左からビリー・ジョー・アームストロング(グリーン・デイ)、ラモーンズ、パティ・スミス(Photo by Ebet Roberts/Redferns/Getty, Ian Dickson/Redferns/Getty, Dick Barnatt/Redferns/Getty)

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2コードと世に物申すアティテュードで、ロックの未来を切り拓いたはみ出し者たち。グリーン・デイ、ラモーンズ、パティ・スミスまで、音楽史に名を刻んだパンクアルバム40枚を紹介する。

1976年、クイーンズ出身の冴えない4人の若者がニューヨークのバウアリーで異形のノイズを発した瞬間、パンクロックは誕生した。彼らが火を点けたその革命は、ロックンロールの歴史を真っ二つに分断した。シンプルであることに徹底的にこだわるパンクロックは否定の手段として誕生したが、その多様な音楽性と感情を爆発させるツールとしての有効性は今も失われていない。ロック史の金字塔となったラモーンズのデビューアルバム発売40周年を記念し、史上最高のパンクアルバム40枚を以下に掲載する(編注:US版記事は2016年初出)。

ラモーンズがパンクロックの始祖であったとしても、偉大な先達たちなくして彼らは存在しなかった。ストゥージズ、ザ・ニューヨーク・ドールズ、ペル・ウブ、パティ・スミス等、本リストにはパンクという言葉が生まれる以前から(音楽性の面よりも)そのスピリットを体現していたアーティストたちの作品も含まれている。「そもそもパンクとは何なのか?」という昔ながらのテーマについても、ここでは敢えて触れていない。ピストルズやクラッシュ、ブラック・フラッグ、ザ・ディセンデンツ、マイナー・スレット、ハスカー・ドゥ、バッド・ブレインズ等といったバンドのみならず、本リストではマルクス思想とディスコを融合させてみせたギャング・オブ・フォー、凍りつくようなゴシックの世界観を打ち出したジョイ・ディヴィジョン、異形のニューウェーヴを鳴らしたディーヴォ、モッズを蘇らせたザ・ジャム、レゲエに暴力性を持ち込んだザ・スリッツ、ギターサウンドをアートの領域に持ちこんだテレヴィジョンやソニック・ユース、21世紀にストイックなノイズの轟音を鳴らすホワイト・ラングまでが名を連ねている。アナーコ・パンクの伝道師たるクラスはそのキャリアを通じて、ブリンク182のような商業的バンドにパンクを汚させまいと戦い続けた。両者にはそれぞれの魅力があり、どちらも本リストに登場している。

バンドではなく「アルバム」を対象としていることから、本リストでは数多くの偉大なパンクバンドが非選出となっている。ザ・サークル・ジャークス、アドルセンツ、フィアー、ザ・ビッグ・ボーイズ、ザ・ディッキーズ、ザ・ディックス、そしてあのダムドさえも登場していないのは、本誌編集部の記者たち全員を納得させる完璧な1枚が存在しないと判断されたためだ。結果的に本リストでは、音楽性の面ではやや逸脱しながらもパンクのスピリットを体現しているレコードが多く選出されることになった。「自由こそがパンクロックの意味であるべきだ」 『ネヴァーマインド』がアメリカのメインストリームを席巻した1991年に、カート・コバーンはそう語っている。本リストはその自由がどこへ向かったのかを示す指標となるはずだ。

40位 デッド・ケネディーズ『暗殺』(1980年)


デッド・ケネディーズのデビューアルバムは、まさにハードコア・コメディの極北だ。「カリフォルニア・ユーバー・アレス」や「ホリデイ・イン・カンボジア」等において、シンガーのジェロ・ビアフラはジョニー・ロットン顔負けの間抜けな皮肉屋を演じている。ギタリストのイースト・ベイ・レイの優れたテクニックも手伝って、『暗殺』はフィアーやアドルセンツといった同世代のライバルたちの作品よりも大きなインパクトを残した。

39位 ディーヴォ『頽廃的美学論』(1978年)


パンクバンドであると同時に、パフォーマンスアート集団でもあったオハイオ州アクロン出身のディーヴォは、素晴らしくひねくれた異形のニューウェーヴを鳴らしてみせた。ロボット工学やドナルド・マクドナルド、さらには共食いする類人猿に至るまで、多様なトピックについて掘り下げる彼らのデビューアルバムは、退化こそ未来だと主張してみせた。

38位 ホワイト・ラング『Deep Fantasy』(2014年)


パティ・スミスとスティーヴィー・ニックスの娘がフロントマンを務めるブラック・フラッグかのごとく、バンクーバー出身のホワイト・ラングはあらゆる曲でその欲望を爆発させる。ハイライトである「Drown With the Monster」「Face Down」等のスプラッター・ノイズ・アンセムはどこまでも新鮮だ。誕生から40年を経たパンクの遺伝子を、彼らは間違いなく受け継いでいる。

37位 ブリンク182『エニマ・オブ・ザ・ステイト』(1999年)


ブリンク182のサードアルバムは、グリーン・デイの『ドゥーキー』を大胆でキャッチーなジョークへと仕立て上げたような作品だ。ポップパンクの金字塔となった本作は、発売から実に70週間に渡ってチャートに居座り続けた。高慢な批評家たちからはたちの悪い冗談だとこき下ろされながらも、彼らは驚くべきタフさをもって世代を超えたファンを獲得してみせた。本作におけるより洗練された楽曲群には、ディセンデンツやミスフィッツといった大御所たちからの影響が垣間見える。

36位 クラス『Penis Envy』(1981年)


イギリス発の政治的アナーキスト集団クラスは、賞賛に価する厳格さをもってその教義を実践してみせた。今日でも健在のとある集合住宅で結成されたクラスは、自主レーベルCrass Recordsの運営から、独自のマルチメディア・プレゼンテーションのデザインまで、あらゆることを自分たちだけでこなした。アンチ性差別主義を掲げた『Penis Envy』は、彼らの政治思想を裏付けるラディカルなマニフェストだ。

35位 フガジ『13 Songs』(1989年)


元マイナー・スレットのメンバーであり、エンブレイスのリーダーだったイアン・マッケイは、新たなプロジェクトで芸術とさえ呼べるヴィジョンを提示してみせた。彼が仲間たちと結成したフガジは、体が無意識のうちに反応するポスト・ハードコア・サウンドを確立し、「Waiting Room」はアメリカにおけるパンクカラオケの超定番となった。社会的勢力と呼べるほどの影響力を誇ったフガジは、リードシンガーのガイ・ピッチオットが唱えた「『ノー』の力」を徹底的に実践し、チケット代を5ドルに固定していたコンサートでは年齢制限を設けず、グッズのライセンス契約も一切結ばなかった(その結果「This Is Not a Fugazi T-Shirt」とプリントされたブートレグのTシャツがファンの間で出回ることになった)。

34位 ジョイ・ディヴィジョン『アンノウン・プレジャーズ』(1979年)


ジョイ・ディヴィジョンほど疎外感の表現によって人々を惹きつけたパンクバンドは存在しない。イアン・カーティスの霧笛を思わせるバリトンボーカルと、氷原のように殺伐としたその音楽はゴス・パンクというジャンルを生み出した。それでもなお、彼の逼迫感に満ちた歌声と、バンドの金属質なサウンドには独自の美しさが備わっていた。本作のリリースから1年を待たずして、カーティスは自ら命を絶った。

33位 ザ・スリッツ『カット』(1979年)


「あたしらに払えるわけない!」というキャッチフレーズを含め、アナーキーかつユーモラスな「ショップリフティング」等で、ザ・スリッツはレゲエビートとパンクギターを融合させた。パティ・スミスの後継者たる彼女たちは、婉曲的かつ大胆にフェミニストとしてのパンクを定義してみせた。またイギリスの同胞ザ・レインコーツがそうであったように、彼女たちは女性のみのバンドを結成(それ自体がラディカルだった)するにとどまらず、パンクが男性のものであるという固定概念を覆した。

32位 ザ・ミスフィッツ『Walk Among US』(1982年)


グレン・ダンジグがニュージャージーの突然変異種たちと結成したザ・ミスフィッツは、「I tunred Into A Martian」等のアンセムによって、ハードコアシーンに求められていた皮肉という要素を持ち込んだ。ハードコアにおける定石となっていた政治思想を排し、ゾンビや色っぽい女性吸血鬼といったB級映画のテーマを高らかに歌い上げたデビュー作『Walk Among Us』は、ホラーパンク界に燦然と輝く金字塔となった。

31位 ヤー・ヤー・ヤーズ『フィーヴァー・トゥ・テル』(2003年)


ザ・ラプチャーやライアーズを生んだ2000年代初頭のポストパンクのリバイバルにおいて、ヤー・ヤー・ヤーズは突出した存在だった。アートに傾倒したニューヨーク出身の若者3人組が生み出したデビューアルバムにおいて、ピンクのドレスに身を包んだ爆弾娘カレン・Oは圧倒的な存在感を放っている。灼熱に身悶えるチーターのごとく雄叫びを上げたかと思えば、パンク史上最高のスロージャムとも言われる「マップス」では、彼女はリスナーの心に鈍い痛みを与える。

30位 ソニック・ユース『Evol』(1986年)


3作目となる本作によって、ニューヨーク発のソニック・ユースは過去30年における最重要ノイズバンドとなる上での土台を確立した。アンプを徹底的に痛めつけるかのような「スターパワー」「エクスプレスウェイ・トゥ・ユア・スカル」は、ベーシストのキム・ゴードンが言うところの「煌びやかなアメリカン・ポップカルチャーの背後で揺らめく暗闇」を描き出している。

29位 ザ・リプレイスメンツ『Sorry Ma, Forgot to Take Out the Trash』(1981年)


アルコールと「力を持ったゴミ」への渇望についてがなり立てた吟遊詩人ポール・ウェスターバーグは、速さとラウドさといい加減さの全てにおいて、中西部の飲んだくれどもがニューヨークのジャンキーたちに引けを取らないことを証明してみせた。彼らをその他のバンドと隔てていた最大の要素は、「音楽なんて大嫌いだ! 音が多すぎる!」といった歌詞に見られるユーモアのセンスだ。

28位 ザ・ジャームス『(GI)』(1979年)


アルコール中毒だったボーカリストのダービー・クラッシュが1980年12月に自ら命を絶った時点で、ザ・ジャームスはアルバムを1枚しか残していなかった。それでもなお、ジョーン・ジェットがプロデュースした『(GI)』のユーモアに満ちた歌詞の裏側に潜む鋭い風刺は、失われたロサンゼルスのニヒリズムを見事に描きだした。

27位 マイナー・スレット『Complete Discography』(1989年)


ドラッグもアルコールもやらず、誇りを持って権力に立ち向かうという生き様を掲げたアンセム「ストレート・エッジ」によって、マイナー・スレットはハードコアにおける新たな概念を生み出した。DCシーンのリーダーであった彼らはキャリアこそ短命に終わったが、その影響力は今日でも健在だ。ストレート・エッジの精神は日常生活をポジティブに生まれ変わらせることができるという信条を、イアン・マッケイは一貫して実践し続けている。

26位 フリッパー『Generic』(1982年)


2人のベーシストを擁したサンフランシスコ発のフリッパーは、アシッドをキメたシンガーがビーチを散歩していた時に見つけたイルカの死骸からその名前を拝借したという。本作『Generic』は、どこまでもスローな8分に及ぶインプロ曲「Sex Bomb」で幕を閉じる。世に中指を突き立てる彼らのアティテュードに感化されたカート・コバーンは、自作のFlipper Tシャツを頻繁に着用していた。

25位 ミッション・オブ・バーマ『Vs.』(1982年)


「俺が思うに、俺たちはパンクが流行ってた時期にベッドルームで生まれたプログレ・バンドだったんだよ」ミッション・オブ・バーマのクリント・コンリーはかつてそう語った。しかしボストンから世界に向けて奇声を放ったこのアバンギャルドなバンドは、1980年にインディーレーベルから発表したシングル「Academy Fight Song」で、パンクにおけるアート的アプローチを確立した。『Vs.』はヘッドホンで聴いてこそ魅力が伝わる複雑なレコードだが、レーガン政権に対する不信感をぶちまけた「Thats How I Escaped My Certain Fate」や、トレモロサウンドがトランス感を生み出す「Trem Two」等には、まるで聞き手の頬を平手打ちするようなインパクトがある。

24位 ザ・ジャム『オール・モッド・コンズ』(1978年)


自身を「カプチーノ・キッド」と形容したザ・ジャムのポール・ウェラーは、キンクスやザ・フーからヒントを得たモッズ・リバイバルとパンクの熱情を結びつけてみせた。彼らの3作目は、まるでロンドンの日常を切り取ったかのようなリアリティに満ちている。「バクダンさわぎ」「チューブ・ステイション」等は、右翼のパンクスたちに対する痛烈なアンチテーゼだ。

23位 ペル・ウブ『Terminal Tower』(1985年)


ニューヨークとロンドンでパンクムーブメントに火が点きつつあった頃、クリーブランドでは異なる動きが起きていた。ペル・ウブが生み出した「インダストリアル・フォーク」というスタイルは、1975年の時点でポストパンクとして響いた。シンガーのデヴィッド・トーマスの遠吠えがピーター・ラフナーの錆び付いた金属を思わせるギターと絡み合い、背筋が凍るような冷たさを感じさせるアンセム「Final Solution」は、後年に発表されたバンドのアーカイブ曲集のハイライトだ。酒に溺れたラフナーは24歳でこの世を去ったが、彼と共にバンドを立ち上げたメンバーたちは現在も活動を続けている。

「Final Solution」を含む初期シングル集『The Hearpen Singles』

22位 ビキニ・キル『The Singles』(1998年)


1991年に処女作「Revolution Girl Style Now」をカセットのみでリリースしたビキニ・キルは、90年代に自らが牽引したライオットガール・ムーブメントによって、掲げた理想を実現してみせた。本シングル曲集のハイライトである「レベル・ガール」では、同ムーブメントのゴッドマザーたるジョーン・ジェットがギターとボーカルで参加している。シンガーのキャスリーン・ハンナが「彼女のキスは革命の味」と歌った時、無数の少女たちが男性上位社会のバリケードを打ち破るべく立ち上がった。

21位 リチャード・ヘル&ザ・ヴォイドイズ『ブランク・ジェネレーション』(1977年)


テレビジョンの結成メンバーの1人リチャード・ヘルは、自身が「つぎはぎだらけのボロ切れルック」と形容したパンクファッションとヘアスタイルの考案者だと言っていい。ソロデビュー作『ブランク・ジェネレーション』において、彼が迎え入れたロバート・クインによるヴェルヴェット・アンダーグラウンド譲りの尖ったギターサウンドは、「ビトレイアル・テイクス・トゥー」や「ラヴ・カムズ・イン・スパーツ」といったアンチ・ラヴソングに見事にフィットしている。タイトル曲は無から切り離された自由を讃える、ヘルによる究極のパンクアンセムだ。

20位 エックス・レイ・スペックス『Germ Free Adolescents』(1978年)


ロンドンで生まれ育った10代の混血少女ポリー・スタイリンは、歯に矯正器具を付け、Day-Gloのボロ切れを身にまとい、サックスが炸裂するアンセム「Oh Bondage Up Yours!」において「アタシは変人、それがどうした! ひしひし感じる周囲の視線が快感!」と叫んでみせる。エックス・レイ・スペックスの『Germfree Adolescents』は不幸にもアメリカでリリースされることはなかったが、口コミによってカルトクラシックとして認識されるようになり、スリーター・キニーやビースティ・ボーイズを含む無数のアーティストたちに影響を与えた。

19位 バッド・ブレインズ『バッド・ブレインズ』(1982年)


アフリカンアメリカンのラスタマンたちから成るバッド・ブレインズのルーツはジャズとレゲエだが、掲げた「P.M.A.(ポジティブ・メンタル・アティテュード」というスタンスによって、DCのハードコアシーンの確立に大きく貢献した。ラモーンズの曲からその名前をとった彼らは、恐るべきスピードで襲いかかる「ペイ・トゥ・カム」を収録したデビュー作をカセット限定でリリースした1982年の時点で、既に地元では圧倒的な人気を誇っていた。

18位 グリーン・デイ『ドゥーキー』(1994年)


グリーン・デイのメジャーデビュー作となった本作は、カート・コバーンの死がもたらした悲しみに対するスウィートで狂気じみた処方箋として、アメリカのティーンエイジャーたちの間で爆発的な支持を獲得した。『ドゥーキー』の全14曲は逼迫感に満ちていながら、ザ・フーを思わせる熱情とラジオ受けするポップ性を兼ね備え、そのパラドックスには抗いがたい魅力があった。ギター/ボーカルのビリー・ジョー・アームストロングが「ストリート育ちのガキの日常の記録」と形容したそれらの楽曲には、他者とのつながりへの渇望と爆発寸前のフラストレーションが凝縮されている。

17位 テレヴィジョン『マーキー・ムーン』(1977年)


シンプルさを追求したラモーンズとは異なり、テレヴィジョンは何年にも及ぶCBGBでの下積み時代にスリル性を突き詰めていった。シュールレアリズム的な詩とフリージャズを取り入れた『マーキー・ムーン』は、60年代のサイケデリアと混沌とした暴力性を融合させてみせた。パンクロック黎明期におけるギターレコードの金字塔となった本作は、ニューヨークのわびしい通りを照らし出す神秘的な光のようだった。

16位 ディセンデンツ『マイロ・ゴーズ・トゥ・カレッジ』(1982年)


ロサンゼルス発のディセンデンツは、デビュー作が自分たちの最初で最後の作品になるだろうと考えていた。というのは、ボーカルのマイロ・オーカーマンが実際に大学に通っていたからだ。彼は生物学の課程を修了したが、一方でディセンデンツはポップパンクの代名詞的存在に上り詰めた。ミドルクラスであることに対する不条理な怒りを爆発させた「アイム・ノット・ア・パンク」や「サバーバン・ホーム」は、グリーン・デイをはじめとする全てのワープド・ツアー出演バンドが歩んでいく道を切り拓いた。

15位 ニューヨーク・ドールズ『ニューヨーク・ドールズ』(1973年)


「パンクにおけるドールズの功績は、あんなの誰だってできるってのを証明したことさ」ボーカルのデヴィッド・ヨハンセンはそう話している。攻撃的で雑、中性的でラウド、「払い落とせ!」や「人格の危機」を生んだはみ出し者のグラムロッカーたちは、まるで気のふれたローリング・ストーンズだった。トッド・ラングレンがプロデュースした虚勢に満ちた彼らのデビュー作は、セックス・ピストルズを始動させる前だったマルコム・マクラーレンの目に止まり、彼はバンドのマネージメントを買って出た。

14位 スリーター・キニー『ディグ・ミー・アウト』(1997年)


スリーター・キニーのコリン・タッカーとキャリー・ブラウンスタインが1996年作『Call The Doctor』で「I Wanne Be Your Joey Ramone」と宣言した瞬間、彼女たちは自分自身と90年代のインディーロック・シーンに宣戦布告した。そして次作『ディグ・ミー・アウト』で、彼女たちはそれがはったりではなかったことを証明してみせた。剛腕ドラマーのジャネット・ワイスを新たにメンバーに迎えたワシントン州オリンピア発の3人組は、喜びを爆発させる「ワーズ・アンド・ギター」や、悲痛な思いを生々しく描いたロマンティックな「ワン・モア・アワー」まで、問答無用のフェミニストパンクを轟かせた。

13位 ハスカー・ドゥ『Zen Arcade』(1984年)


ミネソタ発のパワートリオは、崩壊した家庭を飛び出して大都市を目指す少年の物語を描いたレコード2枚組の本作で、スリーコードから成るハードコアにおけるあらゆるルールを犯した。情熱のほとばしるハードコアサウンドをバックに、ボブ・モウルドとグラント・ハートが交互に喚き散らしたかと思えば、サイケデリックやアコースティック・フォーク、そしてフィナーレを飾る14分のフィードバックインスト「Recurring Dreams」まで、本作はパンクの定義を押し広げてみせた。

12位 パティ・スミス『ホーセズ』(1975年)


パンクの女王はパンクの勃興前から存在していた。ロウアーイーストサイドの住人だったその詩人は、60年代のガレージロックとランボーの影響を融合させることで、唯一無二の恍惚としたヴィジョンを確立してみせた。ギタリストのレニー・ケイ、ピアニストのリチャード・ソール、ドラマーのジェイ・ディー・ドハーティ(加えてCBGBの常連仲間であり、ジム・モリソンのトリビュート曲「ブレイク・イット・アップ」を共作したトム・ヴァーライン)等と共に、彼女はニューヨークのシーンを一躍世界に知らしめた。彼女のレコード会社が嫌ったロバート・メイプルソープが撮ったロック史に残るカバー写真は、あらゆる境界線を無効化するような存在感と、本作の楽曲にも劣らない美しさを誇っている。

11位 ザ・バズコックス『シングルス・ゴーイング・ステディ』(1979年)


マンチェスター出身のバズコックスは、「Orgasm Addict」や驚くほど冷静に別れを受け止める「Oh Shit!」(「自分はクソだと認めやがれ、お前はクソだ」)まで、男性ホルモンがもたらす苦悩を抗い難くキャッチーなメロディに乗せることで、ポップパンクという壁を強行突破した。秘密兵器と呼ぶには目立ちすぎるパンク界の至宝ジョン・マーの「Ever Fallen In Love?」におけるドラミングは、まるで悲劇を招いたセクシュアリティについてのセミナーの教壇に立っているかのような緊迫感に満ちている。

10位 ニルヴァーナ『ネヴァーマインド』(1991年)


「自由こそがパンクロックの意味であるべきだ」オルタナロックの救世主と崇められることを忌み嫌ったカート・コバーンは、当時のインタビューでそう答えている。彼自身はその磨かれたサウンドに嫌悪感を示していたが、『ネヴァーマインド』はアメリカのメインストリームに投げ込まれた手榴弾かのごとくシーンを席巻した。故郷のワシントン郊外に住むメタルキッズたちが楽しめるパンクという、かつて彼が思い描いたヴィジョンを具現化してみせた本作は、中学生たちの社交ダンス会場をモッシュピットへと生まれ変わらせた。

9位 X『Los Angeles』(1980年)


ロサンゼルスのハードコアシーンにおいて、アート寄りのXはアウトサイダーだった。夫婦でもあったジョン・ドゥとエクシーン・セルヴェンカは、ビリー・ズームのオンボロギターが鳴らすロカビリーサウンドに乗せて、スピード狂の精神異常者や憔悴しきったハリウッドの映画監督たちという、ロサンゼルスの負の側面について歌った。バンドのプロデュースを手掛けたのは、ドアーズのレイ・マンザレクだ。本作に収録された「ソウル・キッチン」のカバーは、天国のジム・モリソンをおののかせたに違いない。

8位 ブラック・フラッグ『ダメージド』(1981年)


「俺たちは! うんざりしてるんだ! お前らの迫害に! 止められるもんなら止めてみろ! ムダムダムダァ!」歩く爆竹ことブラック・フラッグは、グレッグ・グリンの発狂したかのようなギター、そしてヘンリー・ロリンズの筋肉に裏付けされた毒のある怒りをもって、ロサンゼルスにおけるハードコアサウンドを確立してみせた。『ダメージド』は不思議なことにメジャーレーベルからリリースされることになっていたが、結局レーベル側は「保護者たちのひんしゅくを買う」という理由で同作の発売を拒否した。実際のところ、本作は保護者たちのみならず、警察、テレビ、ビール等、ありとあらゆるものに唾を吐きかけた。

7位 ミニットメン『Double Nickels on the Dime』(1984年)


カリフォルニアの港町サンペドロ出身のワーキングクラス3人組の魅力は、飾り気のなさと能弁さ、そして「The Roar of the Masses Could Be Farts」といったタイトルに見られるような、ユーモアと鋭い政治批判を同居させるセンスだ。2枚組全45曲からなるこの多様なクラシックの根幹にあるのは、ギタリストのD・ブーンとベーシストのマイク・ワットの長年に渡る友情、そして2人が共有するパンクの価値観だ。「History Lesson, Pt.2」において、ブーンは「俺たちのバンドが君の人生を変えることだってあり得る」と歌ってみせる。本作はジャズやフォークへの関心も垣間見せているほか、クリーデンス・クリアウォーター・リヴァイヴァル、スティーリー・ダン、ヴァン・ヘイレン等のカバーを収録している。本作の果てしない折衷ぶりは、レッド・ホット・チリ・ペッパーズやペイヴメントにも通じるものだ。しかし彼らの名前が世に知れ渡ろうとしていた1985年、バンドにとって最後のアルバムとなる『3-Way Tie (For Last)』のリリース直後に、ブーンは不運にも交通事故でこの世を去ってしまった。

6位 ワイアー『ピンク・フラッグ』(1977年)


全21曲35分、ワイアーのデビュー作であるこのアルバムほど、パンクのラディカルなまでのシンプルさが秘めた無限の可能性を明示した作品は存在しない。ハードコア版ルービック・キューブというべき「12 X U」、タブロイドの悲劇を28秒間に凝縮した「フィールド・デイ・フォー・ザ・サンデイズ」、そしてパンク史上屈指のラブソング「フラジャイル」まで、本作に収録された楽曲はR.E.M.やスプーン、マイナー・スレットを含む無数のバンドにカバーされている。ブラック・フラッグのヘンリー・ロリンズは、本作を「完璧なアルバム」と評している。

5位 ギャング・オブ・フォー『エンターテイメント!』(1979年)


ジェームス・ブラウンと初期ヒップホップをラモーンズのミニマリズムで結びつけたかのようなギャング・オブ・フォーは、ワーキングクラスの正義を追求する革命的存在だった。リーズ出身の4人組は信条とするマルクス主義を、怒れるファンクと悪意に満ちたディスコのシンコペーション、そしてアンディ・ギルによる剣さばきのようなギターをもって表現してみせた。

4位 ザ・ストゥージズ『ファン・ハウス』(1970年)


「ザ・ストゥージズは音楽の何たるかを体現する存在だった」ソニック・ユースのサーストン・ムーアはそう語っている。デトロイト発の彼らの2作目(キングスメンの鍵盤奏者ドン・ガルッチがプロデュースを担当)における原始的なガレージサウンドは、実に時代の10年先を行っていた。ギタリストのロン・アシュトンが使うコード数を限界まで絞ったのに対し(「T.V.アイ」はワンコードだ)、イギー・ポップはバッドトリップによるサイケデリアとメタリックなR&Bによってホルモン性のメルトダウンを引き起こし、ノイズに心酔する無数のフォロワーたちを生み出した。

3位 セックス・ピストルズ『勝手にしやがれ!!』(1977年)


「もしあのセッションが俺の思い通りに進んでいたら、大半の人間にとっては聴けたもんじゃないレコードになってたはずだ」セックス・ピストルズのボーカリスト、ジョニー・ロットンはそう語っている。世の無数の人間にとって、本作は実際にそういう作品であった。にもかかわらず、セックス・ピストルズの唯一のアルバムとなった本作はイギリスのポップチャートを踏み荒らし、ロットンによる中絶と無秩序についての歌詞と野蛮さは英国全土を揺るがした。パンク史における『山上の垂訓』となったこの金字塔は、今なおあらゆる音楽に影響を及ぼし続けている。

2位 ザ・クラッシュ『白い暴動』(1977年)


1976年4月3日、ロンドンのパブロックバンド101ersは、悪名高いセックス・ピストルズと対バンした。101ersのギター/ボーカルだったジョー・ストラマーは当日について、「未来を目の前に突きつけられた」と回想している。その1年後、しゃがれ声のストラマーがボーカルを務めたザ・クラッシュのデビューアルバムは、イギリスチャートでTop 20入りを果たした。「白い暴動」「ロンドンは燃えている」「反アメリカ」等における、社会に対する憤りとストリートのリアルさを体現したフックは、若気の至りと見なされがちだったブリティッシュ・パンクを、体制に立ち向かうためのダイナミックなツールへと昇華させた。

ストラマー、そして彼と曲を共作したギタリストのミック・ジョーンズは、どちらも決して生粋の論客ではなかった。バンドに政治的思想を持ち込むように提案したのは、バンドのマネージャーであり狡猾な策士だったバーニー・ローズだった。しかし、ベーシストのポール・シムノンとドラマーのテリー・チャイムズのリズム隊を得たことも手伝って、彼らの狙いは見事に功を奏した。アメリカでは後に発表された複数のシングル曲を追加収録した上で、本作は1979年にCBSからリリースされた。オリジナル版が轟かせた暴動の爆音は、今なおシーンにこだまし続けている。

1位 ラモーンズ『ラモーンズの激情』(1976年)


1976年4月、ラモーンズが6400ドルという低予算でデビューアルバムをレコーディングするにあたって、彼らが掲げたアジェンダはシンプルだった。「不要なものを徹底的に排除し、本質にフォーカスする」トミー・ラモーンは1999年にそう語っている。しかし、アメリカのメインストリームとは決して相容れない筋金入りのアウトサイダー4人組がどれほどシンプルさにこだわったとしても、決して色褪せることのないパンク史上最重要アルバムを定義することは今なお容易ではない。

コウノトリを思わせる風貌のボーカリスト、ジョーイ・ラモーンは「ブリッツクリーグ・バップ」の冒頭で「ヘイ、ホー、レッツ・ゴー」という魔法の言葉を唱えてみせた。ギタリストのジョニー・ラモーンは「ビート・オン・ザ・ブラット」「ラウドマウス」において、ディック・デイルとボー・ディドリーからブルースの要素を取り除いたような鋭いスタッカートギターを鳴らす。ベーシストで作詞の大半を手がけたディー・ディー・ラモーンは、自らの経験に基づいた様々なトピック(ドラッグ、絶望、詐欺)を電報のようなウィットで綴った。

ジミ・ヘンドリックスのセッションにエンジニアとした参加した過去を持ち、本作を共同プロデュースしているドラマーのトミーは、簡潔さと純粋さに徹底的にこだわった。「俺たちは世界一ビッグなバンドになれると思ってた」ジョニーはそう振り返ったが、ある意味彼は正しかったのかもしれない。すべてはここから始まったのだから。