セーブ制度導入50年〜プロ野球ブルペン史
鹿取義隆が語る球界屈指のリリーバーとなった軌跡(後編)

前編:「鹿取義隆は「壊れてもいい」とシーズン63試合に登板」はこちら>>

 毎試合、「壊れてもいい」と思って投げていた、1987年の鹿取義隆。実際には肩・ヒジに故障なく、リーグ最多の63試合に登板し、7勝18セーブを挙げて巨人の優勝に貢献する。MVPの投票では受賞した山倉和博に次ぐ2位となった一方、セ・リーグから特別表彰された。抑えでMVPを2度受賞の江夏豊(元阪神ほか)と同様、リリーフの存在価値を高めたと言えよう。

 鹿取は翌88年も抑えで活躍し、8勝17セーブを挙げた。だがチームは中日に12ゲーム差の2位に終わり、鹿取を生かした王貞治は監督を辞任。実績ある藤田元司が監督に復帰した89年は2年ぶりに優勝、8年ぶりに日本一も、鹿取自身は転機を迎えた。かねてから先発完投を重視する藤田の方針によって、リリーフの出番が大幅に減ったのだ。もっとも影響を受けた鹿取に聞く。


西武移籍1年目の90年、10試合連続セーブの日本記録(当時)を達成した鹿取義隆 photo by Kyodo News

【全体ミーティングで監督から叱責】

「先発完投は藤田さんの理想だったし、球数制限が関係なければ先発完投が一番いい。それで僕は年齢的にも30代半ばに近づいていて、前年までの疲れが残っていたからか、調子が下がってボールが走らない。これはもう結果が出なかったら、登板数が減るのは仕方ない。藤田さんが思っていたよりも、(調子が)下がっていた。『鹿取はこんなものだったか』と落胆されたと思います」

 89年の開幕当初は鹿取が抑えだったが、5月18日の中日戦。9回に先発の木田優夫をリリーフした鹿取は抑え切れず、交代した4年目の広田浩章が締めて1点差で勝利した。試合後の全体ミーティング中、鹿取は藤田から名指しで叱責され、さらに監督室に呼ばれ、「しっかり投げろ!」と注意を受けた。以降、試合中のブルペンで名前を呼ばれる機会が少なくなった。

 結局、鹿取の登板数は前年45試合から21試合に減少し、2勝3セーブ。先発陣で20勝した斎藤雅樹が21完投、17勝の桑田真澄が20完投、12勝の槙原寛己が17完投し、合計69完投だった影響もたしかにある。しかしながら、広田はいずれもチーム最多の36登板、11セーブ。若い投手が生かされ、鹿取は監督の戦力構想から外れていったのだった。

「前年オフに西本(聖)が中日、シーズン途中に角(盈男)が日本ハム。自分と同年代のふたりが出ていったからね。当然、チームは世代交代しなきゃいけない。そしたら、日本シリーズ前の練習に行く前日、スポーツ新聞に<巨人鹿取放出へ>って出た。僕は毎年のようにトレード話が出ていたから何てことなかったけど、優勝して、これから決戦という時だから『マジか!』となった」

<放出>は事実か否か......。自分を取り巻く現状を冷静に考えると、たしかめることが大事だと思った。早速、練習初日に藤田に尋ねると、「出てもいいよ。もうひと花、咲かせたかったらね」との返答。鹿取はその言葉に寂しさを感じつつ、巨人での立場を悟り、「わかりました。出たいと思います」と答えた。その後、紆余曲折を経て、12月にトレードで西武へ移籍となった。

【最優秀救援投手のタイトル獲得】

「その年、巨人での出番は少なかったけど、シーズン中、練習だけはちゃんとやってたんで、体には何も不安はなかった。ただ、西武はそんなに期待してなかったと思う。たしかに、近鉄に負けて優勝を逃した試合、郭泰源のリリーフに先発の渡辺久信を起用していた。だから抑え不在ではあったけれど、僕の場合、抑えとしての実績は少ないわけだから」

 それでも、監督の森祇晶から「とりあえず、うしろ(リリーフ)で行くからな。ベテランの味を出して頑張れ」と言われた。巨人時代、王には何も言われなかった。たまたま抑えで結果がよかったから次も抑え、その次も抑えとなっていたに過ぎなかった。森と同じ巨人OBのコーチ、黒江透修は「西本は中日での1年目に20勝してる。おまえもわかっているんじゃろうな」と言ってきた。

「『は? それってプレッシャーかけてるんですか?』と思ったよ。『頑張ります』って言うしかなかった(笑)。森さんにしても、いきなり『抑えで使う』って言っているわけだから、実際、かなりのプレッシャーがかかって......。巨人の時とはまったく違いました」

 巨人と違うと言えば、なにより当時のチーム成績が違っていた。巨人は81年、83年、87年、89年と飛び飛びに優勝して日本一は2度。西武は82年から2年連続日本一、85年からリーグ4連覇、86年から3年連続日本一と黄金期を迎えていた。そのなかに飛び込んだ鹿取は、巨人へのライバル心を持つ選手たちの強い視線を感じつつ、キャンプを順調に過ごして90年の開幕を迎えた。

「シーズン初登板でセーブを挙げて、何か優勝したみたいな騒ぎになったんだけど、その時、本当に西武ライオンズの一員になれたと思った。そこから10試合連続セーブって当時の記録をつくらせてもらった。ただ、これは森さんが気を遣いながら起用してくれた結果だと思う。たとえば、潮崎がそのままセーブがつくのに、あえて僕につくような起用をしていたから」

 この年、ドラフト1位ルーキーの潮崎哲也が、即戦力として機能する。鹿取と同じ右のサイドスローでも持ち味は違い、落差の大きいシンカーが最大の武器。いきなりチーム最多の43登板で7勝8セーブを挙げ、102回2/3を投げて防御率1.84と好成績を残した。37登板で3勝24セーブを記録し、最優秀救援投手のタイトルを獲った鹿取に優るとも劣らない働きぶりだった。

「ブルペンに潮崎がいなかったら、僕はきつかったと思う。そういう意味では、自分にとって初めてのタイトルを獲れたのは潮崎のおかげではあるんだけど、じつは森さんが獲ったタイトルじゃないかと。鹿取が獲ったんじゃない、鹿取に獲らせたでもない、森さんが獲った(笑)」

 監督が獲ったとは極端な言い換えだが、チームで獲った、とは言える。鹿取の場合、三振奪取よりも打たせて取るタイプゆえ、バックの守りに頼ることになる。その点、当時の西武の守備力は内外野ともに鉄壁だったから、まさにチームでセーブを積み重ねたのも同然なのだ。

【7回以降を3人の投手で継投】

 もともと先発陣は充実していて、鹿取、潮崎のコンビでリリーフも安定した90年は王座奪還。同年からリーグ5連覇、3年連続日本一を達成して"常勝・西武"と称されたなか、93年、コンビがトリオになる。ドラフト1位ルーキー左腕の杉山賢人が加わり、"サンフレッチェ"と呼ばれる必勝リレーが確立。その呼称は、戦国武将の毛利元就による遺訓「三本の矢」の故事にちなんでいる。

「杉山は何よりコントロールがよかった。だから抑えもできると思ったし、僕らとタイプが違う左だからバリエーションが増えたよね。で、3人で9回、最後の1イニングを抑えることもあったけど、最初はブルペンで『マジ?』ってなった。森さんらしい、石橋を叩いても渡らないような采配。相手バッターの特徴、打順、右・左を考えたにしても、あの徹底ぶりはすごかった」

 のちの"JFK"にも通じる、3人で7回以降を抑える継投。だが、"サンフレッチェ"は抑えをひとりに固定せず、93年のセーブ数は鹿取が16、潮崎が8、杉山が5。登板は順不同だったから、鹿取は潮崎と杉山に「助け合っていかなきゃダメだ」と助言していたという。

「ひとりに負担がかからないようにね。当然、起用法と順番は首脳陣が決めるんだけど、抑えは誰かひとりに決めていない。だったら、ひとりが長いイニング投げたり、ひとりが抑えばっかりやったりして、すべてを背負わないように。ひとりだけ疲れてしまうと"三本の矢"にならないんで、なるべく助け合っていこうと。『オレのあとにあいつがいる』と思うだけで気持ち的にラクになるから」

 鹿取は巨人で抑えを務めた87年、意気に感じてマウンドに上がり、ひとりですべてを背負っていた。壊れてもいいと思いながら肩・ヒジは壊れなかったが、体全体への負担は大きかった。その経験を若いふたりに伝えたのだ。

 最終的には左膝痛が原因で、97年限りで現役引退となった鹿取だが、巨人で11年、西武で8年、通算755登板で先発は16試合。91勝46敗、133セーブを挙げた。その時代のリリーフの価値を表すセーブポイント(セーブ+救援勝利/2004年まで公式記録)は216で、96年に江夏の210を超えた時点では日本記録。現在、鹿取の上には佐々木主浩(元大洋ほか)と郄津臣吾(元ヤクルトほか)がいるだけである。

(文中敬称略)


鹿取義隆(かとり・よしたか)/1957年3月10日、高知県生まれ。高知商から明治大を経て、78年にドラフト外で巨人に入団。87年にはリーグ最多の63試合に登板し、優勝に貢献。西武に移籍した90年、最優秀救援投手のタイトルを獲得。97年に現役を引退。98年に巨人の二軍投手コーチを経て、99年から一軍コーチに就任、2000年には日本一に導いた。01年にアメリカでのコーチ留学を経て、02年に巨人のヘッドコーチに就任。投手陣を再建し、優勝に貢献した。その後、侍ジャパンのテクニカルディレクター、U−15の代表監督、巨人のGM兼編成本部長などを歴任。現在は解説者として活躍している