「日の丸・君が代」の強制は憲法に違反するとする判決が21日、東京地裁(難波孝一裁判長)で出された。22日朝刊は、各紙ともほぼこのニュースが一面トップ扱いだ。

 判決の骨子からは、「国旗・国歌は強制ではなく、自然のうちに国民に定着させるというのが国旗国歌法の制定趣旨で、学習指導要領の理念でもある」「入学式や卒業式で国旗への起立、国歌斉唱を強制している東京都教育長の通達等は教育基本法に反し、思想・良心の自由を侵害する行き過ぎた措置」という論旨が読み取れる。

 さてこれに対し、産経新聞は社説で「公教育が成り立たぬ判決」と大げさなポーズで慨嘆しているし、朝日は一方で「この判決の重みをしっかりと受け止めるべきだろう」と全面的に支持。これもまず、予想された反応と言っていいだろう。

 メディアがどう反応したかは別にしても、この判決は訴訟を起こした原告団(都立高校の教諭ら401人)にとっても、予想を超えた成果だったのではないだろうか。一方、被告の都や都教委にとってはまさに「考えてもみなかった。驚天動地の判決」(都教委幹部)といった声まで出るような、意外な判断だったに違いない。

 判決が原告の主張に支持を与えたのは、一つには国旗や国歌を国が正式に認定した「国旗及び国歌に関する法律(国旗国歌法)」(1999年)を根拠にして、都教委が03年10月に出した通達には問題があると認定したため。つまりこれは、職員には思想・良心の自由があり、国旗への起立や国歌斉唱を強制されないという趣旨である。さらに、都教委は通達に従って教職員を処分する権限はなく、命令による苦痛に対して一人3万円の慰謝料を払えとまで命令している。まさに、原告側にとって“画期的”な判決と言えるはずだ。

 地裁段階ではあっても、裁判所の判断は尊重されなければならないとは思う。しかし、「国旗と国歌は強制ではなく、自然に定着させるべきものである」という趣旨は、どうにも生ぬるい社会観・教育観に基づくものであるような気がしてならない。「ゆとり教育」で学力が大幅に低下した、今の教育現場を思い出させる言い方だ。

 そもそもこの問題は、教職員労組が戦後一貫して、日の丸・君が代を政治的に利用してきたことに根源的な問題があるのではないか。教師たちに思想的な自由があるとするのなら、入学式で生徒が起立して国歌を歌っているときに、先生方が座りながらソッポを向いているのは正常な姿だとも言うのだろうか。現実には、教職員の中には自らの良心に従うというより、現場を混乱させるために奇矯な行動をとる人々がたくさんいたのである。やはり、現場の混乱をもっと知るべきだと考える。

 一方、バランスを取る意味ではなく、都教委も明らかに行き過ぎだ。全国的にも処分者数が突出している現実があるし、停職になる教師まで出していることは、逆に都側が通達を金科玉条にして“職場分断”の手段に使っていることをうかがわせる。「国旗は舞台正面に向かって左に掲揚する」「国旗とともに併せて都旗を掲揚する」などとしているのは、明らかに行き過ぎた現場干渉と判断するのが自然だろう。

 都側は当然控訴するだろうが、その行方はにわかには判断できない。しかし、一番考えなければいけないのは、子どもたちが国民の当然のあり様として国旗を尊重し、国歌を歌う自由を妨げる教育が存在してはいけないということだ。私も個人的には、戦後に今の国旗(日の丸)や国歌(君が代)を見直す機会があるべきだったと思っている。しかし、国旗国歌法の99年には、そうした本格的な議論がないままに日の丸・君が代が正式に認定されたような気がするが、どうだろうか。

 権力による押し付けは避けなければならない。しかし、公教育に携わる人間が当然のように国旗・国歌を認めないでいいとするのなら、それは国としての日本の姿を大きく毀(き)損するものと考えざるをえない。【了】