1989年のライブにて

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 1990年代初頭の「虹の都へ」や「ベステン ダンク」などのヒット曲で知られるシンガーソングライターの高野寛(61)。もともとは人前で歌えない、機械いじりの好きな少年だったが、そのギターと歌の才能を高橋幸宏に見いだされ、デビューにつながった。

(全2回の第1回)

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カセットレコーダーにアニソンを録音

 出身は静岡県三島市。幼稚園の頃にはオルガン教室に通い、基本的な鍵盤の弾き方や譜面の読み方を習った。

「人前で歌うことにはすごく抵抗がありました。音楽の時間でも、恥ずかしかった記憶があります」

 自宅にはカセットレコーダーとポータブルのレコードプレーヤーがあった。

1989年のライブにて

「父親が機械いじりの好きな人だったので。レコードプレーヤーでアニメのテーマ曲のソノシートを聴いたり、テレビの前にカセットレコーダーを置いて録音したり」

 覚えているのは、1967年に放送された「キャプテンウルトラ」の曲。円谷プロの「ウルトラマン」と「ウルトラセブン」の間に放送された東映作品だ。

「今思えばすごくジャジーで、子ども心にすごくおしゃれなストリングスやブラスのアレンジだなって思ってたんです。後でクレジットを見たら、主題歌は冨田勲さんの作曲。その頃からそのサウンドには耳を惹きつけられるところがありました」

 冨田は、後にシンセサイザー音楽の先駆者として知られた存在となる作編曲家。その曲やアレンジをおしゃれに思える感覚は、幼少期から培われていたといえる。

学習誌でギターを作り、中学では宅録の真似事も

 そうした音楽への接近と同時に、父の影響か、機械いじりにも傾倒していった。

「プラモデルとかラジコンが好き。学研の学習誌『科学』の付録でゲルマニウムラジオを作りました。同じ付録でエレキギターみたいなものを作ったかな。釣り糸に似たものを張って、それを増幅させて音を出す、みたいな」

 こうした経験が、音楽にも生きた。

「中学に入り、友達からいらないクラシックギターを貰ったんですが、弾くだけでは飽き足らず、エレキギターに改造しました。捨てられていたテレビのスピーカーから取り出した磁石にコイルを巻いてマイクを作り、ギターに取り付け、さらに弦を鉄の弦に替えるとエレキになるんです。それをラジカセのマイク入力につないで、アンプ代わりにする実験をしていました」

 ギタリストに憧れてギター小僧になり、プロになったミュージシャンは数知れないが、工作の延長線上で「エレキギターって面白そう」と、ものづくりと音楽を結び付けていったのが高野少年だった。

「その頃から洋楽のヒットチャートを聴くようになり、歌謡曲以外にも関心が広がって、自分でもギターを弾くようになった。さらにYMOが出てきて『テクノロジーを使った音楽でこんなことができるんだ』と初めて知りました。同時に宅録(自宅録音)の真似事のようなことも始めたんです」

 後の恩人ともなる高橋幸宏がメンバーだったYMOとの“出会い”は「ライブ・フロム・ザ・ボトムライン」というラジオ番組で耳にした1979年のYMOのワールドツアー音源だったという。

「シンセサイザーとコンピューターの奏でる無機質な音が新鮮で「未来の音楽」みたいだなと。演奏はフュージョンのようでもあり、楽曲もキャッチーだった。高校に入る直前にセカンドアルバムの『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』を買って更に衝撃を受け、『自分でもやってみたい』と、高校入学と同時に同級生とバンドを組むことになりました」

最初はベーシスト

 同級生と組んだバンドでは当初、ベーシストだった。後の経歴を考えると意外である。

「リードギターをうまく弾ける気がしなかったので。YMOに憧れていて、ギターでヒーローになりたいというより、細野晴臣さんのことが何となく頭にあったのかも。でも、機材を買うお金もないし、何よりYMOって意外と曲が難しい。だから普通にハードロックをやったりしていました。最初はクイーンやポリスのコピーで」

 やがてオリジナル曲を演奏するようになり、コンテストにも応募した。

「テープ審査で予選落ちでした(苦笑)。仲間と入り浸っていた楽器店が浜松市にあり、そこのお兄さんがすごく気さくで『お前ら絶対プロになんかなれないよ』と軽口を言うんです。高校生は大人の言うことを信じますし、コンテストでの予選落ちもあって、自分はプロにはなれないと思っていました」

 この頃はボーカルが受験のために抜け、高野が歌うことになったが、次第に人前で歌うことに抵抗はなくなっていた。

「ただ歌うことにカタルシスはなかったなあ。歌で注目を浴びたいという自己顕示欲もなかったし」

芸大に進むも苦悩の日々

 高校は進学校だったが、ついていけず、大学受験では第1志望に落ちた。東京で浪人生活を送ったものの、予備校でも授業の内容が分からず、現実逃避で文庫本を手あたり次第に読んでいた。

「一番感銘を受けたのは夏目漱石の『こころ』。ほかにも、三島由紀夫の文体や安部公房の世界観が好きで、谷崎潤一郎にもハマりすぎて、読書しているうちに電車を乗り過ごしたことも。このときに得たボキャブラリーが後の作詞にもつながりました」

 結局、大阪芸術大学に進み、ゆくゆくは機械と音楽という二つの好きなものを両立させる仕事をしたいと考えていた。

「楽器メーカーやエンジニア関係を考えていましたが、バンドに熱中してしまい、学業はすっかり疎かに。本当に成績が悪かった。自分は理系だと思っていましたが、楽器は自作できてもその理論が分からない。どんどんドロップアウトしていく感じでした」

 大学では友人たちといくつかのバンドを組む傍ら、本格的な宅録を始めた。

「トッド・ラングレンに憧れ、1人で機材を揃えて、本格的に録音を始めました。今でこそ宅録という言葉がありますが、当時は結構珍しかったんじゃないかな。高校の頃から坂本龍一さんのラジオを聴いていたので、1人で音楽を作る面白い人たちが全国にいることは認識していました。テイ・トウワ君なんかはその1人。自分もいつかそういうところに食い込みたいと思っていました」

 だが作品をあらゆるコンテストに送るも受賞はならず。「やっぱりプロにはなれないのかな」と諦めかけていた。

高橋幸宏との出会い

 ところが大学2年の時、あるオーディションに送った作品が「うちのカラーには合わないけれど、面白い音楽をやっているからもっと続けて」と初めて称賛された。それでも自分自身へのネガティブな評価は拭いきれなかったが、3年時の1986年、鈴木慶一のバンド「ムーンライダーズ」とYMOの高橋幸宏主宰のオーディションを知り、応募する。

「何かいい評価がもらえれば、と思っていたところ、最終選考まで残って。東京で行われたライブ審査でベストパフォーマンス賞をいただきました。まさに青天の霹靂で、何より憧れのYMOの幸宏さんに認めてもらえたことが驚きでした。習作を重ね、断片的で手あたり次第に作っていた頃から少しずつ積み上げていったものが、やっと形になった時期だったのかも。自分らしさが見えてきたタイミングだったと思います」

 この受賞後、デビューまで2年を要したが、それに先んじて、鈴木と高橋のユニット「THE BEATNIKS」のギタリストとしてツアーに帯同することになった。

「すごく貴重な経験でした。もう1人のギタリスト、大村憲司さんのプレイに打ちのめされて。やはりプロは本当に凄みがあり、コンテスト受賞で天狗になっていた自信を粉々に打ち砕かれ、失いかけました。そんなとき、幸宏さんが僕のデモテープを聴いて『声に特徴があるから自分で歌ってみたら?』と背中を押してくれたんです。幸宏さんとの出会いがなかったら今の自分はないし、シンガーソングライターとしての形を作ることができたのも幸宏さんのアドバイスのおかげです」

 高橋は声だけでなく、曲も褒めてくれた。

「そこから集中して自分で日本語の詞を書き、どんどんペースを上げて曲を作るようになりました。デビュー前の1年間で作りためた曲が、デビューしてから3年間ぐらいの蓄えになったんです。歌の世界観は、結局、人生経験の反映。学校と自分の部屋を往復するだけの世界から一転、ツアー以降の約半年間で、それまでの人生にはなかった驚きの経験をいっぱいさせてもらって、視界が開けたんだと思います」

 当初はバンドデビューの話もあったが、大学卒業後の1988年10月、高橋のプロデュースでシングル「See You Again」を発売、ソロでデビューを果たした。

「想像を何倍も上回る現実が目の前にやってきて、デビューしたという実感が伴わないような感覚。それでも発売日はレコード店に行きましたよ(笑)」

 高野がヒットチャートを賑わせるようになるまでには、さらに1年以上を要した。

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 高橋幸宏との出会いからデビューを果たした高野。第2回【スキーCMで大ヒットした「虹の都へ」 高野寛を“宅録青年”から“ヒット歌手”に変えた出会い】では、大ヒットとなった「虹の都へ」や、近年のライブなどについて語っている。

デイリー新潮編集部