好調ソニーが「かつての不調」から脱却できたワケ。テレビ、オーディオは“売上の2割”に過ぎない
経済本や決算書を読み漁ることが趣味のマネーライター・山口伸です。『日刊SPA!』では「かゆい所に手が届く」ような企業分析記事を担当しています。さて、今回はソニーグループ株式会社の業績について紹介したいと思います。
戦後に設立したソニーはラジオメーカーとして台頭し、創業当初から海外展開に注力しました。1970年には日本企業で初めてNY市場に上場し、ウォークマンのヒットでブランドを確立します。金融や音楽・映画事業も手掛け、他の家電メーカーをよそにハードへの依存度を下げていきました。そしてこのような多角化が後の業績悪化を助けることになります。V字回復を果たし、好調が続くソニーの歴史を調べてみました。
◆ラジオの成功で60年代には世界的メーカーに
ソニーは1946年、東京通信工業株式会社として設立しました。技術屋の井深大氏とセールスマンである盛田昭夫氏による共同設立という形ですが、このタッグがうまく働きました。1955年に日本初のトランジスタラジオを発売し、57年に発売したラジオ機「TR-63」が輸出でも成功したことで、急成長する輸出企業として当時から注目されました。
海外展開を見据え、58年に社名をソニーに変更しました。ラジオの性能もさることながら、ニューヨークに拠点を構え、積極的に営業活動を行った盛田氏の功績も背景にあります。1960年には既に売上高の4割を米国が占めるようになりました。
テレビ生産は国内メーカーのなかでも後発でしたが、68年にカラーテレビを発売して以降、テレビ事業も中核となりました。75年に家庭用ビデオレコーダーを発売。ソニーのベータマックス規格は「ビデオ戦争」でVHS規格に負けましたが、映像・音響メーカーとして台頭するようになります。何より79年に発売した「ウォークマン」がSONYのブランドを確たるものにしました。
◆白物家電ではなく、多角化
エアコン、冷蔵庫といった白物家電に進出しない代わりにソニーは早くから経営の多角化を進めました。1979年には米企業との合弁でソニー・プルーデンシャル生命保険を設立し、金融事業に参入。88年には米企業と合弁で設立していたレコード会社を吸収合併しました。そして翌89年には米映画会社のColumbia Pictures Entertainmentを6,720億円で買収しました。当時は日米間で貿易摩擦が起きていた時期でもあり、米国を象徴する映画産業の買収はジャパンバッシングの対象になったほどです。90年代にソニーの映画事業は難航し、94年に2,652億円を計上しましたが、現在では事業の一角を担っています。
その後、1994年に初代PlayStationを発売し、任天堂の牙城であったゲーム産業に進出しました。96年には子会社を設立してインターネット接続サービス「So-net」を開始し、パソコンブランド「VAIO」を立ち上げました。金融事業では保険に続く形で2001年にソニー銀行を設立しました。
◆業績悪化でソニーショックを引き起こす
このように多角化を進めていたものの、2000年当時においてオーディオ、テレビ、ビデオといったエレクトロニクス事業は、依然としてソニーにおける売上高の7割を占めていました。これらは新興国勢の台頭もあり、日本の輸出が伸び悩んでいた分野です。
90年代後半から2000年にかけてソニーの利益率は低下し続けました。そして2003年3月期の決算で翌期の減益予想を発表したのを機にソニー株はストップ安となり、国内市場全体に波及して「ソニーショック」を引き起こしました。
◆国内事業はスリム化もゲーム事業が拡大
ソニーは2000年以降、利益率の改善を進めるべくスリム化を進めました。2000年3月期末時点で約19万人いた従業員は幾度と大規模なリストラを行い、20年3月期末時点では11万人にまで減少しました。20年間で人員の40%以上を削減したわけです。中高年の社員に対しては「キャリアデザイン室」という名の追い出し部屋で退職を勧告したと報道されています。
戦後に設立したソニーはラジオメーカーとして台頭し、創業当初から海外展開に注力しました。1970年には日本企業で初めてNY市場に上場し、ウォークマンのヒットでブランドを確立します。金融や音楽・映画事業も手掛け、他の家電メーカーをよそにハードへの依存度を下げていきました。そしてこのような多角化が後の業績悪化を助けることになります。V字回復を果たし、好調が続くソニーの歴史を調べてみました。
ソニーは1946年、東京通信工業株式会社として設立しました。技術屋の井深大氏とセールスマンである盛田昭夫氏による共同設立という形ですが、このタッグがうまく働きました。1955年に日本初のトランジスタラジオを発売し、57年に発売したラジオ機「TR-63」が輸出でも成功したことで、急成長する輸出企業として当時から注目されました。
海外展開を見据え、58年に社名をソニーに変更しました。ラジオの性能もさることながら、ニューヨークに拠点を構え、積極的に営業活動を行った盛田氏の功績も背景にあります。1960年には既に売上高の4割を米国が占めるようになりました。
テレビ生産は国内メーカーのなかでも後発でしたが、68年にカラーテレビを発売して以降、テレビ事業も中核となりました。75年に家庭用ビデオレコーダーを発売。ソニーのベータマックス規格は「ビデオ戦争」でVHS規格に負けましたが、映像・音響メーカーとして台頭するようになります。何より79年に発売した「ウォークマン」がSONYのブランドを確たるものにしました。
◆白物家電ではなく、多角化
エアコン、冷蔵庫といった白物家電に進出しない代わりにソニーは早くから経営の多角化を進めました。1979年には米企業との合弁でソニー・プルーデンシャル生命保険を設立し、金融事業に参入。88年には米企業と合弁で設立していたレコード会社を吸収合併しました。そして翌89年には米映画会社のColumbia Pictures Entertainmentを6,720億円で買収しました。当時は日米間で貿易摩擦が起きていた時期でもあり、米国を象徴する映画産業の買収はジャパンバッシングの対象になったほどです。90年代にソニーの映画事業は難航し、94年に2,652億円を計上しましたが、現在では事業の一角を担っています。
その後、1994年に初代PlayStationを発売し、任天堂の牙城であったゲーム産業に進出しました。96年には子会社を設立してインターネット接続サービス「So-net」を開始し、パソコンブランド「VAIO」を立ち上げました。金融事業では保険に続く形で2001年にソニー銀行を設立しました。
◆業績悪化でソニーショックを引き起こす
このように多角化を進めていたものの、2000年当時においてオーディオ、テレビ、ビデオといったエレクトロニクス事業は、依然としてソニーにおける売上高の7割を占めていました。これらは新興国勢の台頭もあり、日本の輸出が伸び悩んでいた分野です。
90年代後半から2000年にかけてソニーの利益率は低下し続けました。そして2003年3月期の決算で翌期の減益予想を発表したのを機にソニー株はストップ安となり、国内市場全体に波及して「ソニーショック」を引き起こしました。
◆国内事業はスリム化もゲーム事業が拡大
ソニーは2000年以降、利益率の改善を進めるべくスリム化を進めました。2000年3月期末時点で約19万人いた従業員は幾度と大規模なリストラを行い、20年3月期末時点では11万人にまで減少しました。20年間で人員の40%以上を削減したわけです。中高年の社員に対しては「キャリアデザイン室」という名の追い出し部屋で退職を勧告したと報道されています。