小泉進次郎氏。良くも悪くも一つひとつの発言や動静がマスメディアをにぎわせている(写真:© 2024 Bloomberg Finance LP)

過去最多9人が立候補する自民党総裁選。テレビ番組や街頭演説などで連日論戦が行われている。これまでの報道によれば、国会議員票と党員票の合計から、元環境大臣の小泉進次郎氏、元防衛大臣の石破茂氏、経済安全保障担当大臣の高市早苗氏の3人が有力視されている。

とりわけ台風の目になっているのは、勝利すれば「史上最年少総理」となる小泉氏(43)だ。良くも悪くも一つひとつの発言や動静がマスメディアをにぎわせている。

わかりやすいのが、“小泉構文”“進次郎構文”とも呼ばれる「迷言」だろう。「今のままではいけないと思います。だからこそ、日本は今のままではいけないと思っています」「リモートワークができてるおかげで、公務もリモートでできるものができたというのは、リモートワークのおかげですから」等々、独特の言い回しが特徴だ。

驚くことにそれがニューストピックとして取り上げられることも多い。大手新聞の中には、小泉氏の発言を言語学者に分析させている記事があるぐらいである。

人々の関心を集める大きな渦を作り出してしまっている

実のところ、このようなショーは、政治家を面白おかしく論評したり、嘲笑の対象にすること以上に、人々の関心を集める大きな渦を作り出してしまっている点が非常に重要である。

文学研究者で作家のジョナサン・ゴットシャルは、『ストーリーが世界を滅ぼす 物語があなたの脳を操作する』(月谷真紀訳、東洋経済新報社)で、マスメディアがこぞって過熱する政治ドラマに便乗した結果、2016年のアメリカ大統領選挙でドナルド・トランプ氏を勝利に導いた側面があると論じた。

どのテレビ局も新聞も、トランプ氏を「進行中の政治ドラマの主役に仕立て、彼は毎日、毎時間のように新たな暴言を吐き、新たな展開をもたらして期待に応えた」という。「それはゆっくりと展開する文芸小説ではなかった。大どんでん返しのある無茶苦茶な筋書きの政治メロドラマだった」とし、トランプ氏の「大統領就任は、彼がナラティブ心理をハックし、彼を軽蔑する人々が圧倒的多数だった報道機関に数十億ドル分相当の宣伝を無料でやらせることができた結果だった」と述べた(同上)。

つまり、人々の「物語を語る動物」としてのポテンシャルが見事に活性化されたのである。トランプ氏は、退屈ではない「悪役(ヒール)になりきる」ことによって、ジャーナリストや報道機関がこぞって食い付く絶好のエサとなった。

懸念すべきは、空騒ぎ後の反動

今回の総裁選は、国政選挙ではないので、民意が直接反映されるものではない。しかし、こういった物語を操る能力に磨きをかければ、小泉氏のようなショーの主役になりやすい政治家は、総裁選後の選挙においても注目を獲得し、圧倒的な宣伝力を発揮するだろう。小泉氏が「できるだけ早期」の解散を明言していることは大いなる皮肉である。

メディアを通じたマインドハックは、例えネガティブな批評であっても「話題の人」として人々の興味を引き付け、その評価をめぐって議論が紛糾することも含めて、コミュニケーションが雪だるま式に膨れ上がることにこそ真の深刻さがある。そして、おそらくは、この空騒ぎの後の反動が最も懸念すべき事態を引き起こす可能性が高い。政治に何ら期待を持てないという空気感がより強まるからだ。

筆者は『山本太郎とN国党 SNSが変える民主主義』(光文社新書)において、政治に対する絶望感が広がることでポピュリズムの台頭が促されることを、2019年の参院選で国政政党に格上げされた新興政党を例に指摘したが、都知事選で元安芸高田市長の石丸伸二氏が突如躍進したように、ポピュリズム的な政治勢力が伸長するかもしれない。

ポピュリズムには2つの定義がある。1つ目は「固定的な支持基盤を超え、幅広く国民に直接訴える政治スタイル」で、2つ目は「『人民』の立場から既成政治やエリートを批判する政治運動」だ(水島治郎『ポピュリズムとは何か』中公新書)。

れいわ新選組やNHKから国民を守る党、参政党といった政党は後者に当てはまる。具体的には、自らが「人民」を直接代表すると主張して正統化し、広く支持の獲得を試みる、「人民」重視の裏返しとしてのエリート批判、「カリスマ的リーダー」の存在、イデオロギーにおける「薄さ」にある(同上)。

石丸氏は、6月に行われた都知事選立候補者の共同記者会見の場で、「政治屋の一掃」と書かれたボードを掲げた。その真意について「私の政策、のさらに上にある掛け声です」と説明したうえで、「仕事をするふりをして、一向に成果を上げない。そんな政治屋を一掃したいと、これまでずっと考えてきました。恥を知れ恥を。これが国民の思いだと思っています」などと発言した。

ここには、自らが「人民」を直接代表する姿勢が明確に示されているほか、「政治屋の一掃」には、「人民」重視の裏返しとしてのエリート批判がうかがえる。

野党を含む既存の政党が国民にとって、自分たちの意思を蔑ろにしている存在でしかないならば、オルタナティブ(代替物)が志向されるのは論を俟たない。

立憲民主党の新代表が元首相の野田佳彦氏に決まったことで、前政権時代に消費増税を強行したことなどが改めて論評され、政権交代に対する警戒感すら漂っている。とりわけ増税や物価高で不安と不満のスパイラルに陥っている多数の国民の現状を踏まえると、ポピュリズム的な熱狂の引火性が高い状態にあるといえる。

神学者の森本あんりは、『異端の時代 正統のかたちを求めて』(岩波新書)で、「ポピュリズムのもつ熱情は、本質的には宗教的な熱情と同根である」と述べた。

かつてであれば社会的な課題を解決したいと思った人々は、既存の政治団体や宗教団体を通じて何らかの変革を模索したが、このような中間集団がその機能を担うことが困難になったことが問題の根本にある。そのため、ポピュリズムは「宗教なき時代に興隆する代替宗教の一様態」になっているのである。

「善と悪の闘争」という物語をその中心に据える危うさ

しかも、ポピュリズムは、善と悪の闘争という物語をその中心に据えている。旧世代と新世代、エリートと庶民、金やスキャンダルにクリーンな人間と汚れている人間……わたしたちは明快で単純な物語に感情をあおられ、「悪」とみなした人々を徹底的に糾弾することに血道を上げかねない。

なぜなら、闘争には、自分のアイデンティティを正当化する面があるからだ。現在の自分がおかれた境遇を打開してくれそうな、あるいは既得権益にまみれた既存の社会を破壊してくれる政治家を待望するのである。

当然ながらその政治家が主導権を握ったからといって思った通りになるかどうかはまったく別の話だ。けれども、自分のお好みの物語への書き換えを無意識にしてしまうわたしたちは、残念ながらこのような闘争になびく性質を少なからず持っている。

誰もが誘惑を自覚する必要がある

前出のゴットシャルが、「私が『物語の語り手(ストーリーテラー)を絶対に信用するな』と声を大にして訴えたとき、私はあなたに呼びかけていただけではない。あなたのことを言っていたのだ。私たちは皆ストーリーテラーであり、だから信用してはいけない――誰よりも私たち自身が」と主張したように、物語を語る側でもあるわたしたち一人ひとりがその誘惑を自覚する必要があるのだろう。

聞こえの良いフレーズや、民意を無視した公約、要領を得ない発言などが躍る自民党の「空騒ぎ総裁選」。最後に笑うのはいったい誰だろうか? もちろん、その人物は自民党の候補者ですらないかもしれない。ひょっとしてこれは新たな悪夢の始まりにすぎないのだろうか?


(写真:Bloomberg)


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(真鍋 厚 : 評論家、著述家)