会長が犬飼さんから小倉さんに突然代わった。そのあたりの事情に詳しそうな人に話を聞けば「クーデターのようなものですよ」と言う。

たが、クーデターのようなものと言われても「アーそうなんだ」と、簡単に納得することはできない。クーデターを辞書で引けば、非合法政変と出る。サッカー協会内の話とはいえ、恐ろしい話であることに変わりはない。

正式な退任の記者会見も行われていない。名誉会長に就任するわけでもない。そこには相変わらず川淵サンが鎮座している。名誉会長になるためには、会長を2期以上務めないとダメなのだそうだ。

つまり犬飼さんは、サッカー界から消えることになった。理由は体調不良。ワールドカップ前、メディアにさんざん顔を出し、威勢の良い姿を見せていた会長、2022年W杯招致に誰よりも積極的だった会長は、突然何の病気に襲われたのか。

ファン不在とはこのことだ。サッカー協会はファンの登録料やスタジアム収入を、大きな財源にする公共性の高い団体だ。透明性が高くかつ密室性の低い、ファンにも分かりやすい、リベラルな組織である必要がある。

なぜ、それができないのか。監視の目が弱いからに他ならない。サッカー協会を取り巻くメディアの目が厳しくないからだ。ちょっとやそっとのことではメディアは騒がないという安心感が、密室性を高める原因だ。今回も、メディアは薄気味悪さを覚えるほど静かだ。

もっともこれは、サッカー協会に限った話ではない。他の競技団体ほぼ全てに共通して言えることだ。特に酷いのがアマチュア競技団体で、スポーツ団体に相応しい健康性を保てているのはごくわずか。醜聞やスキャンダルが常に渦巻いている。相撲協会のことを冷笑できる競技団体は決して多くない。

相撲協会で言えば、長年大相撲と付き合ってきた記者なら、おかしな体質にも気づいていたはずだ。怪しいぞと思ったことは過去に1度や2度、間違いなくあったはずだ。相撲協会のいまは、お互いが、なあなあの関係でやってきた結果だと思う。

気がつけば、その独特の世界に取り込まれているメディアの体質。その世界の常識に、どっぷり浸かりやすいその体質も、僕には大きな問題に見える。

サッカー協会の体質は、ある時期まで僕の目には、少なくとも他の競技団体よりずいぶん真っ当に見えた。サッカー協会の関係者にある時、そんな感想を漏らせば「だったら、もっと褒めてくださいよ」と、逆襲に遭ってしまった。「ダメなものと比較して,褒めてもしょうがないでしょ」と、その時は切り返したが、02年の日韓共催ワールドカップ頃までは、他より優れていたことは確かだった。自由にものを言える空気が、この世界にはあった。

僕は、02年以降も、それまでと同じように、協会批判もしてきたし、協会から圧力を受けたことも一度としてないが、一方で、そうでない話を耳にする頻度は増していく。連日、協会に詰めている人ほど、プレッシャーに曝された。自由にものを書けないムードに支配されていった。

協会内には、協会に詰める記者のために用意された記者専用の部屋がある。そこに毎日通っていると、どういう影響を受けやすいか。代表監督を含めた協会関係者と、近い距離で接するチャンスが増えることになる。顔なじみになれるメリットがあるが、その一方で,顔なじみになる弊害もある。顔なじみになった人、親しくなった人への批判はしにくくなる。

我々が最も拘らなければならない取材対象者との適正な距離感が、損なわれる恐れがあるのだ。遠からず近からずの理想をその環境の中で保つには、よほどの心構えが必要になるのだ。うっかりしていると取り込まれる。御用記者に成り下がる。一般社会と隔絶された空間の中に身を委ねていると、その中の常識に浸り込む危険が高いのだ。