最近は炎上することがめっきり減り、むしろ応援するファンのような人々が増えている印象すらある“青年革命家”ゆたぼん。なぜ、応援する人が増えていっているのか?(写真:冒険家ゆたぼん@高校1年生Xより)

たびたび話題に上る“青年革命家”ゆたぼん――。物議を醸す発言を繰り返す不登校ユーチューバーとしてお馴染みだが、最近は炎上することがめっきり減り、むしろ応援するファンのような人々が増えている印象すらある。

高卒認定試験への挑戦は、不登校ユーチューバーが新たな段階を迎えたことを告げている。すでに国語、数学、歴史など7科目に合格したことを報告しており、不登校に関係なく自分の信じる道を突き進むことの重要性を訴えている。

ゆたぼん人気と「ポジティブな親殺し」?

人々のリアクションが批判から支持へと大きく流れが変わったのは、不登校を後押ししていた父親からの“卒業”が主な要因と考えられる。それが現実味のある成長物語として人々の関心を引いているのだ。いわば象徴的な、比喩的な意味での「父殺し」である。

振り返ってみると、ゆたぼんは、父親ともども世間を挑発するような言動で一躍脚光を浴びた。とりわけ学校教育を「洗脳」「奴隷」といった言葉で批判するスタンスは、受け取る側に誤解を与えやすく、議論が二極化することが多かった。

つまり、テレビ番組の大家族モノのような“異端親子”ショーとして消費されていた節があるのだ。そうして、大家族モノでも親子関係の決裂があるように、親と子のある種の共犯関係が解消され、自立していく「父殺し」のフェーズに入ったといえるだろう。

今も昔も「父殺し」は人々の耳目を集める永遠のテーマである。この点、ゆたぼんの物語は、世間の常識を疑い、不登校を肯定するという父親との共犯関係を経ているため、過去の炎上騒動を含めて、そのギャップがかえって物語に真実味を与えているのだ。

社会から背を向け、アウトサイダー的な生き方を唱える父からの“卒業”というテーマで、非常に参考になるのは旅行作家のポール・セロー原作の映画『モスキート・コースト』(監督:ピーター・ウィアー、1986)だ。

ハリソン・フォードが演じるアリー・フォックスは、9つの特許を持つ発明家で、ハーバード大学を中退した変わり者。長男のチャーリー(リバー・フェニックス)は、そんな父親を信奉していた。「僕は信じていた。父は絶対で、常に正しいと」。

アリーは、社会の欺瞞にうんざりし、家族を引き連れて中米のホンジュラスへ移住を企てる。何もない未開の土地で、新しい理想郷を創造することが目的だった。雇い主には「仕事をやめ、荒れ果てたこの国を後にする」などと書いた手紙を残して。

アリーは、学校教育を否定し、ジャングルで生きた知識を学ぶことを推奨する。最初は、土地の開墾や家屋の建築といったインフラ整備が順調に進み、生活が軌道に乗るが、武装した集団が迷い込んできたことで理想郷の崩壊が始まる。

チャーリーは、最終的にアリーの独断が家族の命を危険にさらしていることに気付き、アリーの暴走による被害を最小限に抑える立場におかれることになる。後半は、アリーが自業自得といえるトラブルに巻き込まれ、事実上の「父殺し」が完了する流れになっている(映画では瀕死のアリーとそれを見守る家族を描いて終わるが、原作ではアリーの死後の再出発までが生々しく描かれる)。

初めて父親とは異なる生き方を選び、地獄のようなジャングルからの脱出を図るのだ。チャーリーは、父親を妄信し追従していたが、彼も過ちを犯す一人の人間に過ぎないということを発見したのである。これは通過儀礼の典型でもある。

現代は大人への「通過儀礼」がない時代だ

神話学者のジョーゼフ・キャンベルとジャーナリストのビル・モイヤーズの対談集『神話の力』(飛田茂雄訳、ハヤカワ文庫)で、現代の社会では、「少年」が「おとな」になるという明確な時点が存在しないことが議論に上り、「これは親たる者にとって大問題」と指摘した。

キャンベルは、自身の子ども時代について、実業家の父親から跡継ぎ候補として2カ月ほど一緒に仕事をし、「だめだ、とてもこの仕事はできない」と思ったことを振り返る。そして「人生にはそういうテスト期間がある。自力で飛び上がる前に、どうしても自分をテストしてみる必要があるんでしょう」と述べた(同上)。

通過儀礼は、江戸時代に庶民の間に広がった髪や眉を剃る「元服」が分かりやすいが、共同体の内部の人々が、誕生から死に至るまでの節目で、次なる段階に進んだことを公認する一連のプロセスを指す。通常、分離(以前の状態ではなくなる)→過渡(どっちつかずの状態)→統合(新しい状態)の3段階で構成される。

その場合、この「テスト期間」は、まさに通過儀礼でいうところの過渡にあたるだろう。父親と一緒になってアンチとの闘いに明け暮れていたゆたぼんにとって、この時期こそが「テスト期間」であったのかもしれない。

「テスト期間」についてのモイヤーズとキャンベルのやりとりを見てみよう。

モイヤーズ 昔は神話が、巣立ちの時を知るのを助けてくれたのですね。

キャンベル 神話は物事を公式化して見せてくれます。例えば神話は、ある決まった年齢になったらおまえもおとなになるのだ、と教える。その年齢はまあ標準的なものでしょうーーが、現実的には、個人個人で大きく違います。大器晩成型の人は、あるところまで来るのが他人に比べて遅い。自分がどのあたりにいるのかは、自分で感じるしかない。(同上)

通過儀礼の視点から見れば、現代社会において、旅立ちの日を告知してくれる神話はもはやどこにもないが、「生きた教養小説としてのユーチューバー」は確かに存在している。「父殺し」のお手本をコンテンツとして提供してくれるのである。

ここで重要なのは、世間の価値観の代弁者のような父親と対峙するほうがシンプルで乗り越えやすいことだ。かえって、子どものアウトサイダー的な生き方を後押しする父親のほうが、その支配から逃れることは難しいかもしれない。

なぜなら、そこに疎外感を中心とする強い共犯関係が生まれるからだ。『モスキート・コースト』のアリーとチャーリーのように、自分たちに対する世間の偏見が共通の敵となり、社会に迎合している連中を一緒になってバカにする――そのサイクルが運命共同体的な意識を形作っていくのである。

かつて、ゆたぼんの「学校に行って洗脳されて思考停止ロボットになるな!」といった発言に批判が集まったが、「学校に行きたい子は行って、行きたくない子は行かんでいい」などの穏当な発言はあまり注目されず、義務教育を真っ向から否定する暴言として受け取られた。


(写真:冒険家ゆたぼん@高校1年生Xより)

発言を批判する人々について、父親が「やりたいことをやって生きている人に嫉妬してるだけ」などとSNSに書き込み、炎上騒動へと発展するパターンが多かったが、結果的に親子はより運命共同体としての性格を強めたことは想像に難くない。

「父殺しコンテンツ」は、創作の世界では普遍的な物語

この点「父殺し」は、「ネガティブな父殺し」と「ポジティブな父殺し」に大別できるだろう。前者は、父親からの物理的な影響を受けていないが、いまだ父親の生き方に囚われている状態であり、後者は、父親の生き方から解放されている状態である。

たとえ偽の父親であっても、フィクションとしての父親であっても、通過儀礼としての「父殺し」の教訓を学ぶことができる。そう考えれば、少年ではなくなったゆたぼんのその後に言動に少なからず興味を持つ人々がいることは至極合理的なものに思えてくる。

「父殺しコンテンツ」は、古くはギリシア悲劇などから連綿と続く普遍的なものだが、現代においてはリアリティ番組的なものがその機能を代替している面があるのだろう。

「テスト期間」の疑似体験ともいえるこの際どいニーズの受け皿として、一部のユーチューバーたちは意図せずしてその役割を引き受けているのかもしれない。


父親に反抗(?)し、ポストを消さない行動を取った際のゆたぼん(写真:冒険家ゆたぼん@高校1年生Xより)

(真鍋 厚 : 評論家、著述家)