福島県浪江町の帰還困難区域で進む住宅の解体作業=2025年3月10日(写真:共同通信社)


2011年3月11日の東京電力福島第一原発事故が生んだ「帰還困難区域」。放射能汚染のためバリケードで立ち入りが制限され、いまだ帰還できずに避難生活を送る人々がいる。その一つ、福島県浪江町の津島地区では住民のほぼ半数にあたる680人が2015年、国と東電を相手取り、全域除染を求める裁判を起こした。仙台高裁での二審は3月9日、住民が「ふるさと津島を取り戻し、家族で再び暮らしたい」と最後の陳述を行い、結審した。判決は10月16日。ふるさとを返せ、それまで原発事故は終わらない──という15年の悲願は実るか。

(寺島英弥:ローカルジャーナリスト) 

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原発事故の惨状伝える家屋が解体されてゆく

「昨年、思い出が詰まったわが家を解体しました。(避難生活の)14年の間、管理もできなかったことで、天井も床も壁も、すべてが朽ち果てました」

 原告団の一人、三瓶春江さん(66)は結審の日、避難先の福島市から仙台高裁へ駆けつけ、満席の法廷で意見陳述をこう始めた。

 それでも、支援や視察で訪れた1000人余りの人々を案内し、自宅の惨状を見てもらってきた。

「あまりの酷さに『現場に来ないとわからないね』と、驚かれます。朽ち果てた自宅は、原発事故を無言で語る“証人”としての役割を果たし続けてきたのです」

 昨年1月の解体工事の日、「津島に帰りたい」と言い続けた義父の故・陸さん(享年85)の写真を胸に、4世代が同居した自宅を重機でバリバリと壊す様子を見届けたという。「地域の人たちが来てはお酒を飲み、歌い、踊った場所でもありました」。

 唯一の形見は、孫たちの成長を記した大黒柱。業者にお願いして残し、福島の家に運んで夫と娘婿の石材加工の仕事場に立てたという。「こんな苦しさ悲しさは私たちを最後にして」と裁判官に訴えた。

雨で腐った天井、床の大穴、朽ちた台所を案内した三瓶春江さん=2022年7月、福島県浪江町津島 (筆者撮影、以下も)


 山あいにある津島地区の三瓶さん宅を、筆者が初めて訪ねたのは5年前。道に草が伸び、山水が庭にあふれ、台所の天井の穴から雨水が滴り、床も抜けて家じゅうが朽ちていた。庭にフキが勢いよく伸びていたが、土が放射性物質を含み、コメ、野菜、山菜、名産のマツタケも採れなかった。

「山の料理をいつも持ち寄り、田んぼ仕事があれば『結』(ゆい。住民同士の助け合い)で助け合い、朝、昼の食事を持ち回りでごちそうした。結婚式、葬式も家々で行い、大勢の人が集った。満州からの引き揚げ家族も多かったが、差別などなく、貧しさも苦しさも支え合った。原発事故が起きる前まで、そんな暮らしがあった」と三瓶さんは語っていた。

何も知らされぬまま放射線にさらされ…

 浪江町は福島第一原発の立地自治体ではなく、阿武隈山地の懐にある津島の住民は全くの被害者だった。2011年3月11日の東日本大震災で同町の沿岸は津波で被災し、原発事故発生のニュースに町民8000人余りが車を連ね、30km近く山あいの津島に避難してきた。

「津島では停電が起きず、水が豊富で食べ物の蓄えもあった。8つの行政区が集会所、学校、公民館、民家でも避難者を受け入れ、毎日炊き出しをした」

 三瓶さん宅から近い下津島の行政区長で、今は原告団長の今野秀則さん(78)は「結」の心映えの支援を語った。

 そのころ東京の専門機関・原子力安全技術センターは、新開発された「緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(SPEEDI)」を稼働させ、福島第一原発から西北西方面への高濃度の放射性物質飛散を試算した。飛散予測エリアに津島も入っていたが、国は公表せず、ファクスで知らされた県も、異常な放射線量のデータを関係市町村に伝えなかった。

 津島に仮役場を設けていた故・馬場有(たもつ)浪江町長が、全住民の避難を決断したのは、第一原発で3度目の水素爆発がテレビで報じられた同15日の朝だった。

「私たち津島の住民は何も知らされぬまま強い放射線にさらされ、避難を強いられ、ふるさとを奪われた」と今野さん。その後の国の説明会で担当者が「津島には百年戻れません」と発言し、住民たちは憤ったという。

「この惨状をどうすればいいのか。ふるさとの復興、再生のために避難先から集まろう」と話し合いが重ねられ、住民の半数を超える人々が「津島地区原発事故の完全賠償を求める会」を結成。それを母体に原告団が生まれ、2015年9月、国と東電を相手取った裁判を福島地裁郡山支部に起こした。

 求めたのは、国策の原発が起こした大事故の責任を認めさせること、何よりも、ふるさと津島の原発事故前の環境と暮らしを取り戻す全域除染(原状回復)だった。全国で起こされた原発事故訴訟は41件(2月現在、原子力市民委員会調べ)に上るが、帰還困難区域の住民の集団訴訟は津島だけだ。

ふるさとの伝統行事が喪失してゆく苦悩も

 東京・山手線内側の1.5倍も広い津島地区は、山間を富岡街道(浜通り、中通りを結ぶ現・国道114号)が通り、旧村役場(1956年から浪江町津島支所)がある下津島が中心地だった。

 その顔だったのが木造総二階の松本屋旅館。役場の公用客、たばこを扱う専売公社、営林署の職員、土木関係者、富山の薬屋、行商人、釣り客らが逗留し、昭和40年代までは年間約5000人、震災前も500人が泊まった。現当主が今野さんだ。 柱や梁、天井や板は濃い飴色に光り、和室の大きな仏壇の上には明治の終わりごろに創業した曽祖父ら代々の肖像がある。

苦悩の末に残した松本屋旅館の看板を笑顔で見上げる今野秀則さん=2025年2月、福島県浪江町津島


 帰還困難区域の津島では三瓶さん宅のように家々が朽ち、雑木雑草に覆われた。心を痛めた住民有志らの「ふるさと津島を映像で残す会」のドローン映像がその現実を伝える。そこへ復興庁が2017年、「道路、上水道などのインフラ復旧や除染、家屋解体を一体的に進め、 避難指示解除を目指す」という「復興再生拠点」計画を、帰還困難区域がある町村に示した。

 津島は旧役場支所近辺の153ヘクタールが対象。家屋解体は、住民が申請すれば国費で無償になるが、申請しなければ1000万円近い工事費を自己負担──との選択を国が個別に迫り、全面除染を求める原告団の分断かと疑う声もあった。松本屋も対象に入り、回答期限は24年4月1日。解体費用も普通の家屋の比ではなく、今野さんは悩んだ。

 そして、偶然に原発事故から丸13年となった同年3月11日、仙台高裁で意見陳述に立ち、こう述べた。

「私で4代目となる家は、私につながる一族、地域社会の人々との交流の記憶が染みついています。今年喜寿を迎える私に残された時間は長くありません。残せば、いずれ子どもや孫に負担を強いることとなります。

 夜、目覚め、そのことを考えると、再び眠りに就くまで思い悩みます。夢も見ます。翌日起きてから、ふるさとのあれこれや家の事を見た夢が断片的に蘇り、焦燥感に駆られます。原発事故はこのような理不尽を強いるのです」

 傍聴席の仲間たちと共にあることに力をもらい、「解体せず、残す」と決心したという。

 津島の各集落で小正月をにぎわせた行事「田植え踊」(県重要無形民俗文化財)。住民離散で継承者が集う機会が途絶え、下津島の踊り手だった今野さんは伝統喪失への苦悩も背負った。冷害と飢饉に苦しんだ先祖が稲作の所作を模し、豊作と平安を願った田植え踊。「連綿と紡がれた地域のつながりの中に私がいる」という喜びをも原発事故は奪った。

 松本屋を残す決断も、今野さんの「ふるさとの原状回復」の一歩だった。「帰れる場があればいつでも集える。そう思うと気持ちのざわつきは消えた」。建物の傷みも直し、「人がいつも集った旅館を、津島の仲間、遠来の訪問者がつながれる場にしてもらおう」と考える。

津島地区全域の放射線量測定を、原告団の住民と続けてきた木村真三さん(右端)=2022年8月、福島県浪江町津島


将来像を示さぬまま、帰還困難区域をなくす動きも

「ふるさとを返せ」裁判の結審を前に松本屋で2月末、避難先から集まった津島の原告団とメディアの記者たちが意見交換をする機会があった。住民らが懸念を語ったのが、先行きを示さない国の姿勢だ。

 浜通りの原発事故被災地は現在、福島第一原発(現在は廃炉過程)が立地する双葉町、大熊町、富岡町など、国の「復興再生拠点」の指定によって、JR駅を中心にした集中除染でいったん更地から新しい街を造成し、公共・商業施設、住宅地などが造られた(帰還者は少数で、人口は工事関係者らを含め数百〜千人台)。

 津島はどうか。新設されたのは町役場の津島支所と併設の「つしま活性化センター」(多目的施設)、10世帯分の公営住宅。買い物や医療施設、学校などは遠い町中心部に車で行くほかはない。家屋解体の跡だけが広がり、「新しいまちづくりをどうするか、国から意見も聞かれない」と今野さんは言う。

 復興再生拠点が国から示される以前に、津島の8つの行政区長らは、地域のバランスよい再生、放射線量の低さも考慮した独自の「復興案」を町役場に提出したという。だが当事者の声は一顧だにされず、「復興庁から下達されたのは、津島の地区全体のわずか1.6%の鳥の骨のような細いエリアだった。どう復興しろと言うのか」と不信を募らせる。

「さらに大きな問題は、帰還困難区域そのものをなくしてしまおうとする国の方針だ」

 こう語ったのは、裁判を支援する獨協医科大学准教授(放射線衛生学研究室長・兼福島分室長)の木村真三さん(58)。津島の山林や家屋など全域の放射線量を住民と継続測定してきた。

 専門家として危惧するのが、与党提言を受けて政府が昨年6月に決定した今後5年間の復興方針。帰還困難区域で将来の帰還、居住に向けて次のような具体策の検討を打ち出した。

立ち入り規制を、地域の実情と柔軟な放射線防護対策により、バリケード開放を含め緩和 個人の線量管理を前提に、森林整備や原発事故前の暮らしの回復など活動を解禁 「里山の恵み」を享受できるよう、未除染の森林でも同様に進める

 だが当時、全国紙や地元紙にも批判の論調は目立たず、内堀雅雄知事も「提言に盛り込まれた一つ一つの事項は、福島の復興・再生にとって極めて重要。いまだ多くの困難な課題を抱える本県の実情や思いを丁寧に反映いただいた」と談話を発表しただけだった。

立ち入り制限のバリケードで塞がれた道。未除染の山林は今なお放射線量が高い=2026年2月、福島県浪江町津島


 労働安全衛生総合研究所(厚生労働省所管)の研究者だった木村さんによると、働く人を放射線から守るため、被ばくの線量限度や管理区域の設定などの安全管理が事業者に法律で義務付けられ、除染作業員、自営や個人の事業者、ボランティアにも準用される。

「しかし、帰還困難区域での安全確保が個人に委ねられれば、誰からも守られなくなるリスクが生じる。津島で放射線量はまだ高く、緩和されれば、町民以外の人の山菜採りなど無防備な立ち入りも出る」

 今野さんは筆者の取材に、「山の恵みを楽しむというが、地区の大半を占める未除染の場所の放射線量は高い。バリケードがあって人は危険を知るが、それを撤去し、安全への国の責任も放り出し、帰還困難区域もなかったものにするなど、許されるのですか」と憤りを込め語った。

「津島の除染は現実的に可能」弁護団が具体案示す

 9日に結審した「ふるさとを返せ」裁判の判決言い渡しは10月16日となった。焦点は、津島の住民たちが求める「原状回復」のあり方だ。それについても結審の法廷で、原告側から示された。

 汚染土の処分は従来、福島の被災地で環境省が、放射性物質が付着した土壌を10cmほどの深さで剥ぎ取り、除染土袋に詰めて現地に積み上げ、中間貯蔵施設に運んで保管してきた。が、除染土袋の山が現地の復興を妨げ、国も「復興再生土」と称して全国に処分を分担させようとしている。

 原告住民の意見陳述に続き、弁護団の弁論で「原状回復は可能だ」と示されたのは、放射性物質を効率よく付着させる土壌改良剤を活用する方法。先述の木村真三さんが調査、検討し、表層の汚染土に土壌改良剤を厚くかぶせ、その上に客土をする方法で、安全な線量まで下げる遮蔽効果を得たという。

 裁判長は判決日の言い渡しと共に、和解提案の希望も示した。裁判の行方が、原発事故そのものを「なかったもの」にしかねない現状に風穴を開けるかもしれない。

筆者:寺島 英弥