■特集 スポーツの秋、食の秋(4)
元東洋太平洋ライト級チャンピオン
坂本博之インタビュー(後編)

 ライト級で激しい減量を強いられていた坂本博之は、ヘルニアの影響も重なり、体重のコントロールがさらに難しくなった。しかし、今なお語り継がれる畑山隆則との一戦を経た後も、リングに上がり続けた。15年の現役生活で坂本が手に入れたものは何だったのか――。

 2000年10月、坂本博之は4度目の世界王座に挑み、畑山隆則と拳を交える。しかし10回、畑山にアゴを打ち抜かれ、坂本はキャンバスに沈んだ。

 そして今、あの一戦を、「僕にとっては影ですね」と振り返る。

「人生には、光と影がある。いいときばかりでも、悪いときばかりでもない。大事なのは光と影、そのどちらを表にして生きていくか。僕はそれを、畑山に教えてもらった。影を作った張本人の畑山に......。言葉ではなく、ヤツの戦い方、生き様(ざま)から教わったんです。もちろん、そう気づくのは、引退する直前なんですけどね」

 畑山の戦い方について、坂本はこう解説を加えた。

「自分はあのころ、『畑山にはパンチがない、俺はある。畑山は打たれ弱い、俺は強い。だから、俺が勝つ』。それしか頭になかった。自分の弱さに気づいてなかった。いや、弱さから目を背けていた。腰を痛め、今まで通りの動きはできない。あの日、1990年代の僕はもういなかったんです。でも僕は、弱い自分を受け入れなかった。

 しかし、畑山は違った。パンチのないことも、打たれ弱いことも認めたうえで、『打たせず打つ』というプロボクサーとしての戦略を徹底した。『己の弱い部分すら受け入れて戦う』『人には光と影がある』。そのどちらも自分なんだということを、僕は畑山に拳で教わりました」

 坂本がリングを降りたのは、その畑山戦から7年後のことだ。「死ぬまで戦うんじゃないか、と思ってたんですけどね」と坂本は笑う。

「体力は落ちる、腰は痛い。でも、経験値は上がっている。相手の戦術を読める能力、『あ、今、打ってくる』ってことが事前にわかるようになるんです。まるで身体のなかに"戦いの神様"が宿ったように。でも、次の日には若手とスパーリングして、14オンスのグローブで、ヘッドギアもしているのに、パンチをもらうとパーンと効いてしまう。プロの試合は8オンスで、ヘッドギアもない。こんなんで、打たれても突き進むスタイルを貫けるのか......と不安になる。

 今日、身体のなかにいた神様が、明日にはいない。でもまた、現れたりする。だから、『まだチャンピオンを目指せる』と思える日と、『引退なのか』と思う日が、数日おきにやってくる。その繰り返しを、何年もやっていたかもしれないですね。今ならわかるんです。神様は長くは体内にいてくれないんだなって。ただ、続けることも、やめることも、決めるのは自分。生涯現役でも全然オッケーです。いいじゃないですか。人それぞれ、いくつもの"正義"がある」

 坂本は畑山戦から引退までの7年間で、妻が宿した子を2度亡くすという悲劇に見舞われた。また、椎間板ヘルニアのレーザー手術を3回、外科手術を1回受け、今もチタン製のボルトが坂本の腰には埋まっている。

「ボロボロになる姿をもう見たくないと、ファンは思ったかもしれない。ただ、あの7年は僕にとって、影を光に裏返すために必要な時間だった。亡くなった子どもたち、家族に、自分がもう一度、もっと強いところを見せなきゃいけない。そこが、本当の最終地点だなって思ってた」

 ただ、もはや坂本の身体は壊れる寸前だった。繰り返した手術で痛みは軽減こそすれ、以前のようには走り込めない。減量はさらに苦しみを増した。

「ヘルニアだから体重を落とせない。それは言い訳。だったら辞めればいい。引退すればいい。落ちないじゃなく、どうしたら落ちるかを考える。食べない、飲まないは当たり前。だから僕は、お風呂の時間を増やしたんです。ベビーローションを肌に塗って、皮膚呼吸を止める。すると、汗がもっと出る。普通はお風呂ってリラックスだったり、1日の疲れを癒すために入るものだと思う。でも、僕にとっては体重を落とすために入るもの、苦痛以外のなにものでもなかった」

 現役生活15年のうち12年を寄り沿い、2001年に結婚した妻も、最初は現役続行に反対だった。これ以上は危険だと......。それでも最後は腹をくくり、坂本がもし倒れたり、その後の人生に支障をきたすようなことになったとしても面倒を見られるようにと、妻はヘルパーの資格を取った。

 現役最後の試合になったのは2007年1月の一戦。倒すか、倒されるか、常に前進を続けたボクサーにとって、その試合はキャリア47戦目にして、初のドローだった。

 試合後、リングから降りる階段を踏みしめると、「坂本、愛してるぞ!」「お前が好きだ!」と、ボクシング会場には場違いとも思える歓声が聞こえた。その瞬間、坂本のなかで、"影と光"は逆転する。

「ああ、単に試合の勝ち負けじゃないんだ。俺は人生の応援をしてもらっていたんだなと。それに気づき、笑って階段を下りられたんです。世界チャンピオンの称号は手にできなかった。キャリア終盤、身体はボロボロだった。最後の試合もドロー。それでも、ボクシングという競技の勝者としてリングを降りられたと感じたんです」

 現在、坂本は2010年に東京都荒川区に開いた『SRSボクシングジム』の会長を務め、若手ボクサーの育成に励んでいる。そのかたわら、全国の学校、児童養護施設、少年院などで講演やセッションを行ない、「どんな境遇だろうとあきらめるな。未来は自分の力で変えられるんだ」と、子どもたちに伝え続けている。

「よく言うのは、『熱を持って行動すれば、いつか必ず熱が返ってくる』ってことです。熱という言葉を言い換えるなら、"愛"、です」

 引退から8年――。坂本に、「今、一番のご馳走は?」と聞いた。少しの間、考える姿を見て、「妻のハンバーグ」という答えが返ってきたら、でき過ぎた話だろうかと思っていると、坂本が口を開いた。

「サラダがあり、ご飯があり、お新香があり、肉があり、そしてみそ汁......。割り箸やプラスチックの器ではなく、ちゃんとした箸と茶碗。そして、目の前には妻。日常の食事、それが一番のご馳走です。何をどこで食べるかじゃない。誰と何を食べるか。妻が手作りしてくれたものを一緒に食べるのが、一番美味しい」

 神様にケンカを売るために、その拳を強く、強く握った。「運命よ、そこをどけ」と、立ちふさがる者はその拳でなぎ倒した。15年のボクサー生活。リングから降りた今、強く握ったその拳をゆっくりと開けば、何も握っていなかったはずの掌(てのひら)にあったのは、"日常"と言う名の愛だった――。

【Profile】
坂本博之(さかもと・ひろゆき)
1970年12月30日生まれ、福岡県田川市出身。1991年12月にプロデビューし、1993年に全日本ライト級王者となる。1996年にはOPBF東洋太平洋ライト級王座を獲得し、1997年に世界初挑戦するも判定負け。その後、1998年から2000年にかけて3度、再挑戦するが世界タイトル奪取は叶わず。2007年に現役を引退。現在は東京都荒川区でSRSボクシングジムを経営している。右ファイター。47戦39勝(29KO)7敗1分。

水野光博●文 text by Mizuno Mitsuhiro