木下真麻さん(仮名・32歳)は児童養護施設出身の女性。奨学金337万円を借りて4年制の私立大学に進学しました。波瀾万丈な彼女の半生を伺いました(写真:Ushico/PIXTA)

これまでの奨学金に関する報道は、極端に悲劇的な事例が取り上げられがちだった。

たしかに返済を苦にして破産に至る人もいるが、お金という意味で言えば、「授業料の値上がり」「親側におしよせる、可処分所得の減少」「上がらない給料」など、ほかにもさまざまな要素が絡まっており、制度の是非を単体で論ずるのはなかなか難しい。また、「借りない」ことがつねに最適解とは言えず、奨学金によって人生を好転させた人も少なからず存在している。

そこで、本連載では「奨学金を借りたことで、価値観や生き方に起きた変化」という観点で、幅広い当事者に取材。さまざまなライフストーリーを通じ、高校生たちが今後の人生の参考にできるような、リアルな事例を積み重ねていく。

「10代で社会の一員として働くというイメージが湧かなかったので、大学に行きたかったんです」

今回話を聞いたのは、中部地方出身の木下真麻さん(仮名・32歳)。小学6年生から高校を卒業するまで、保護者のいない児童や保護者に監護させることが適当でない子どもに対して、安心した生活環境を整える児童養護施設(以下、養護施設)で育った。

「うちは長女の私と、3人の弟の4人きょうだいなのですが、父は酒癖が非常に悪く、酔うと家族に暴力を振るうため、子どもたちは常に怯えていました。ついには一番下の弟を妊娠中の母にも手を出してことが決め手となり、小学6年生のときに両親は離婚しました」

暴力癖のある父親について行った理由

話し合いの結果、木下さんは父親の下に。他の3人の弟は母親に引き取られた。なぜ、彼女は暴力癖のある父親について行ったのだろうか?

「私以外のきょうだいみんなが『ママと一緒に住む!』と言ったときに、父は『もうお酒は飲まないから』と、大泣きしたんです。それで、情にほだされて、わたしだけ父について行くことにしました」

ただ、結局父親は酒を断つことできず、変わらず酒癖が悪かったため、堪らず彼女も母親に迎えに来てもらった。

「その頃、母は再婚して新しいきょうだいも2人いたのですが、その再婚相手も家族に暴力を振るい、たびたび警察のお世話になっていたんです。多分、連れ子がいたのが面白くなかったのでしょう。いよいよ、児童相談所(以下、児相)が介入し、児相に保護されることになりました」

木下さんは受け入れ先の養護施設が決まるまでの小学校6年生から中学校1年生までの1年間、義務教育期間にもかかわらず卒業式や入学式には出席できず、自ら教科書を読みながら独学で勉強するほかなかった。

【2023年8月23日12時45分追記】初出時、児童相談所の記載について誤りがあったため、一部文言を削除しました。

その後、隣県の山中にある養護施設に引き取られ、ようやく中学校に転入することができた。

「そこで、高校3年生まで生活することになったのですが、もう車も通っていない畑ばかりの田舎だったので『こんなところに住むのか……』とは思いましたね。コンビニもないので、基本は養護施設内での暮らしになりました。施設には3歳から高校生まで全部で100人ぐらいいて、同い年は男女合わせて10人程度。フロアごとに男女で別れていて、別棟に知的障害者用の施設と、高齢者用の施設がありました」

しかし、きょうだい4人が同じ養護施設に入れるわけではなかった。

「定員の関係で全員入れなかったのと、わたしはもう中学生ですが、2人の弟はまだ幼いこともあって里親制度が使えたんです。もうひとりの弟は生まれつき身体障害があり、『里親は見つからないだろう』と判断されて、わたしと一緒の施設に入りました」

養護施設での壮絶なイジメ

そんな、養護施設での生活は想像を絶するものだった。

「入った当初はイジメにも遭いました。施設内には両親の愛情を受けず、幼い頃からそこで暮らしている子もいたので、わたしみたいに両親がいてきょうだいもたくさんいるような存在は憎かったのでしょう。だから、みんなで食事をする際も、職員が見ていないところでトマトを投げつけられることもありました。それに、男たちが風呂を覗きに来たり、消灯後部屋に入ってきたりするので、安心して眠ることもできませんでした」

思春期にそんな毎日を送るわけである。当然、木下さんも気が気でない。

「わたしもずっと黙ってやり過ごしていたわけではなく、やられたらやり返していたので、周りから見ると同じく荒れていると思われたでしょう。ただ、そのうち誰と一緒にいればイジメられないのかなどを考えるようになり、ボスみたいな人にゴマを擦ったりしてやり過ごすようになりました」

養護施設内で四六時中アンテナを張って生活しなければならなかったが、通っていた中学校は近隣の公立である。施設内に同い年の子どもが10人もいるのだから、施設に通っているということは特に気に留められなかった。

ただ、木下さんは中学校の途中まで義務教育を受ける機会がなかったため、授業についていくのが精一杯。養護施設には中学卒業後就職か、高校進学かの慣習があったが、木下さんに関しては両親から「6人きょうだいの長女なのだから、中学を卒業したら働いてお金を入れてほしい」と言われていた。

「でも、中卒で働くのは絶対に嫌だったので、3年生のときに『どうすれば大学まで進学できるのか?』という計画を立てました。そのときに、施設の先生が奨学金について教えてくれたんです。

第二種奨学金(有利子)は誰でも借りられますが、第一種奨学金(無利子)だけを借りようと思い、1ランク下の公立高校に進学して学年トップの評定平均4.5をキープさせました」

第一種奨学金(無利子)は、高校での成績が採用条件のひとつになる。難関校に行ったために、第二種しか借りられなかった……というケースは意外と多いので、賢明な判断だったといえよう。

高校の授業料や入学金は養護施設が負担してくれたが(その分、私立は受けられない)、サポートは高校卒業までしか受けられなかった。そこで、木下さんは高校3年間、勉強とアルバイトに励んだ。

「友達と遊ぶよりもバイトで稼いでお金を貯めるほうが楽しかったんですよね。期末テストや中間テストのときも、前日にバイトのシフトを入れてオールで勉強して、翌日テスト受けたあとに、またバイトに行きました」

そんな生活を3年間送り、木下さんは高校の推薦枠を利用して、都内の私立大学に合格した。

大学進学をきっかけに奨学金を借りた

かくして、大学入学が決まった木下さん。激動のときを過ごした養護施設を出て、ひとり暮らしを始めた。

「施設の先生に部屋決めと引っ越しを助けてもらいました。最初はひとりでテレビを見られる楽しさや、好きな時間に洗濯ができる楽しさを堪能していましたが、1週間もすると少しだけひとりということが寂しくなりましたね」

そして、第一種奨学金(無利子)を毎月満額の6万4000円借りることになった。4年間で約307万円だ。さらに、入学金に充てるために第二種奨学金(有利子)を30万円、合計で337万円を借りた。機関保証ではなく、母親と弟に保証人になってもらった。

「家賃は5万4000円で、学費は4年間で400万円程度。だから、奨学金で足りない分と生活費はバイト代で補いました。扶養は関係ないのでほぼ毎日、朝から晩まで働いて、毎月20万円は稼いでいましたね。

都心の飲食店は常に人手不足だったので、4年間そのお店だけで働けました。食事も昼食と夕食はバイト先のまかないで済ませていたので、かかった生活費は電気代ぐらい。わたしは『暇』というのが嫌だったので、忙しく働くことは全然苦ではなく、むしろ楽しかったぐらいです。もちろん、貯金もしていましたよ」

木下さんは勉強するために大学に進むというよりも、養護施設のほかのみんなと同じように、中学校や高校を卒業してすぐに社会人として働くのではなく、「大学生」になることが目標だった。そのため、ゼミやサークルなどに入ることもなかった。

「それに加えて、両親は2人とも、酒・パチンコ・タバコ好きで、わたしが養護施設にいる頃にも『お金貸して』と無心をしてきたんです。キャッシュカードも持っていないので、無理なんですけどね。そこから、逃れるためにも進学したところもありました」

こうして、あっという間に大学4年間は経過。会社説明会で意気投合を果たした社長にスカウトされ、卒業後は賃貸不動産会社に就職した。

「基本給だけではなく、インセンティブも発生するということで、働いた分だけ稼げることに興味を持ちました。バイト先の飲食店では正社員の話まで出ていましたが、『飲食店はバイトまで』と考えていたのでお断りしました」

退職して、奨学金を払えなくなって…

しかし、不動産屋は1年半で辞めた。

「勤めていた店舗が業績悪化で閉鎖してしまい、配属先がコロコロと変わっていったのと、貯金が全然できなかったんです。というのも、家賃が6万6000円のアパートに引っ越したのと、社会人になると社会保険が、2年目からは住民税も引かれてしまうからです。

おまけに不動産業は飲み会など付き合いが多く、出費もとにかく多い……。結果、大学を卒業するときには100万もあった貯金が1年半で底を尽いたんです。さらに、営業からインセンティブの発生しない事務への異動を命じられたので、『じゃぁ、辞めよう』となりました」

特に次の転職先も決めていなかったため、毎月の第一種奨学金1万4000円と第二種奨学金4000円、合計1万8000円の奨学金の返済も困難になってしまった。

「退職してから、奨学金を払えなくなってしまったため、2カ月間は日本学生支援機構(JASSO)に連絡して支払いを止めてもらっていました。その後、バイトでまた飲食店で週7日、17時から翌朝5時まで働いて毎月30万円稼いでいました。朝5時に始発で帰って12時頃まで寝て、14時にはまた出社して仕込みを始めます。ここでもまたまかないが2回出たので、食費は一切かからなかったですね」

そのような生活を半年間続けた後、木下さんは第二新卒枠で人材紹介会社に就職。そこから、5年近く働いてふたたび転職をし、現在は人事として働いている。

「もともと、人事の仕事をやりたかったのですが、人材紹介会社だと面接担当と説明会担当に分けられるため、それだと面白くないと思い、今も仕事をしている会社に1人目の人事として転職したんです。今は採用を中心に働いています」

養護施設で生活している子どもたちの大学進学率は低いけれど…

ようやく仕事と給料が安定したことで、入学金で借りた第二種奨学金の返済は終わり、今は毎月1万4000円の返済が残っている。


入学金に充てるために借りた30万円はすでに完済している(木下さん提供)

大きな額でもないため、41歳になるまで9年間、少しずつ減っていく返済額を見ながら、自分のペースで返していくつもりだ。今後は節税対策で投資も考えている。

現在、32歳ながら、文字通り波瀾万丈の人生を送ってきた木下さん。奨学金という存在がなければ、大学どころか高校に行くこともできなかったのかもしれないのだから、もちろん借りたことに後悔はない。

「大学まで進んだことは正解だったと思います。というのも、以前いた人材紹介会社で『学歴不問』とは言いつつも、大卒を求められる事が多いことを知ったからです。


今の職場はベンチャー企業のため学歴は問われませんが、それはそれとして地頭を求められるため、大変だと思います。この社会は、大卒が当たり前というか、それがベースになっているんですね。人事目線で見ても、大卒でよかったと思います」

ところで「千葉日報」によると千葉県が今年の3月に創設した「児童養護施設等退所者への進学奨学金制度」に対して、「ZOZO」の創業者で起業家の前澤友作氏から1000万円の寄付の申し出があったという。

この千葉県の給付型奨学金は養護施設や里親など、社会的養護のもとで育った子どもが、大学や専門学校に在学している間、毎年30万円支給されるそうだ。

同奨学金は2024年度の進学分から適用されるとのことだが、これまでの木下さんの話を見てきてわかるように、そもそも養護施設退所者の大学進学率は相当低い。同紙によると2021年に千葉県の養護施設から大学などに進学したのは19人で、全体の39.5%。県全体の進学率83.9%と比べると低水準にとどまっているという。

だからこそ、現在、養護施設で生活している子どもたちにとって、参考・希望になると感じた木下さんのライフストーリーだった。

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(千駄木 雄大 : 編集者/ライター)