「40歳50歳になってもずうっと今のままでいたい」 急逝した「元小結・千代天山」愛する妻子と過ごした“相撲だけではなかった”人生
千代天山は大相撲史上初の栄えある記録を持つ。1999年初場所で新入幕すると3場所連続で三賞を受賞したのである。敢闘賞を2場所続けて獲得、さらに若乃花から金星を挙げての殊勲賞と、堂々たるものだ。
東京相撲記者クラブ会友の大見信昭さんは振り返る。
「体がしなやかで、流れの中で勝機を見つけていくタイプでした。圧倒的な強さやハングリー精神を感じさせないのですが、史上初の記録を残す実力を秘めていた。色白で端正な顔で女性からの人気も高かった」
腐らず努力した相撲人生
76年、大阪市生まれ。本名は角(すみ)大八郎。誕生時は1380グラムの未熟児だった。横綱・千代の富士に勧められ、中学卒業後に九重部屋に入門。91年春場所で初土俵を踏む。弟弟子の千代大海に先を越されたが、97年初場所で新十両に昇進。
3場所連続の三賞受賞後、次の場所で小結に昇進。幕内4場所目にして三役の座に駆け上がる。だが、3勝12敗。九重親方に「今度は三賞ではなく3勝か」とぼやかれた。1場所で小結から陥落するも勝負強さは光る。2000年九州場所と01年春場所で武蔵丸から金星を挙げ、新しく決まり手に制定された「小褄(こづま)取り」で初めて勝ってもいる。
左足かかとの骨折と内臓疾患で成績が低迷しても腐らず努力した。08年初場所で引退。時に31歳。約17年の現役生活で幕内在位23場所。最後は三段目だった。
「毎日のようにプロポーズされました」
日本相撲協会に残らず、翌09年、妻の実家がある和歌山県白浜町で「力士厨房千代天山」を開いた。新天地で順調だったのは良き伴侶に恵まれたおかげだろう。
その人、井澗(いたに)和美さんと名古屋で出会ったのは、95年のことだ。当時、千代天山は19歳。3歳年上の和美さんは大学4年生で、お互いグループで食事中に席が近かった縁で話し始めた。千代天山は早速、和美さんを稽古の見学に招待。ほどなく遠距離恋愛が始まる。
和美さんは振り返る。
「とにかくマメです。公衆電話から1日何回も連絡があり、99年ごろから毎日のようにプロポーズされました」
家に相撲を持ち込まなかった
01年に結婚。翌02年、1男を授かる。
「私たちの名前から1字ずつ取って大和と名付けました。子煩悩で顔をこすりつけるようにあやす一方で、おむつの交換は自分は力があるから締め加減が分からないと怖がりました」(和美さん)
家で相撲に触れなかった。
「勝っても負けても、ただいまーと穏やかに帰ってきました。引退後、私の郷里の方が子供にとって環境がいいんじゃないかと言って、お店もこの地、白浜町で開いたのです」(和美さん)
九重部屋直伝の塩ちゃんこ鍋が名物。部屋との良い関係は続き、春場所の応援に大阪まで出向いた。親方夫妻が来店したことも。飾らない人柄で、地元民に大ちゃんと呼ばれて愛された。
「神社の奉納相撲では子供たちの稽古相手を務めました。毎年一番楽しみにしているのは彼ではないかと思うほどでした」(和美さん)
「ずうっと今のままでいたい」
18年10月、いつものように店の食材の買い出しに出かけ交通事故に遭う。重傷を負い、深刻な障害が残った。
「あまりに急なことで信じられませんでした。息子が高校生になり熱心に卓球に取り組む様子を喜んでいたところでした」(和美さん)
以来約6年。近年は自宅で療養していたが容態が急変。8月29日、48歳で逝去。
「今年になって25年ぶりに大の里が新入幕から3場所連続で三賞受賞の記録を塗り替えたが、四半世紀破られなかった千代天山の実力を思い返していた矢先の訃報でした」(大見さん)
千代天山は本誌(「週刊新潮」)の「結婚」欄の取材に〈浮気の心配があるのは自分の方だといわれますけど、一度でもそんなことがあれば信用を無くしますから、絶対それはありません。40歳50歳になっても、ずうっと今のままでいたいですね〉などと語っていた。その言に違わず、生涯愛妻家だった。
「週刊新潮」2024年9月12日号 掲載