日本企業の過度な品質追求が調達難を招いている(写真:Ichi/PIXTA)

「日本はNATOと呼ばれています。もちろん、NATO(北大西洋条約機構)ではありませんよ。Not Action Talk Onlyです。話すだけで何も動いてくれない」

ジャパン・アズ・ナンバーワンと呼ばれたのは遥か昔のこと。社内調整が多く、数%の値下げに数カ月かかる日本企業は、諸外国にとって極端に面倒くさい「客にするメリットのない存在」になっている。その結果、半導体、LNG(液化天然ガス)、牛肉、人材……など、さまざまなものを「売ってもらえない国」になってしまった。

われわれは、「買い負け」という国難をどう乗り切るべきか――。本稿では調達のスペシャリスト・坂口孝則氏の新著『買い負ける日本』より、日本企業の過度な品質追求が調達難を招いている現状について綴ったパートを、一部抜粋してお届けする。

品質追求に起因する調達難

日本企業と日本の消費者は、過剰なほどに品質にこだわる傾向がある。その品質追求は、ときとして品質追求を「自己目的化」させる。それによって、品質を上げることの費用対効果等の「冷静なコスト計算」が難しくなる。

品質の見直しをせずに、従来を踏襲しながら新機能を追加するので、調達品の点数は増えるばかりになり、さらに仕入先が使用している調達品も変えさせようとしない。種類は削減されず、莫大な種類が放置され「調達品の固定化」をもたらした。

結果、一つひとつの調達品の購入量は減り、ボリュームはまとまらなくなる。安価に買うことが難しくなる。さらに、「売ってくれない」「納期も間に合わない」状況が加速する。

順に説明していく。

日本企業と日本の消費者は品質追求が自己目的化している

私が二十数年前に仕事を始めたときのことだ。「調達難? それなら、違うやつを調達したら? あるいは少しぐらい質の劣るものを調達したら?」と思ったものだ。しかし話はそれほど単純ではない。とくに質を下げるのは許されない。

ここで、とある大手食品メーカーのマネージャーに登場いただこう。

「よく日本の食品関係者はクレームに怯えすぎだといわれます。それは私たちが社内で議論するポイントでもあります。たとえば提供する食品に多少は黒い斑点があっても危害性がなければ問題ないんです。海外の仕入先に、日本の消費者のクレームを見せたら『Unbelievable!』と驚かれましたよ。過去に、品質を過剰に守ろうとして、不要な商品回収をした例もあります。それに営業とかマーケティング側がビビりすぎている側面はありますね。

ただ問題なのはクレーマーとして片付けられないんですね。そりゃ『歯にくっつかない海苔を開発しろ』とかメチャクチャな苦情もありますよ。でもね、クレーマーの背後には同じ感想をもつ消費者がたくさんいるようで、対応しないと売れなくなっちゃう。

だから日本のメーカーはまじめに対応していると思いますよ。日本市場を無視できればいいけれど、そうはいかない。『こんな高い品質は必要か?』と思っても、対応せざるをえない。ちょっと前に、メディアが『ステルス値上げ』と報じましたよね。価格は同じだけど容量を減らす。卑劣と言われましたが、どうすればいいんですかね? 品質を下げると買ってもらえない、価格を上げると消費者が離れる」

聞くほどに絶望的な状況のようだ。

「とにかく種類が多すぎるんです。居酒屋は数百種類の食材を使う。これをすべて、安く、安全で、品質の良いものを調達するなんて不可能」。

現実と本音の境目で苦しんでいる様子が見て取れる。

しかし、問題になるのが品質追求の自己目的化だろう。

私は自動車メーカーの研究所で働いていた経験がある。勤務地の地方都市で、休日に私はよく知る自社の技術者と家電量販店で出くわした。彼はテレビの購入を検討していた。安価な外国製テレビを確認していたので「日本メーカーのテレビにしないのですか」と訊くと「まあテレビなんて見られたらいいんじゃない」と答えてくれた。象徴的だった。

日本の自動車メーカーは自社製品の品質に徹底的にこだわっている。たとえば、自動車メーカーの技術者と出張に行くと、その旅程で乗った自動車のシートだとかインストゥルメンタルパネルの出来だとかドア開閉時の雑音レベルについて仔細な解説をしてくれるはずだ。しかし他商品を購入する際にはそれらの特徴が漂白され、「まあ見られたらいいんじゃない」と一般消費者の感覚に戻る。

本業で行っている品質の追求はなんのためだろうか。品質を上げるのは崇高だし、非難されるべきではない。ただ結局は程度問題ではないだろうか。高品質とはいえないそれなりの品質で韓国などアジアのメーカーは日本を超していった。品質の違いは生産している日本企業自身は理解しているが、お客にとってみるとさほど大きな違いはない。

さきほどの食品メーカーの例がある。これも結局は程度問題だろう。日本人の消費者がわかるところと、気にしないところを分ける。多数がわからないところまで注力する必要はない。

商品に新機能を追加するのは、企業が営業しやすいためだといわれる。「競合メーカーにはない新機能がある」といえば売り込みやすいからだ。しかし、家電専門誌の編集者いわく「機能インフレ」が起きており、誰も使わない付加性能にあふれる。おそらく家電を買って分厚い説明書を読んだことのある人はいないのではないだろうか。

もっとも細部までこだわるのも企業にとって自由だし、逆に品質を抑えてもよく、現在では海外への販路も開かれている。

冷静なコスト計算の欠如

かつて私はアメリカのEC業者と話していてその合理性に驚いたことがある。アメリカの一軒家が続く街並を想像してほしい。その企業では配達のとき、たとえば書籍などを道からぽいっと玄関に投げてしまうという。この話を聞いた当時、日本ではアマゾンなどの置き配もはじまっていなかった。

私は「そんなことをして、雨ざらしになったり、盗難に遭ったりしたらどうするのですか」と訊いた。答えは明確で「代品を送付したらいい。そうしたほうがコストは低い」だった。

この日米のどちらがいいか、これは価値観としかいいようがない。ただ、アメリカ企業は不具合があったとしても、トータルで考える。不具合を事後にカバーしたほうが全体のコストが安価であれば、よしとする。

これはサービスだけではなく商品製造においても同じだ。私はかつて中国の深センにある工場に出張した。同行した日本側の技術者は不良品率を0にするためにあれやこれやと工場ラインに注文をつけた。すると中国側からは「良品率を95%にするのは簡単です。しかし、100%にしようと思えば莫大なコストがかかります。それでもやりますか」と訊かれた。こちら側は「各工程を見直してできるだけ努力しよう」と答えた。

この中国側の回答には一理ある。さすがに良品率95%は低いと思うものの、たとえば98%か99%であれば十分で、それを100%にもっていこうと思えば、そのコストは商品価格に転嫁される。それは最終消費者にとっても得策だろうか。

日本企業は設備を丁寧に使い続ける。これを美徳のように語る経営者は多い。しかし、これは新規の設備を導入したときの生産性や利益を計算できていない可能性がある、と私は思っている。さらに、ずっと使うから、逆に困ることもある。補修部品が見つからないのだ。全国の担当者は奔走して代替部品を探したり、なんとか旧来の図面の製品を強引に作ってもらったりしている。このコストは計算しているのだろうか。

品質追求の結果としての現状踏襲

冷静なコスト計算をすることなく、ひたすらに品質追求をしているうちに、現状踏襲に陥ってしまった。品質が少し悪くてもコストを下げられないか、と検討すれば全体を見直す余地がある。しかし、検討しない以上は、既存の踏襲になる。

さらに深刻な背景がある。

半導体の節で引用した装置メーカーのサプライチェーン統括者が教えてくれた。

「これは日本だけの問題ではないと思うのですが……。技術の伝承が進んでいないのと、システムが複雑怪奇になっている。その状態で顧客の要求に応じて次々と新商品だったりカスタマイズ商品だったりを作るでしょう。

すると、以前のモデルを引き継いで設計しなきゃいけない。昔のモデルに古い部材が組み込まれているとします。誰が勇気をもって変更するでしょうか? 同じスペックで新しい部材は発売されていますよ。でもあえて選びはしない。何が起きるかわからないし。変更しなければ、少なくとも動きはします。こういうことを繰り返しているうちに、設計者は全体のシステムの一部分だけを作ることになり、誰も全体像がわからなくなる。

だから『これ何十年前の部材だ?』ってものを探すハメになるんです。もう何世代も前の部材ですよ。そのメーカーの人だって若い営業さんは知らなかったり、すでに在庫も枯渇したりしている」

類似の話を多く聞いた。つまり、納期が逼迫している状況だったとしても、日本企業の多くはただでさえ入手困難な部材を使い続けているのだ。より納期が遅延する土台を自ら作ってしまったといえるだろう。

アメリカは80年代にモノづくりを捨てた。捨てた、が言いすぎならば、少なくとも縮小した、とはいえるだろう。だからアメリカはソフトやIT分野に舵を切った。そこでアメリカはモノづくりの中堅エンジニアが圧倒的に減少した。とはいえ、アメリカはソフト分野でメシを食うようになったし、製造は他国に任せるようになった。

ただ日本ではモノづくりは捨てていない。その道は捨てていないものの、技術伝承が進んでいないのは問題ではないだろうか。もちろん極端にいえば、技術伝承が進まなくてもいい。品質不良ゼロを求めなければ、イチから設計すればいい。しかし、現実的には品質不良ゼロを求められる。とすれば、現状の内容を踏襲するほかない。少なくとも現状の製品にはクレームがないのだ。だから大胆な変更を避けようとするのは当然だろう。

日本企業は商品のマイナーチェンジばかり

品質を守るために、部材を変更できない、と多くは言う。しかしその意味は、積極的な品質維持というよりも、消極的な品質維持らしい。品質の見直しをせずに、部材が追加されるので、点数ばかりが増えていく。


似たような話は発電機器類を販売している企業でも聞いた。会話の主はベテランの調達担当者だ。

「昔は、こちらからVA提案(コストを下げる技術的提案)をするでしょう。すると真剣に考えてくれて、いろいろと議論を重ねたものです。しかし、もう無理ですね。技術者の世代が替わって、人数が限られたなかでさまざまな製品を作らねばならない。彼らも客から言われた箇所だけを変更する。全体のシステムを理解する時間もない。

だから、こちらが大幅に修正したら安くなるよ、といっても検討すらできない。全体をいじったら何が起きるかを想像できないためです。だから高いし、時代遅れだし、納期も遅い部材を使い続けています。これはけっこう絶望的な状況ですよ。何を提案しても、まずはダメから入りますからね」

旧来の製品は品質が安定しているから現状維持。追加のところは安全に安全を重ねようと、多重に高仕様を施す。そしてバラバラに設計するものだから、部品や部材、材料の種類ばかりが増えていく。

日本企業は商品のマイナーチェンジばかりを繰り返している。ただでさえ部品や部材の点数が増えている状況だ。標準化が進んでいない。

私が自動車産業で働いているとき、「日本の技術は世界で一番」と自負していた。しかし、ほんとうにそうなのだろうか。おそらくこれは品質を意味するだろう。しかし、技術とはさまざまな側面があるはずだ。部品や部材の点数ばかりが増加し、技術伝承も進まず品質に関わるところがブラックボックス化する状況を世界一と呼ぶのだろうか。

(坂口 孝則 : 調達・購買業務コンサルタント、講演家)