生を歩んでいますよね。クラブや国の状況に左右されますし、なかなか計画通りに進まないことが多いと思いますが、和久井選手はプランを実行できています。


「日本人選手として前例がないのが前提で、サッカー選手としてプロの道を歩んでいるので、『誰もやったことがない』というのはトラブルも起こります。それが降り掛かった時に、問題を解決するのに時間もかかります。サッカー然り、生活然り。シンプルにブラジルへ渡った時のように『サッカーが好き』という気持ちで、どんな国でも、どんなリーグでもプレーしています」


 和久井秀俊のようなサッカー人生を歩んでいる日本人はほとんどいない。単身ブラジルへ渡ってプロになり、アジア、そしてヨーロッパでプレーした選手はこれまでいなかった。どのクラブでも、次につながる結果を残して契約を勝ち取るという意味で。


 彼と話をしていると、プロのサッカー選手も職業の一つだということを痛感させられる。サッカーでご飯を食べるために、自分が何を考え、何を選び、何を追求していくか。その姿は『伝統工芸の職人』に近い。毎日厳しいトレーニングを積んで試合に臨み、また翌週からそれを繰り返す。結果を出し続けて自らの目標、理想にまい進する姿、それは、黙々と毎日の作業を繰り返して働く職人だ。まわりに左右されることなく、ブレずに理想を追い求め、『考え、実行し、結果を見て、また作る』。『自分の理想=オリジナル』に一歩でも近づくために、日々プレーの質を高める練習は、それに重なる。国や環境、状況が変われば、自らの理想や毎日の作業にブレが生じる可能性が大いにあるが、和久井にはない。その強いメンタルが、彼が持つスペシャルな要素の一つなのだ。


 小中高と彼を指導し、今も親交がある恩師の根岸誠一(宇都宮チェルトFC・FCアネーロ代表)も『自分を貫く、ブレない心を持っていた』と語ってくれた。

profile02 【プロとして生きる道はJリーグだけか?  和久井秀俊 Vol.4】

「出会いは、サッカースクールを開いて間もないころです。地元栃木で子供にサッカーを教えていたなかに、和久井もいたんです。5年生ぐらいですか。彼は中学2年生ぐらいまでスクールに通っていました。当時はフットサル場で練習していて、よくブラジル人などの海外の人もサッカーを楽しみにきていたんです。練習後に彼らも交えて試合をしていたんですが、ブラジル人をこてんぱんに抜いていました。


 最初は生意気でしたよ。指導者のいうことは聞かないし、自分が一番だって。一度、私も参加した試合でチャージしたら吹っ飛んだことがあったんです。その時に『やっぱり、プロはスゲー!』って思ったみたいで、その後から一生懸命に練習をするようになりました。昔からサッカーには、とてもまじめでしたし、純粋でした。自分の考えや意見を持っていたので、ずっとブレなかった。


 こんなこともありました。中学生の時に、県選抜に選ばれたんです。普通は指導者にアドバイスをされたら修正します。でも、彼は指導者のアドバイスに納得がいかない場合は、プレーを変えませんでした。そのぐらい芯があった。高校時代も、地元の指導者はみんな和久井に対して『持ち過ぎだ、自分勝手だ』っていっていた。私は一度も彼のことは否定したことはありませんし、『お前は大丈夫だ、やれる』といい続けました。和久井は、長所を伸ばした方が先につながると感じたので。


 プレー面は、ゴールを決めるというより、チャンスを作る方に魅力を感じていたようです。出会ったころからドリブルがうまかったし、シュートタイミングがあっても打たないことも多々ありましたし。よく『遊び心』を持てといっていたので、それが根っこにあったんですかね。小学生のころもブラジル人相手に股抜きしたりしておちょくっていました。サッカーに対しては、全部を楽しんでいました」


 鹿沼東高校は公立校で、サッカーの強豪校ではなかった。3年生の時は、主将兼コーチとして試合の作戦を伝え、プレーしながら交代を命じるなど、一人二役をこなしていた。高校最後の大会、高校サッカー選手権県予選がスタートした時に『試合に集中したいので手伝ってもらえませんか?』と根岸に相談。ようやく、プレーだけに集中したという。そんな決して恵まれないサッカー環境も、和久井という選手を形成するのに大きく影響している。日本では予想もできない出来事が起こる海外で、自分を貫き、サッカーが好きだという純粋な気持ちを持ってプレーしている日本人選手もいる。だからこそ、プロになるのはJリーグがすべてではない。それが王道であることに変わりはないが、別の道もある。彼がたどった、作ってきた道に、これから日本サッカーが発展していくために必要なヒントがたくさん隠されているのは間違いない。(文中敬称略)


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profile 【プロとして生きる道はJリーグだけか?  和久井秀俊 Vol.4】


和久井 秀俊(わくい ひでとし)
1983年2月12日生まれ。栃木県出身。
173cm・65kg/ポジション MF/FW
地元栃木で小学校からサッカーをはじめ、Jリーグ開幕直前まで鹿島アントラーズに所属した根岸誠一が開くサッカースクールに通う。中学校ではサッカー部がなかったため、一時は野球部に入部するも2年時に自らが生徒会長になってサッカー部を創設してプレーを続ける。鹿沼東高校時代は公立校にもかかわらず、3年時に県大会でベスト8に進出。コーチ兼キャプテンとしてチームを引っ張り、卒業を待たずして単身ブラジルに渡ってプロの夢をかなえる


【経歴】
2001年 サント・アンドレ(ブラジル)
2003年 アトレチコ・ジャレゼンセ(ブラジル)
2004年 アルビレックス新潟
2005年 アルビレックス新潟シンガポール レンタル移籍
2006年〜 ファクトール(スロベニア) 完全移籍
2007年 インターブロック(スロベニア)※元ファクトール
2007〜2008年 バッド・オウセー(オーストリア)完全移籍
2008年 NDゴリツァ(スロベニア)完全移籍
2009年 ボヘミアンズ・プラハ(チェコ)完全移籍
2010年 FKミンスク(ベラルーシ)完全移籍
2011年 ノーメ・カリュ(エストニア)完全移籍


取材・文=木之下 潤(Kinoshita Jun)
撮影=赤松洋太(Akamatsu Youta)、佐藤 奨(Sato Tsutomu)