苦境のスポーツカーで50年以上の長寿という偉業! 日産フェアレディZが存続できる秘訣とは
この記事をまとめると
■空白期間はあるが、1969年の誕生以来、ほぼ継続的に生産されてきたフェアレディZ
■日産の二枚看板であり、もう1台のGT-Rとは棲み分けができている
■運転を楽しめて格好いいという商品価値によって、販売台数を確保して存続させている
GT-Rとともに日産の二枚看板だが棲み分けができている
日産フェアレディZの7代目が、米国で発表された。初代フェアレディZは、1969年に誕生したので、以来、一時的な空白期間はあったものの、50年以上の歴史を積み上げたスポーツカーだ。
もちろん、日産にはGT-Rもある。だが、こちらは元はスカイラインの高性能車として誕生し、そもそもスカイラインはプリンス自動車工業のクルマだったから、永年の日産ファンにとってはフェアレディZがより親しみがあるかもしれない。
また、フェアレディZがふたり乗りのスポーツカー(一時は2+2の4人乗りもあった)であるのに対し、GT-Rは前後に座席を持つグランド・ツーリングカーだから、同じ運転を楽しめる高性能車であっても、車種としての棲み分けはできている。
フェアレディZで重要なのは、消費者にとって身近なスポーツカーであることを貫き通してきたことだ。それが長寿の秘訣といえる。
初代では、GT-Rと同じDOHCエンジン搭載車(Z432)もあったが、数多く販売されたのは日産が開発した直列6気筒OHCのL型エンジン搭載車だった。国内での排気量が2リッターであった(のちに240Zも追加となっている)が、米国では2.4リッターで販売され、そうした排気量の多少や、より高性能を狙ったチューニングなどへの余力をもつエンジンであったため、アフターマーケットのチューナーや、モータースポーツ参戦に向けた改良など幅広く行うことができたのも、フェアレディZが人々に愛された理由だろう。
それであるからこそスポーツカーメーカーではなく、さまざまな乗用車を開発製造するフルラインメーカーでありながら、日産はフェアレディZを存続することができたのだ。
他の乗用車と部品を共有して生き残る現代のスポーツカー事情
フェアレディZは、初代から米国での販売を重視して、室内の広さや身長のある人でも操作しやすい運転席の作り込みをしてきた。それが販売台数の見込みを成り立たせ、商売になるスポーツカーの地位を維持でき、歴史をつなぐことにつながっている。
スポーツカーに限らず、米国人はクーペが好きだ。たとえば、フォード・マスタングやシボレー・カマロが今日なお存続している。それらもフェアレディZと同じように、フルラインメーカーがほかの乗用車とエンジンや部品を共用しながら、運転を楽しめ、外観の格好もいいという商品価値によって、売れるクーペとして販売台数を確保し、存続させている。
しかも米国では、SUV(スポーツ多目的車)やミニバン、かつてはステーションワゴンといった機能や実用性を重視する車種の販売がもちろん多いが、クルマなしでは移動の自由が得にくく、またクルマに乗っていることで身の安全も守れる風土でもあり、ひとりで乗る格好いいクルマの需要は途絶えないのである。
米国での新型フェアレディZ発表では、初代からの所有者がそれぞれに喜びを語り、所有することの誇りを語った。単に次の新車が継続されるだけでなく、歴代の所有者が愛し、所有し続けられるクルマであるからこそ、フェアレディZは語り継がれる偉大なスポーツカーの一台となっているのだ。