<北京女人天下>横浜育ちの張曦(警備会社OL・29歳)
張曦は、小学2年生の時に、日本へやって来た。父は、上海電視台の東京特派員だった。当時、中国の海外駐在員は家族の帯同を許されていなかったが、張曦は横浜在住の華僑である父方の親族を訪問するという名目で、母と共に1カ月ビザをもらい、二人で海を渡った。
両親と日本で過ごしている間に、北京で天安門事件が勃発した。父は、同胞の無辜の若者に発砲する人民解放軍の映像を見て、強烈なショックを受けた。そして、「中国はもう終わりだ。あんな国には二度と帰らない!」と叫んで、あっさりと記者の職を辞してしまった。この時、東京・六本木の中国大使館では、父のことでひとしきり騒動になったと、後に聞いた。
結局、父は中国に戻らず、幼い張曦の手を引いて、横浜の親族の家に逃げ込んだ。母は父と連日連夜の夫婦ゲンカの末に、上海に帰っていった。その後、上海で再婚し、新たに子供もできたと聞いたが、張曦はそれきり母と会っていない。
それまで明朗闊達だった父は、引きこもりのように塞ぎ込み、口数が極端に少なくなった。その後、横浜の中華街で親族が経営していた小さな漢方マッサージ店を手伝うようになった。父は還暦を迎えた現在でも、十年一日のように、黙々とその仕事を続けている。
こうした突然の外況の変化に、わずか8歳の張曦は、為す術もなかった。父の親族の「養子」となり、日本の小学校に通い始めたが、言葉も通じず、毎日いじめられては泣いて帰ってきた。「曦」という名前は、父に言わせると、「朝の純粋無垢な陽光という意味の最も美しい漢字」なのだそうだが、張曦は、こんな難しい名前を自分に付けた父を恨んだ。何せ小学校の担任の先生でさえも書けず、そもそも何と読んでいいか分からない。「ジャン・シー」と教えてあげても、日本人は目を白黒させるばかりだ。そのうち悪童グループから「名無しの権兵衛」と呼ばれるようになり、いつしか略称の「ゴンベー」に変わった。だが張曦は、ゴンベーが何を意味するのかも、一年経っても分からなかった。
それでも中学校に上がる頃には、日本語がかなり上達していた。逆に中国語の方を、どんどん忘れていった。何せ、中国語の唯一の話し相手である父親は、自分にだけはいつも笑顔を見せるものの、ほとんど口を開かないのだ。
張曦は、横浜の公立の中学校、高校と上がったが、校内では日陰のような生徒だった。期末テストなどでは、「満点ではなく平均点を取る」のを目標にしていて、試験が簡単すぎる時には、わざと間違えて答案を出したりした。とにかく、クラスで目立ちたくなかったのだ。クラブ活動にも参加せず、そそくさと帰宅しては、部屋で黙々と少女マンガを読む日々だった。
高校卒業後は、深く考えずに、横浜の携帯電話の販売店に就職した。仕事は忙しかったが、接客業は嫌いではなかった。すべて一見の客なので、一定の距離を保ってマニュアル通りに接していれば済んだからだ。
一年近く経って、職場で初恋をした。相手は、40代の新任の店長だった。3児のパパで、腹が出て頭部も相当後退していたが、張曦にとっては、初めて自分に優しく接してくれた男性だった。ただそれだけで、その中年男に夢中になった。社会的には公にできない関係でも、それなりに充実した恋愛で、週に一度は、腕組みして石川町のラブホテルに入り、愛を確かめ合った。店長は2年ほどして本社に栄転し、会うのは月に一度のペースになった。
この長い不倫の恋にピリオドが打たれたのは、彼氏が50歳の誕生日を迎えた時だった。その日、張は珍しく奮発して、彼氏の記念すべき誕生日を横浜グランドホテルで祝い、その後、取ってあった上階の部屋に駆け込んで抱き合った。二人は慣れないシャンパンを飲んで酔っ払い、そのまま深夜まで寝込んでしまった。
1カ月後、張は自分が妊娠したことを知った。彼氏に告げると、喜んでくれると思った相手は、顔面蒼白になった。その後、「産む!」「堕ろせ!」と1カ月ほど罵倒しあった後、張は30万円を受け取って中絶した。ついて来てくれると約束していた彼氏は、現れなかった。
病院を出た時、その男と同じ会社に勤めていると思うだけで、虫唾が走った。張曦は翌日、辞職願を出して、あっさり辞めた。
突然することもなくなって、昼間から家でテレビを見ていたら、たまたまワイドショーで、「オリンピックまであと半年」と題した北京の特集をやっていた。張曦は、ブラウン管を通して初めて目にした北京の光景に釘付けになった。全身、身震いして、体内の全細胞が感応しているようだった。「そうだ、私は中国人なのだ……」。
夜遅く、父がマッサージ店から戻ると、「北京に留学に行く」と告げた。本当はそれを中国語で言いたかったが、言葉が出て来なかった。すっかり白髪になった父は、きょとんとしていた。
真夏のオリンピックの喧騒の真っ只中に、張曦は北京へやって来た。真新しい茶色い表紙の中国パスポートを手にしているため、「帰国した」と言うべきなのだが、巨大な北京首都国際空港へ着いたとたん、目眩がしてきて、『地球の歩き方』に頼るしかなかった。
その後、北京語言大学に語学留学した一年間は、なかなか充実した日々だった。年下の日本人留学生グループといつもつるんでいたが、彼らとはどこか「心の壁」があった。張曦の日本語は、いまや完璧と言えたが、内面の世界が、日本人とは微妙にずれているのだ。そうかといって、一般の中国人とはもっと遠い距離感を感じた。そもそも自分は、中国人のくせに中国語をロクに話せない「半端者」なのだ。
留学中の特筆すべきことと言えば、二度目の恋をしたことだった。相手はまたもや、妻子持ちの日本人男性だった。日本人会のクリスマス・パーティに、留学生グループと一緒に参加した際、たまたま同じテーブルでビールグラスを傾けているうちに、意気投合したのだった。
彼氏とは、何度か二人で中国国内を旅行したりしたが、前回で懲りていたので、完全に心を許すことはなかった。男の方も、「単身赴任中の浮気」と割り切っていたようで、予定より早く帰国の辞令を受けるや、淡々とそのことを告げた。ラストは、前日からずっと一緒にホテルで過ごして、そのまま北京首都国際空港まで見送りに行ったが、手を振って後腐れなく別れた。
この男は、張に一つだけ「置きみやげ」をくれた。彼は日本の大手警備会社の北京の子会社で、総務部門の責任者を務めていたが、張に自社での就職を斡旋してくれたのだ。しかも、「日本人現地採用待遇」として。
中国の日系企業には、大別して、4種類の「人種」がいる。第一に、支配階層に当たる日本の本社から派遣されて来た日本人社員グループ。第二に、準支配階層に属する日本の本社採用の中国人。その下にいるのが、大半を占める現地採用の中国人グループ。そして、最近にわかに増殖しているのが、「第四グループ」と言える中国で現地採用された日本人である。初任給は、現地採用の中国人の2倍にあたる8000元くらいが相場だ。
留学を終えた張は、そのままこの日系警備会社に就職した。張が気に入ったのは、給料を除けば、会社の立地だった。大方の日系企業は、建国門や亮馬橋といった一等地の繁華街に密集していたが、この会社は、東四環路のさらに外側の四恵にあった。しかも、地下鉄一号線の東の終着駅近い四恵駅を降りても、さらに歩いて20分もかかった。付近の住民は、市の中心部を「強制退去」させられて、移り住んで来た人が多かった。もちろん、田舎から出てきた人もいた。張にとっては、摩天楼のような市の中心部より、よほど心地よかった。
張は会社のすぐ裏手に、月に3000元で50平方メートルのアパートを借りた。留学中の古びた二人部屋の学生寮と較べると、「天堂」だった。しかも、朝は9時の始業時間の15分前に家を出ればよかった。セブンイレブンもイトーヨーカドーも近くにあって、買い物にも事欠かない。
この会社がなぜこのような立地を選んだのかと言えば、ひとえに業務が特殊だからだ。24時間、常時30人もの警備員が待機し、顧客から通報が入るや、飛び出して行かねばならない。警備員たちは、元軍人や警察官上がりのツワモノばかりで、信用上、北京戸籍を有している男性に限られた。
この他、30人くらいの中国人から成る営業チームがあって、張は唯一の「日本人現地採用待遇」とは言え、末端の社員だった。また採用されたのは、ひとえに元カレの好意からだと思っていたが、それだけではないことが分かった。日系企業なのに、北京で急増する日系企業の顧客がほとんどなく、日系企業の市場開拓が急務だったのだ。
張は本来、内向的な性格だと自任しているが、横浜の携帯電話店時代に、不特定の客に笑顔で接する訓練ができていたので、慣れない営業も苦にならなかった。それどころか、入社してまもなく、日系の大手銀行や商社などと、次々に新規の大型契約を果たして、日本の本社からの派遣組である3人の日本人幹部を仰天させた。
北京日系企業の支配層を形成している日本人駐在員たちは、張と名刺交換すると、始めは中国人と思って身構える。だが、「私は横浜育ちでベイスターズのファンなんですよ」と、人懐っこい笑顔で話しかけたとたん、相好を崩す。あとは得意の話術で、惹きつけていくというわけだ。
「勝負」と思った日本人駐在員は、地元・四恵の青島料理の店に誘った。「中華風魚介居酒屋」とでも言うべきこじんまりした店だが、彼らは何より、「四恵」という未知なる場所に興味を示した。そして新鮮な魚介類をツマミに、本場の青島ビールを数本空けた頃には、駐在員たちは新規契約を約束してしまうというわけだった。
ある駐在員男性に聞いたが、北京の日本人駐在員の男女比は、20:1だという。そのため駐在員の紳士諸君は、20代の日本人女性と飲みに行くなどという「僥倖」には、そうそう与れないのだ。
張曦は、国籍こそ日本ではなかったが、日本人のメンタリティを持っているので、どこへ行っても日本人と同等に扱われ、とにかく駐在員のオジサン連中にモテた。「中国総代表」という肩書きの付く大手日系企業の知り合いも、数十人に上る。
警備会社に入社して一年半で、張曦の生活は一変した。中国で大ベストセラーとなってドラマ化、映画化されたOLのサクセス物語『杜拉拉昇職記』(トララの出世物語)を地で行っているようだと、自分でも思った。何せ「現地採用組」としては異例のスピード出世を果たし、いまや「日系企業担当経理」(取締役)だ。専用の秘書に、専用車まで付く身である。部下は20人以上に上り、その半数は、現地採用の日本人だ。「特別ボーナス」も、この一年で5度ももらった。
張曦は今週、総経理室に呼ばれ、一年で6度目となる「特別ボーナス」をもらった。北京にチェーン展開を決めた日本のコンビニの警備全般の契約を、早々と取ったのである。このコンビニは、3年で50店舗、5年で100店舗の展開を目指しているので、かなりの大型契約になった。
張曦は特別ボーナスを受け取った晩、専用車を「新光天地」(北京屈指の高級デパート)まで走らせ、1200元もする「張裕ブランド」の最高級ワインを買った。周囲には言っていないが、今週末には、いよいよ30歳を迎える。得意のサラダを作って、自宅でゆっくりと、「お一人様の30歳」を祝おうと思ったのだ。
誕生日の晩には、久しぶりに横浜の父に電話してみるつもりだ。この頃ようやく、中国語で父と話ができる自信がついた。父親に放つセリフも、もう決めてある。
「パパ、帰ってきて。私は出世したわよ。それに、私たちの祖国はずいぶんと変わったよ!」(執筆者:近藤大介・前明治大学講師(東アジア共同体論)、北京在住)
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