巨人桑田真澄氏が若手選手へ行った極秘の講話 松本匡史氏が明かす26年前の真意
松本匡史氏が巨人2軍監督時代、桑田氏の野球観に感銘し講話を依頼
巨人の投手チーフコーチ補佐に就任した桑田真澄氏。指導者としての期待が日に日に高まっている。技術指導だけでなく選手にかける言葉にも注目だ。元巨人のリードオフマン、“青い稲妻”こと松本匡史氏は2軍監督時代、桑田氏とのやりとりで忘れられないことがある。春季キャンプで依頼した若手選手へのミーティングだった。
1987年に引退した松本氏は、桑田氏とは現役で2年間だけ一緒だった。その後、1軍のコーチや2軍監督などの立場で背番号18を見てきた。その努力する姿に感銘を受けていた。
「コツコツと練習をする選手でした。彼の野球と向き合う姿勢が好きでね。(私が)指導者になってから、いつか機会があれば、若手に話をして欲しいなと思っていたんです」
松本氏は2軍コーチ時代、若い選手を見ていて、練習を“やらされている”感覚になっているのではないか、自分が2軍にいる理由がわかっていないのではないかと、感じることが多かった。その反面、桑田氏はいつも自分から考えて、行動していた。プロ意識の塊だった。
松本氏は1995年から巨人2軍監督に就任した。その年の春季キャンプ。桑田氏に「若手に一言、二言、話をしてくれないか?」と打診した。すると桑田氏はある日の練習後、時間を作って、2軍宿舎に来てくれた。
前年の1994年、チームは中日との「10・8」決戦に勝利し、リーグ優勝。西武との日本シリーズも制した。桑田氏はシーズンで14勝11敗、防御率2.52、185奪三振はリーグトップの好成績を残した。セ・リーグ最優秀選手(MVP)に選出されるなど“絶頂期”にあった。
そんなエースが話をしてくれるというこれ以上ない講話の機会。金言が飛び出すだろうと、松本氏も期待をしていた。しかし、桑田氏からの言葉に驚いた。
「首脳陣、スタッフの方は入らないでいただけますか? と。選手に話をしてほしいと頼んだのは私だったんですが、そこに入ることが許されなかったんです。ただ、桑田の話が選手に伝わればいいなと思ったので、了承しました」
1995年の大けがで長いリハビリに…松本氏は桑田ロードを走る背番号18を見ていた
松本氏がそのあと心がけたのは、軋轢を生まないようにすることだった。2軍のスタッフたち、特に投手部門のコーチが、複雑な思いにならないように自分が桑田氏に頼んだ経緯をきちんと説明をした。
「桑田もコーチがいたら気を使ったかもしれないし、『あいつは何言っているんだ?』とか思われるのも私は嫌だった。彼の考えを選手として若手に話をしてもらいたいから頼んだと(コーチ陣に)伝えたら、みんな『分かりました』と同意してくれました」
あれから26年が経過したが、あの時のミーティングで何を話したか、桑田氏から聞いていない。松本氏の方から選手たちに聞いたりもしていない。
「今から考えても、首脳陣が聞かなくてよかったんじゃないかな。選手として大切なことを伝えてくれたんだと思います。桑田のミーティングの後、選手たちに何か大きなことが起きたという記憶はありませんが、自分で考えて、行動をするということが、プロで成功する近道であることを伝えてくれたのではないかと思っています」
1995年5月24日。桑田氏は先発した阪神戦で投手前の小フライにダイビングキャッチを試みた際に右肘を強く打ち、側副靭帯断裂の重傷を負った。1軍選手が主戦場として戦う東京ドームから、ジャイアンツ球場での長いリハビリ生活が始まった。
「毎朝、外野を走っていましたね。私たちはイースタン・リーグの試合の準備をするのですが、それよりも前から、黙々と一人で走っていました。集中力はすごいなと思って見ていました」
走り込んだジャイアンツ球場の外野の芝が剥げた部分は「桑田ロード」と呼ばれるようになった。試練を乗り越えようとする姿は当時の若い選手にも勉強になったという。
「今回、投手チーフコーチ補佐になったことが注目されています。彼は自分の意思をしっかりと言葉で選手に伝えることができると思いますが、他の投手コーチとも相談しながらやらないといけません。彼の知識、言うことがどれだけ選手に直接伝わるか……。どんどん、直接伝えられるような環境ができれば、選手はどんどん伸びていくと思います」
模範の選手から、コーチへ。苦難を乗り越え、努力ができる選手の誕生に期待したい。(Full-Count編集部)