01年夏、近江の準優勝で近畿の蚊帳の外から脱却(滋賀)

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 夏の甲子園出場は1978(昭和53)年の第60回大会から1県1校になる。滋賀県はそれまでは京都代表と戦う京滋大会を勝ち上がって初めて甲子園に届いたのだが、京都府の壁は厚かった。それは、46年から77年までの間で京都府勢を倒しての代表は三度しかなかったことからも窺われる。

比叡山が流れを作る

滋賀の名門・比叡山

 その記念すべき年は旧制中学の流れを持つ膳所が制した。膳所は戦前に1度甲子園出場を果たし、その後は56年(当時は大津東)、59年の春、72年夏に甲子園出場を果たしている。78年夏は通算4度目の甲子園となったが、桐生に0対18と屈辱的なスコアで敗れてしまい甲子園初勝利はならなかった。滋賀県勢にとっては、その年の群馬県勢はことごとく嫌な存在となっている。というのも、その年の春、甲子園に出た比叡山は史上初の完全試合を前橋の松本 稔投手にやられてしまっているのだ。そういう意味では、記念大会イヤーが滋賀勢にとっては春夏ともに屈辱的な年だったということになってしまったのだ。

 それでも比叡山は翌年夏に出場して釧路工、相可(三重)と倒し3回戦では前橋工に6対1と快勝し、群馬県勢にもお返しをすることができた。チームとしても初勝利から一気にベスト8へと躍進した。翌年も、滋賀県勢は好成績を残している。この年春夏連続して甲子園に初出場を果たしたのは瀬田工だった。夏は明野(三重)、秋田商、浜松商を相次いでかわしてベスト4にまで進出した。

 それから5年後、今度は甲西がエース金岡 康弘と主砲石躍 雄成を軸に初出場を果たし、初戦で県立岐阜商を下すと、勢いに乗ってベスト4に進出している。こうして、滋賀県勢も着実に甲子園で実績を残すようになっていった。しかし、レベルの高い近畿地区では、それくらいは当たり前という感覚だったのだろう。決勝進出を果たしていない滋賀県勢は、近畿地区では何となく蚊帳の外という印象は否めなかった。

 平成になって、八幡商が復活してきた。かつては作新学院と延長18回引き分け再試合を演じたこともあったのだが、一時的に低迷。88年夏に復活すると一気に県内では安定した上位校となっていった。学校は1886(明治19)年に大津に創立し、その後近江八幡に移転した。滋賀県勢が近畿大会でも出ると負けの状態から脱皮してきて当然、チームも整備されてくるようになった。

[page_break:90年代から近江が加わり、01年夏甲子園準優勝]90年代から近江が加わり、01年夏甲子園準優勝

琵琶湖をイメージした印象深い近江ブルー

 かつては比叡山がリードしていた感のあった滋賀県だが、80年代に比叡山と八幡商が競い合う。そして、90年代になってそこへ近江が加わってきた。多賀 章仁監督が就任して92年夏に11年ぶりに出場。以降2年ごとに春夏どちらかには出場するくらいに安定。そして01年夏快進撃を続けて、滋賀県勢としてはついに初めての決勝に進出した。琵琶湖をイメージしたというブルーのユニホームは、いつしか甲子園にもすっかり定着してきた。

 そして、この近江の前に立ちはだかるようになってきたのが公立ながら国際文化コース、体育コース、特進コースなど細分化した独自のカリキュラムで結果を出してきた北大津だった。98年、03年と滋賀大会の決勝にも進出していたが、ことごとく近江に跳ね返され、宮崎 裕也監督は「ブルーの壁が厚い」と嘆いたが、04年夏に悲願達成。06年春には甲子園初勝利も記録。こうして、滋賀県に近江との2強勢力を形成していった。

 滋賀県は井伊 直弼の彦根藩の歴史を担う土地柄でもあるが、彦根城内にその藩校からの伝統を担い母体は江戸時代の寛政年間(18世紀末)といわれている彦根東がある。野球部も近年は毎年健闘している。09年に21世紀枠で選ばれると、13年夏には自力で勝ち上がって甲子園出場を果たした。また、新しい勢力としては02年夏に光泉が初出場を果たしている。88年に創立した比較的新しい学校で、これまでは県内で目立つ実績を残していたという存在ではなかっただけに、関係者を驚かせた。

 他には八日市南、サッカー部が強豪の野洲、安曇川などの公立勢と、09年夏に出場を果たし、そして今年、選抜出場を決めた滋賀学園、93年夏に出場している近江兄弟社などもチャンスを窺っている。

 また、京都市内の大学が新たなキャンパスを滋賀県内に設けるというケースも増えてきている。龍谷大も大津市瀬田に広大なキャンパスを作って野球部はそこで練習をしている。これらの環境の変化も、滋賀県球児には、新たな励みになっていることは間違いないだろう。

(文:手束 仁)