バルサのサッカーを、目指すべきサッカーとして掲げる人は多くいた。しかし、そのいずれもが、バルサのサッカーには似ていなかった。芯を食ったモノに遭遇できなかった。

「ご存じのように、バルサは育成段階から同じコンセプトでサッカーをしています。その仕組みがない他のチームがそれを実現させることは簡単ではありません」と言ったのはスペインのサッカー指導者、フアン・マヌエル・リージョ。バルサがそのスタイルを完全に確立するまでに多くの年月を費やした方法論を、それにこだわってこなかった他のチーム が、一朝一夕にしてマスターすることは難しい。グアルディオラが師と仰ぐ戦術家は、こちらのインタビューにそう語ったわけだが、彼はこう付け加えた。

「しかしながら、ボールを中心にサッカーをとらえ、選手が常にボールと"共鳴"し合うように動くことができれば、論理的には可能です。ハードルはとても高いですが」

 ところがその高いハードルを、吉武博文監督率いるU―17日本代表チームは、見事に超えていた。バルサ以外のチームで、最もバルサ的なチーム。思わずそう言いたくなるほど、芯を食っていた。

 バルサのサッカーは、よく「パスサッカー」と言い換えられるが、それはあくまでも現象にすぎない。「常に相手陣内でプレイすることができれば、こんなに楽しいことはない」と語ったのは、バルサに攻撃的サッカーを伝えたヨハン・クライフだが、彼が何よりこだわっていたのはボール支配率だった。

 従来の日本のサッカーはそこに迫れなかった。そのパスサッカーはボール支配率と密接な関係にはなかった。ボールを奪われやすいパスサッカーだった。ボールを取り返すことも上手ではなかった。とりわけザックジャパンのサッカーは、相手ボールになるとアタフタする。互角以上の相手を向こうに回すと、選手と選手、選手とボールは"共鳴"しなかった。

 それが「吉武ジャパン」はできていた。驚くことに、チームの合い言葉が"共鳴"だった。フアン・マヌエル・リージョが決め言葉のように使ったキーワードを、チームの軸に据えていた。

 驚きはそれだけでない。欧州で攻撃的サッカーにこだわっている監督をインタビューした時に、こちらの印象に残った言葉が、吉武監督の口から次から次へと飛び出してくるのだ。もちろん、これらは従来の日本人の指導者から、聞くことができなかった言葉でもある。

 言葉は指導者にとっての生命線。耳に残る言葉をいくつ吐くか。その数と監督としての優秀度は比例する関係にある。名監督と呼ばれる人物は、耳に残る新鮮な言葉を必ずや述べてくれる。ヨハン・クライフの「勝つときは少々汚くてもいいが、敗れるときは美しく」は、その代表的な台詞(せりふ)になるが、彼らを取材すれば サッカー観に影響を与えるような言葉に遭遇できた。

 戦術的な交代を得意にするフース・ヒディンクはこういった。「能力が同じなら、ユーティリティ性の高い選手を選ぶ」と。それと全く同じ台詞を吉武監督も口にした。

 ヒディンクは、オランダ代表の98年フランスW杯直前の合宿に臨むにあたり、招集メンバーそれぞれに、あらかじめ起用する可能性のあるポジションを複数伝えておいたそうだ。そして2週間の合宿の中で、その全てを予行演習したという。したがって、ベンチの控え選手には、出場するときの姿が描けていた。「起用されるポジションを想定しながら待機していたので、彼らのモチベーションは極めて高かった。戦術的交代がうまくいった理由はそこにある」と、ヒディンクは語った。

 控えを控えとして扱わないところ。吉武監督の采配は、その点においてヒディンクさえも超えていた。恐れ入ったのは4試合で、メンバー21人全員をローテーションで綺麗に使い切ったことにある。きわめて平等に、である。

「最高7試合。最低でも5試合戦うつもりでいますから、このやり方がベスト」と吉武監督。選手を複数のポジションで、戦術的交代を駆使しながら起用した。中には、2戦目に右ウイングで起用した中野雅臣選手を、3戦目にはセンターバックで起用する斬新な采配も含まれている。

 吉武監督は説明する。「ボール支配率を上げようとすれば、最終ラインに的確なフィードができる選手が必要なのです」と。3戦目で中野選手とセンターバックでコンビを組んだ鈴木徳真選手も本来はMF。見る側をアッといわせたわけだが、この台詞にも聞き覚えがあった。

 かつて、バルサのコーチを務めていたバケーロに、僕はこう尋ねた。

「なぜバルサは本格的なセンターバックを補強しないのか」

 すると彼は、こう答えた。「MFの選手を下げればいいだけの話。バルサはそうした考え方のクラブなのです」と。その時、バルサが最終ラインに起用していたのはフィリップ・コクー。その後も、マルケス、マスチェラーノらを中盤から下げる形で起用した。

 フアン・マヌエル・リージョはこう述べた。

「良いサッカーをするために、そうしているのではありません。勝つサッカーを目指すためにそうしているのです」

 そして吉武監督も同じような台詞を吐いた。

「勝つためにやっているんです」

 リージョはこうも言った。

「良いサッカーをしても、勝たなければ何の意味もないという声をよく聞くが、良いサッカーと勝利を別物としてとらえることは間違いだと思う。サッカーの長い歴史を振り返れば、良いサッカーをしたチームが勝っていることが分かる。それがいつから別物になってしまったのか」

 スウェーデンに敗れ、ベスト8入りを逃した吉武監督は、試合後の記者会見で、外国人記者の「これからもこのスタイルを貫くのか?」という質問にこう答えた。

「問題は10回戦って何回勝てるか、です。それを考えると、1回の敗戦でこのサッカーをやめるつもりはない」

 世の中にはこの敗戦を受けて、吉武サッカーに異を唱える人も目立つ。しかし、10回戦って何回勝つかというまさにサッカーらしい視点に立つと、吉武サッカーは、次は勝てるという気持ちを抱かせる。

 実際、スウェーデン戦の2失点は、いずれもGKミスだった。通常なら防げていたはずのものだった。敗因をひと言でいえば不運。吉武ジャパンには正直、10回戦ったら7〜8回勝てそうな可能性を感じた。

 相手のスウェーデンは、世界のヒエラルキーに従えば日本より強い国だ。つまり、日本は大善戦したわけだ。吉武監督のサッカーにケチをつけている人は、日本の立ち位置が分かっていないような気がする。

 例えば守備を固めてカウンター、よくいえば堅守速攻で10回戦って、7〜8回勝てそうなサッカーができるのか。たまたま1回負けたからと言ってガタガタ騒ぐのは、まさに結果至上主義者。哲学のない、トーナメント文化に毒された非サッカー的な見方だと言える。

 サッカーは運が3割を占める競技。1回の結果で、ああだこうだと言うべきではない。ロシア、ベネズエラ、チュニジアに3連勝した事実を忘れるべきではない と思う。たとえ負けても、次は勝てるかもという気にさせてくれるところが吉武監督の強みだ。ザッケローニとの違いと言ったら怒られてしまうだろうか。

 次に希望を抱かせる終わり方こそ、とりわけ若年層のサッカーに求められているものだと思う。そういう意味で、U―17日本チームの敗れ方は美しかった。「敗れるときは美しく」というクライフの言葉通りの散り方をした。哲学的な敗戦を喫した。哲学のない敗れ方より、よっぽど意義があると僕は思う。

杉山茂樹●文 text by Sugiyama Shigeki