「食のブラックボックス化」は現代の病…外食、ウーバー…食べている料理に何が入っているかわからない」現象が起きている

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経済成長期とともに食のブラックボックス化が進む

現代生活は、ブラックボックス化されたシステムに支えられている。自動改札、セルフレジ、高速道路のETCシステム……挙げていけばキリがない。パソコンやスマートフォンだって、マニュアルもなくアップデートは機械が勝手に行ってくれるため、使用者は更新に同意するのがせいぜいだ。

1990年代にパソコンが普及していく過程で、よく聞いた言葉を思い出す。

「自分のペースで使いたい人ほど、パソコンが苦手」

当時のパソコンはしばしばフリーズし、作業が数十分単位で止まった。そういう発言をする人は、ブラックボックスだが機械任せにしたほうが、ストレスは少なくなると言いたかったのではないかと思う。

一方で、そこから数年も経たない2000年代初め。自転車通勤が流行り始めた折、取材した私に自転車通勤者たちは口をそろえて、「待ち時間がある電車と違って、自分のペースで走れる自転車は楽しい」と言っていた。私は後者に共感する。特に食の世界で前者の態度を取り過ぎると、問題を招くかもしれない。

前置きが長くなったが、今回は食のブラックボックス化について論じたい。

日々の食事のブラックボックス化は、高度経済成長期に加速した。大量生産の食品がその典型で、食品添加物の安全性が不安視されてきた。加工食品には、材料欄に「亜硝酸塩」「PH調整剤」といった、家庭料理で使わない物質が入っている。

食品添加物は、腐敗を防ぎ劣化を遅らせる保存料や、大量調理で味を調える必要が生じるので、調整の役割を持つ成分だ。そうした物質を長期間摂った場合、身体に影響があるのかないのかがわからない。

市販される食品には、チョコレートやグミのように家庭で再現が難しいものもあれば、ハンバーグやギョウザのように、家庭でも作れるが多忙な人、料理が苦手な人を助ける加工食品もある。

高度経済成長期には、冷凍の加工食品、チルド品と呼ばれる冷蔵の食品、インスタント食品、レトルト食品が次々に登場し定着した。その後、スーパーでも総菜が売られるようになり、コンビニや持ち帰り弁当店が登場し、テイクアウトできる総菜の世界も大幅に広がった。

合わせ調味料の世界も広がっていく。明治時代から、ケチャップやウスターソースが製造され始めており、カレー粉やマヨネーズ、コンソメキューブがそれに続く。戦後はカレールウ、ドレッシングなども発売され、高度経済成長期には麻婆豆腐の素が発売される。

中華料理の合わせ調味料が、本格的に売れ始めたのは平成期になってからだ。そして6年ぐらい前、日本を含めた各国の料理をおいしくする、本格的にすることが目的のシーズニングミックスと呼ばれる合わせ調味料が人気になる。大手食品メーカーが製造するものもあれば、食のセレクトショップに並ぶおしゃれなミックスもある。

グルメ化が進み過ぎて、トレンドに追いつけない

この中で私が特に注目したいのは、合わせ調味料である。合わせ調味料に頼り過ぎることは、3つの点で問題がある。

1つ目は、合わせ調味料が必要な料理がいくつもあると、管理しきれなくなること。

2つ目は、味つけを市販品任せにすると、ブラックボックス化でわからないことが増えるので、台所の担い手が自信を持ちづらくなること。

3つ目は、合わせ調味料には塩分や油脂が多めに入っていることがあるので、塩分や油脂の摂り過ぎにつながりがちなこと。

ブラックボックス化の一番の問題が、2つ目である。その原因も整理してみると、大まかに4つある。

1つは、グルメ化が進み過ぎた国で、食べたいモノ、食べられるモノの種類が増え過ぎたこと。何しろ日本では、和食以外に世界各地にルーツを持つ多彩な料理が日常的に食べられる。

そうした料理の情報を伝えるメディアも多い。さらに、次から次へと新しいトレンドが発生し、新しい作り方、新しい調味料、新しい食材が次々に登場する。

ファッションの世界で最近、普通の人がコンシェルジェに選んでもらうサービスが登場したが、日々の食事にもコンシェルジェが欲しいと思っている人もいるのではないか? 実際、宅配弁当その他の食事のお任せサービスはすでに存在する。

2つ目は、1つ目と関連するが、食べたいモノ、作りたいモノの幅が広過ぎると、いちいち基礎調味料を揃えても使い切れないこと。モノが増え過ぎる問題は1と共通する。

3つ目は、日々が多忙過ぎて落ち着いて料理する、あるいは料理を覚える余裕がなくなっている台所の担い手が多いこと。同じ料理ばかりでは飽きるから新しい料理を食べたいが、レシピを見つけて覚えるのが大変、と思う人は多いだろう。

情報が多過ぎるという意味では、レシピ自体がたくさんあり過ぎて、どれが自分に最適か見つけ出すのも大変だ。

4つ目は、調理技術が追いつかず、レシピを覚えるか自分なりに工夫することができずに、手軽な合わせ調味料に頼ってしまっていること。

こうして事情を分析してみると、頼り過ぎる台所の担い手を単純に責めることはできない側面があるとわかる。情報が多過ぎることについては、社会の変化が大きな要因で、発信する情報を減らせばよいと単純に結論を出せない。

ファスト化する現代社会から逃れるための「料理」

しかし、食に限らず今は多過ぎる情報を処理するために、映画やドラマなどの映像を倍速で見る、スマホを速くスクロールして記事を拾い読みするといった対処方法を選ぶ人は多いだろう。

それでも時間に余裕がないため、得た情報を咀嚼する余裕がなくなっているのではないか? 余裕がない日々が過ぎるうちに、自分が何をしたいのか、何が欲しいのか、何が必要なのかわからなくなってしまう。

ブラックボックス化された世界に合わせていると、やがては自分が何者かすらわからなくなってしまいかねない。

実は、料理はブラックボックス化せず、カスタマイズできるツールである。手の込んだ料理は外注する、と割り切って、食べたいと思える料理から比較的ラクに取り組めるモノを選んでみよう。そして、調理する。

外食などの外注料理は、基本的に選べるのはメニューだけである。味つけ、味の濃さ、素材の種類、大きさ、固さなどは選べない。しかし、自分で作れば選べる。食材と調味料があれば、ある程度自由に欲しい料理を選べるのである。

料理が好きで技術があれば、手のかかるものも作れる。飲食店で合わないと感じている料理や食べたいフレーバーがないスイーツを、カスタマイズすることだってできてしまう。ソーセージに含まれる食品添加物が心配なら、自作したってかまわないのだ。何が使われているものを知っている、何を使うか自分で選択できることは安心感につながる。

こんなに自由度が高く誰でも挑戦しやすいジャンルは、そうそうないのではないか。

日本の住宅では狭さを別にすれば、水と火が使えるキッチンが必ず入っている。食事は誰もが毎日摂らないといけないものだし、基本的な調理道具を買い揃えても、まったくの無駄にはならないだろう。

そして、作ったモノはお腹に納めれば消えていくのでかさばらない。

これまで、多くの実例を見聞きしてきたが、料理は自信を育てる。自分の身体を自分で養っている、自分の食べたいモノを作ってきた、あるいは家族を食べさせてきた。

その経験は必ず自己評価を上げることにつながっていく。料理はブラックボックス化されたモノばかりの現代において、自分自身の誇りを守る最後の砦なのである。

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