辰吉丈一郎の次男、寿以輝(じゅいき)のプロデビュー戦が来たる4月16日、大阪・ボディメーカーコロシアムで行われる。
 本格的にプロを目指す前には80キロ以上もあった身体を、短期間で20キロも絞ってみせた精神力の強さはまさに父譲り。プロテストではフック一発で相手をロープまで吹き飛ばす破壊力を披露し、“辰吉2世”の将来を期待する声は大きい。

 デビュー戦を控えてのインタビューでは奔放な発言も目立ち、ビッグマウスも父譲りのようだが、そんな寿以輝が唯一言わないセリフがある。
 「オヤジを超える」
 2世の常套句でありながら、これに限っては「オヤジと俺は別」と口を濁す。
 「幼少時から父の映像を見てきた寿以輝は誰よりもその天才ぶりを知っている。だからこそ、それを超えるなどとは言えないのでしょう」(ボクシングライター)
 薬師寺保栄との試合前の舌戦や、リング上で腕をグルグル回すパフォーマンスの印象が強烈なだけに、今となっては“ショーマン”の印象を持つ向きがあるかもしれないが、それはとんでもない誤りである。辰吉丈一郎は国内、いや世界レベルで見てもトップクラスの天才ボクサーだったのだ。

 まだデビュー前の16歳のとき、六車卓也との世界王座決定戦のため来日したアサエル・モランのスパーリングパートナーに抜擢された辰吉は、これをめった打ち。「大阪帝拳ジムにドえらい天才がいる」との評判は、関係者や熱心なファンの間で瞬く間に広まった。
 「ソウル五輪日本代表の有力候補」「メダルも狙える」とアマチュア関係者からも絶大な期待を寄せられたが、選考試合では体調不良もあって予選敗退。このショックから1年余りホームレス同然の放浪生活を送るが、ここからの復活とともに辰吉の快進撃が始まる。
 デビュー戦ではその前評判から国内に対戦相手が見つからず、韓国のランカーを招聘して2回KO勝利。4戦目には早くも日本王座を獲得。当時の王者を一方的に攻め立て、4回KOに下す完勝だった。

 その後、世界ランカーとの3試合を経て迎えた1991年9月19日、WBC世界バンタム級王座戦。
 対するチャンピオンのグレグ・リチャードソン(米国)はアマ275戦、プロ33戦と経験豊富なベテランテクニシャン。「フレア(=ノミ)」のニックネームはどこか貧弱にも聞こえるが、素早い動きや的確なジャブには定評があり、プロ入りから間もない辰吉が挑む相手としてはあまりに分が悪いというのが戦前の評。「功を焦った時期尚早の世界戦」と、これに批判的な声も決して少なくはなかった。
 しかし試合開始のゴングと同時に、そんなネガティブな声は一掃される。

 “左を制する者は世界を制す”
 そんな格言の通りに、辰吉は序盤から左ジャブ一本で王者を圧倒していく。
 ムチのようにしならせて出足を止め、またストレートのように伸ばし顔面を打ち抜く。王者の返しのパンチも時折ヒットはするが、辰吉はこれに全く動じる様子もなく、柔らかなウィービングで前に前にと出て、決して主導権を渡さない。
 しなやかな上下の動きは野生の獣さながらで、王者のパンチもこれを捉えきることができない。試合前には「プロの厳しさを知ることになる」と辰吉をたしなめた王者であったが、その右まぶたは、みるみるうちに腫れ上がっていった。

 8ラウンドにはきれいなワンツーで王者をぐらつかせ、迎えた10ラウンド、左ジャブからの返しの右フックがその顔面を捉えると、辰吉はここが勝機とばかりに一気呵成のラッシュを見せる。
 サンドバッグ状態となった王者はラウンド終了のゴングに救われ、ダウンこそは免れたものの、次の11ラウンド、もはやコーナーから立ち上がることはできなかった。
 TKO勝利--。スピードとテクニックを誇る王者に対し、その両方で上回ってみせた完全勝利であった。

 リングに突っ伏して喜びをかみしめる辰吉。具志堅用高の9戦目よりも1試合早い8戦目の世界王座戴冠は、当時の国内最短記録となった。今現在では井上尚弥(デビュー6戦目)に抜かれはしたが、その鮮烈さは今もなお決して色褪せるものではない。