アスペルガー症候群の特性を持つケンイチさんは仕事で定型発達の人とたびたびトラブルになった。「どうして定型の人は他人の足を引っ張るのか。彼らの感情は非論理的で理解しづらい。定型の人がそうであるようにアスペルガーのほうも定型に違和感を覚えています」(筆者撮影)

現代の日本は、非正規雇用の拡大により、所得格差が急速に広がっている。そこにあるのは、いったん貧困のワナに陥ると抜け出すことが困難な「貧困強制社会」である。本連載では「ボクらの貧困」、つまり男性の貧困の個別ケースにフォーカスしてリポートしていく。

今回紹介するのは「自動車系エンジニアとして20年以上働いておりますが、ASD(自閉スペクトラム症)に由来する共感力やコミュニケーション力の低さで困っております」と編集部にメールをくれた47歳の男性だ。

自分だけが嫌われているといった疎外感

喫茶店で待っていると、ケンイチさん(仮名、47歳)が約束の時間ぴったりに現れた。手渡された名刺の肩書は合同会社社長。連日の殺人的な暑さについての愚痴をこぼし合いながら席に着く。すぐに「私はここのリッチブレンドが好きなんですよ」と微笑みながらメニューを広げてくれた。

ケンイチさんにはアスペルガー症候群(現在の自閉スペクトラム症)の特性がある。事前に「コミュニケーションの問題を改善したいので、不協和音を感じたら指摘してほしい」と言われていた。しかし、会話のキャッチボールは心地よい。ただひとつだけ、視線が少し強いように感じた。一般的に同症候群の人は他人と目を合わせるのが苦手だとされる。

私が「もしかして私の目を見て話すよう努力してくれてますか?」と尋ねると、ケンイチさんは一瞬驚いた後、苦笑いした。「めっちゃしてます。やっぱりわかるものですか?」。

物心ついたときから家族や友人と一緒にいても、自分は普通とは違う、浮いている、自分だけが嫌われているといった疎外感があった。ケンイチさんの体験に耳を傾けてみよう。

小学生のころ、親から「出ていけ!」と叱られ、本当に家から出ていったことがある。衝動的に飛び出したのではなく、ただ命令に従ったつもりだったという。当たり前だが、すぐに見つかって「なんで家出なんてするんだ」とさらに怒られた。学生時代にいわゆるブラックバイト先の店長から「やる気がないなら帰れ!」と怒鳴られ、帰り支度を始めたときも「なに帰ろうとしてんだ。それくらいの気持ちで働けって意味だ!」とキレられた。

「定型の人はなぜうそをつくのか」

こうした経験から得た“教訓”は「定型発達の人の言葉を額面どおりに受け止めてはいけない」。定型発達とは発達障害ではない人のこと。「定型の人はなぜうそをつくのか。本気じゃないなら言わなきゃいいのに」とケンイチさんは首をかしげる。

バイト先の店長はともかく、親が家出を叱責したのは心配や愛情の表れでもあったのではないか。私がそう尋ねると、「そういう発想はなかったです」と返された。

学校の成績はトップクラス。大学では機械工学を専攻した。ただ依然として周囲との壁は感じていた。思い切って知り合いに「僕、なんか悪いところある?」と聞いてみた。すると「自分の興味のある話題になると、一方的にしゃべり続けるところがあるよね。こっちはちょっとびっくりする」と指摘された。

卒業後は大手自動車メーカーに就職した。そのころ男女10人ほどでキャンプに行ったときのこと。それぞれが火起こしやバーベキューの準備をする中、ケンイチさんだけは何もせずグリルの前に座っていた。すると友人の1人から「自分で考えて動いてよ」と注意された。

ケンイチさんは友人らの指摘をどう受けとめたのか。

「話がおもしろくないなら、そのときに言ってくれればいいのにって思いました。私だったら『その話、興味ないよ』と言いますね。それで嫌な気持ちになったりはしません」

キャンプ場での出来事については「周囲を見てもやることがなかったから座っていたんです。それが定型からはさぼっていると見えちゃう。働いてるアピールをしないといけないんだなと思いました」。

定型発達からは発達障害のある人は「変わった人」に見えるかもしれないが、発達障害からすると定型発達こそ「変わった人」というわけだ。定型発達の“常識”に違和感を抱きながらも、ケンイチさんは友人からの指摘や自身の失敗体験を基に、定型発達が多数を占める社会に“同化”するための努力を重ねた。

最も重要なのは「会話はキャッチボール」。同僚から「話を聞いているのかわからない」と言われてからは「ちゃんと聞いているのに」と思いつつも、「そうですね」「わかります」「ですよねー」といった相づちを心がけている。飲食店では率先してメニューを開いて注文を取りまとめる。職場では「何かお手伝いすることはありますか」と言って気を配る。

「すべては定型の人たちの真似。パターン化です」

本から知識を得ることも多いといい、電子書籍端末「Kindle」の購入履歴には『アスペルガーのための会話術』『もしかしてアスペルガー!?』といったタイトルが並ぶ。

ケンイチさんは「すべては定型の人たちの真似。パターン化です」とにこやかに語る。一方で「自分が周囲になじめないのは、社会のせいではなく自責だと考えるようにしてきました。あがいてあがいて、泥沼の中をはいずり回るような毎日です」と言い、同化の道のりは決して平たんではなかったようだ。

ケンイチさんが努力する理由は、周囲ともめることなく仕事をしたいからだという。しかし、残念ながらそれは簡単にはいかないようだ。

大手自動車メーカーでエンジニアとして10年ほど勤めた後、複数の国内外の自動車メーカーを渡り歩いた。退社やリストラの原因は人間関係のトラブルであることが多い。現在の合同会社は自動車部品の設計を手がけているが、それもコロナ禍で再就職先が見つからない中、やむを得ず起業したものだという。

ケンイチさんによると、仕事では「特定の性格の人」とよくトラブルになる。特定の性格とは「頭がよくなくて仕事ができないのに、イエスマンで出世だけは早い人」。カテゴリーとしては、定型発達に属する人たちである。

一度決まったアイデアを上層部の意向だからという理由で翻意する上司、ケンイチさんが優れた実験結果を出したのに「お前ごときにこんな成績が残せるわけがない」とののしってくる上司、設計の実績もないのに執拗にダメ出しをしてくる同僚――。ケンイチさんが反論しようものなら「あいつは反抗的」「うそつき」といったレッテルをはられるという。

話を聞く限り、会社員時代のエピソードはすべてケンイチさんが全面的に正しいものばかりだった。パワハラは100%加害者が悪い。ただ人間関係がこじれるときは、何かしらきっかけがあるものだ。その点をケンイチさんに尋ねると、そこはわからないのだという。

「私は人をカチンとさせる余計な一言を言ってしまうらしいんです。でも、具体的に何が地雷だったのかわからない」。ただそこを自覚できなければ、コミュニケーションの改善には限界があるのではないか。私がそう指摘すると、ケンイチさんは「おっしゃるとおりです」とうなずいたうえで、次のように主張する。

「私は真面目に仕事をしていいものをつくりたいだけ。でも、日本の会社で(定型発達の人に)意見をすると、人格を否定したかのように受け止められる。日本の組織で重用されるのは、よい製品をつくるために議論しようとする人ではなく、上司の顔色をうかがうことができる周りともめない人」

もめる相手はもっぱら日本人

私事になるが、私も会社員時代は上司から「和を乱す人間」と苦言を呈されていたクチだった。だから、ケンイチさんの言い分には共感できる部分もある。

たしかに発達障害のある人にとって、同調圧力が比較的強い日本より欧米社会のほうが生きやすいという話はよく耳にする。ケンイチさん自身、もめる相手はもっぱら日本人。一度アメリカ人上司との間で行き違いが生じたときは、激高した上司からNGワードを含む罵声を浴びせられたが、誤解が解けた後は屈託のない関係に戻ることができたという。

発達障害の特性はさまざまだ。中にはケアレスミスや遅刻、忘れ物が多い、集中力が続かないといった理由で仕事が続かない人もいる。一方でケンイチさんの場合は、ずば抜けた能力の高さが仇になっているようにも見えた。

40代半ばをすぎた今も仕事を始めると、集中して気がつくと半日近く立っていることはざら。英語も独学でマスターした。自身が手がけた自動車部品は今まで一度もリコール対象になったことがないという。

転職を重ね、起業する中で貯金は底を尽いたものの、会社は黒字経営である。起業初年こそ年収は約120万円だったが、現在は同300万円までアップ。それでも会社員のほうが安定していると思い、就職活動を再開したところ、最近外資系メーカーへの転職が決まった。

「会社を黒字化させ、40代で外資に転職する。それができる私はそこそこ優秀だと思うんです」。強気に語る一方で、将来の不安はぬぐえない。再就職が決まったとはいえ、クビになればすぐに困窮状態に陥ることは目に見えている。「(転職先で)また日本人ともめて退職することになるのではないか。それが怖いです」

ケンイチさんが発達障害を疑い心療内科を受診したのは5年ほど前。専門的な検査などの結果、アスペルガー症候群の特性があることがわかったが、医師からは診断はしないと告げられた。理由は社会適合できているから。医師の説明は「相当努力されたのですね。でも社会適合できている以上、それは障害ではなく個性です」というものだった。

「なんじゃそれ、と思いました」とケンイチさん。発達障害のある人はできることと、できないことの凹凸の差が大きいといわれる。ただその中間にはケンイチさんのように「本当はできないけれど、膨大なストレスを抱えながらなんとかできていること」がある。医師の見解は正しい。しかし、「個性」の一言で片づけるには、これまでケンイチさんが重ねてきた努力と、払ってきた代価はあまりに大きい。

ケンイチさんは「(医療機関では)もっと楽に生きられるようなリハビリやサポートを受けられると思っていました」という。ちなみにこのときの受診でIQが127と高水準であることを初めて知った。

あなたは定型発達になりたいのですか? そう尋ねると、ケンイチさんはこう答えた。

「私は独りでも平気です。可能なら株でもうけて大学院で好きな研究をしたい。ただ実際には働いてお金を稼がなくてはならない。そのためにできるだけ定型に合わせて周囲と摩擦を起こしたくないだけです。日本の会社ではそれができなければ迫害されますから」

では、本当は変わるべきは定型発達の側だと思っていますかと重ねて問うと、ケンイチさんは黙ってうなずいた。そして最近の日本の技術発展や輸出をめぐる環境の変化についてこう持論を述べた。「この間日本は家電でも、半導体でも、新幹線でも、原子炉でも負け続けています。それはイエスマンばかりを重用するような貧しい考え方が招いた結果なのではないでしょうか」。

本連載で話を聞く発達障害のある人は就労がままならず、大人になってから診断を受けたという人が多い。社会適合という意味ではできていない人がほとんどで、この点においてケンイチさんとは大きく違う。彼らは「子どものころに障害がわかっていれば、もっと生きやすかった」と嘆く。この願いは切実だ。幼少期に障害がわかれば、服薬や生活療法などで凹凸による不適合は一定程度軽減される。

ケンイチさんに感じた「不協和音」を指摘

しかし、それは本当に望ましいことなのか。凹凸にしたってしょせん定型発達の“物差し”にすぎない。発達障害のある人が社会に適合できないのは、彼らの問題なのか、それとも社会の問題なのか。発達障害と定型発達の違いは、どちらが社会のマジョリティーであるかでしかないともいえる。定型発達の“常識”に合わせるかのような治療法について、ケンイチさんは自らの仕事になぞらえ「量産型の車を大量につくり出すことと同じかもしれませんね」と言った。

取材で話を聞いた後、私はケンイチさんに感じた「不協和音」をあらためて指摘した。


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ケンイチさんは何度か「定型発達の人は平気でうそをつく」と口にしていた。それだとすべての定型発達がうそつきと言っているように聞こえるので、「一部の」とか、「そういう人もいる」というニュアンスを付け加えたほうがよいのではないか。また、ケンイチさんは「私は英語もしゃべれる」「外資系でも働いていた」と発言していたが、それは自慢話とも受け止められかねないので、特に初対面の人にはもっとオブラートに包んだ表現をしたほうがよいかもしれない――。

ケンイチさんは「なるほど」と相づちをうち、メモを取りながら聞いてくれた。

でも、私は指摘をしながらふと思ってしまったのだ。定型発達の人間はつくづくどうでもよいことに忖度しているのだな、と。

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(藤田 和恵 : ジャーナリスト)