【特集】スポーツの秋、食の秋(3)
元東洋太平洋ライト級チャンピオン・坂本博之インタビュー(前編)

 現役時代、ボクシング・ライト級の坂本博之は減量に苦しみながらも、一度リングに上がれば前進を止めなかった。その左フックは、比喩でなく対戦相手の骨を砕き、「平成のKOキング」の異名を誇った。畑山隆則との壮絶な一戦(2000年10月)を記憶しているファンも多いだろう。その坂本が食事について、減量について、そしてその豪拳で掴んだものについて語った――。

 現役時代を懐かしむように、坂本博之は計量直後の瞬間を語り始めた。

「まずは、水です。最初に口にしたいのは、肉でも、米でもない。だって想像してください。サウナに1時間入った後、いきなり焼き肉は食べたくないでしょ? だから、まずは水。のどから、胃へ、そして全身へ......。おおげさじゃなく、本当に乾いたスポンジに水が染み込むように、体中に水分が行き渡るのを感じるんです」

 ただ、のどは潤っても、すぐにメインディッシュを頬張ることはできない。

「胃が小さくなっていて、いきなり硬いものは受け付けないんです。だから僕は、最初にお粥を食べてました。身体がしょっぱいものも欲しているんで、梅干しを乗せて。梅干しを混ぜたお粥を、ゆっくり、ゆっくり、流し込んでいく......。その後、大好きなハンバーグを食べるんです」

 後楽園ホールのそばにあるファミリーレストラン『デニーズ』。そのハンバーグが坂本の好物だった。

「目玉焼きが乗ったヤツね。ライスに塩をかけて。もう、おいしくて、おいしくて。食べ物がのどを通るのを感じて、『ああ、この感覚、何日ぶりだろう』って......。実際は1週間ぶりなんだけど、食べられない期間ってえらい長く感じる。1日が3倍くらい。だからもう、『3週間くらい飯食ってなかったんじゃないか』って(笑)」

 骨太で筋肉質な坂本は、平常時に73キロほどあった。ライト級のリミットが61.2キロ。つまり、試合決定から試合までの2ヶ月弱で、12キロ弱の減量を強いられる。計量の1週間前までに9キロ落とし、残り3キロ弱を計量日までに絞り込むのが常だった。

 減量が始まると、まるで儀式のように、坂本は冷蔵庫の中身を空にして電源を抜いた。

「食べ物は入ってなくても、氷があったら舐めたくなる。それをやらないようにね」

 減量中、ラッキョウの皮を1枚1枚はがし、口に含んでは吐き出した。食べた気分になり、酸味を感じて出るツバも吐き出せて、一石二鳥だった。すっぱいガムを大量に買い込み、それを噛んでは出るツバを吐き出す日々......。だが、減量終盤になると、ガムを噛んでもツバすら出なくなる。ただひたすら、「早く落ちろ。早く試合の日よ、来い」と願いながら、サウナのなかでガムを噛んだ。そして、最後は完全な絶食。長い散歩をして、1日食べなければ300グラム、2日で500グラム、体重は減った。

 減量が壮絶だった理由のひとつは、坂本がライト級にこだわりを持っていたからだった。20代中盤を過ぎ、2度目の世界挑戦に失敗したころ、トレーナーや会長から何度も、「階級を上げれば世界を獲れるぞ」と階級の変更を打診される。しかし、坂本は首を縦に振らなかった。

「当時、東洋圏のボクサーでライト級の世界チャンピオンになったのは、ガッツ石松さんだけだった。僕は、ふたり目になりたかった。それに新人王、日本チャンピオン、東洋太平洋チャンピオン、どれもライト級で獲ったんです。だから、ライト級で世界チャンピオンになりたかった」

 そして、過酷な減量に耐えられた理由をこう告白する。

「減量がどんなにつらくても、それは試合をするまでの期間。その日が来たら、食べられる。期限を切られると、人間ってできちゃうもんなんです。反対に、いつ食べられるか、いつ飲めるかわからない、先が見えない日々のほうが苦しい。だから、あのころと比べれば、どんな減量も楽だった」

 あのころ――。坂本は、福岡県の田川市、旧産炭地で知られる地で生まれた。幼少期、家庭の事情から弟とふたり、親類宅で生活することに。そこで兄弟は、凄絶な虐待を受けた。食事は与えられず、平日は学校給食の一食でやり過ごす。土日は近所の川でザリガニやタニシ、ライギョを捕まえて飢えをしのいだ。

 その後、兄弟は児童養護施設で生活することになる。そこで初めて食べた、具だくさんの味噌汁に感動し、「これは何ていう食いものか?」と坂本が聞くと、豚汁だった。ただ、坂本は「ブラジル」と聞き違える。

「友だちの家に呼ばれたとき、『何が食べたい?』って聞かれたんで、『ブラジル!』って言ったら、『それ、豚汁のことか!?』って笑われました(笑)」

 ではなぜ、飽食の時代に空腹の恐怖を味わった少年は、自らボクシングというハングリーなスポーツに身を投じたのか?

「施設のテレビで偶然、ボクシングの試合がやっていたのを見たんです。チャンピオンが大歓声に包まれながら、ベルトを腰に巻き、ガウンを羽織って花道を歩き、リングに上がる......。その姿に、ものすごく魅了されたんです。光り輝いて見えたんです。『僕も、あっちの世界に行きたい』って」

 月謝が払えないので、ジムには通えない。走り込みはできても、鉄アレイは買えない。ならばと、坂本は重たい石を袋に入れて、筋トレを開始した。

「運命は、自らの手で切り開くもの」

 それが、坂本の信念だった。

 施設での生活より前のこと。ドジョウを獲るために川に入り、弟と挟みうちにしたときだった。獲物がその手から、スルリと逃げた。太陽を見上げ、「降りて来い!」と坂本が叫ぶ。

「神様はこういう仕打ちを、こういう境遇を与えるのかと。だったら、神様にケンカを売ってやる。俺らは死なんぞ。運命なんて信じない。いくらでも自分で変えてやるって、そのとき誓ったんです」

 ただ、その情熱と背中合わせにあったのが、危機感だった。

「僕には帰る場所がなかった。実家はない。だから、家族も日常も全部、自分で築かなきゃならない。そのためには、勝ち続けるほかにない。この拳で、すべてを手に入れるしかない。そういう危機感は常にありましたね」

 プロボクサーとなった坂本は、ランキングを駆け上がる。しかし、全日本のライト級新人王に輝いても、日本チャンピオンになっても、計量後に好物のハンバーグを食べることは変わらなかった。ただ、ハンバーグは、デニーズのそれではなく、交際を始めた彼女――現在の妻が手作りしてくれた、柔らかなハンバーグとなっていた。
(後編に続く)

【Profile】
坂本博之(さかもと・ひろゆき)
1970年12月30日生まれ、福岡県田川市出身。1991年12月にプロデビューし、1993年に全日本ライト級王者となる。1996年にはOPBF東洋太平洋ライト級王座を獲得し、1997年に世界初挑戦するも判定負け。その後、1998年から2000年にかけて3度、再挑戦するが世界タイトル奪取は叶わず。2007年に現役を引退。現在は東京都荒川区でSRSボクシングジムを経営している。右ファイター。47戦39勝(29KO)7敗1分。

水野光博●文 text by Mizuno Mitsuhiro