「世界最強のパスポート」なのに6人に1人しか持っていない…日本人の「海外離れ」が止まらない円安以外の理由
※本稿は、佐滝剛弘『観光消滅 観光立国の実像と虚像』(中公新書ラクレ)の一部を再編集したものです。
■観光学部の「海外研修」が中止に
2023年度、筆者が所属する大学の観光学部では4種類の「海外研修」の授業が用意されていた。それぞれ、韓国、台湾、珠江デルタ(中国広東省、香港、マカオ)、ハワイでの研修である。
しかし、授業として成立したのは韓国だけであった。他は学生が最低履修人員に満たなかったのである。約3年間、高校時代も含め、現在の大学生は海外へ渡航する機会をコロナ禍で奪われた。海外研修や海外留学はそうした学生に対しても、本学部のカリキュラム上売りの授業である。当然、渡航を我慢していた学生が我も我もと履修してくれるはずだと思っていた。しかし、蓋を開けてみると実際は全く違っていた。
自分のゼミ生を中心に、学生たちにそのあたりの事情を詳しく聞いてみた。まず多いのが、渡航費用の問題である。学生の多くは自分の学費や生活費の一部、もしくはかなりの部分をアルバイトで賄っている。奨学金を得ている学生も少なくない。彼らにとって、本当は行ってみたい海外研修の費用は予算オーバーなのである。
■「お金がない」以上に「そもそも海外に行きたくない」
2022年度のハワイ研修はなんとかぎりぎりで催行できたが、参加希望者が少なかったため、1人当たりの負担が増し、その費用は60万円あまりだったと聞いている。学生にとって、親を頼ったとしても出費をためらってしまう価格であろう。しかも2023年ごろから顕著になった物価上昇の影響が大きく、国内旅行すら躊躇するという学生も多い。
もう一つの理由は、もっと深刻だ。「海外に行きたいとは思わない」という声である。大学名に「国際」を冠し、いまや最大のグローバル産業ともいえる「観光」学部に入学して、海外に行きたくないとすれば、いったい何を学ぶのだろう?
このあたりの事情を聞いてみると、コロナ禍により、高校時代に経験できるはずだった海外への修学旅行などが軒並み中止になり、渡航のきっかけを失ってしまったという声が多い。また、経験がないと、パスポートの取得や航空チケットやホテルの予約、現地での移動手段などにも不安が募る。
そもそも外国語が流暢とは言えない学生にとって、言葉の壁も立ちはだかる。旅慣れてしまえば、現地語が話せなくても何とかなるというノウハウを身につけられるはずだが、経験がないと不安になるのは無理からぬところではある。
■「インバウンドへのおもてなし」は大丈夫か
もちろん、ITやインターネットの発達で、自宅に居ながらにして海外の観光地の動画も見られるし、実践的な英語学習もオンラインなどで可能だ。しかし、現地に赴いて直接海外の雰囲気や空気に触れ、対面で外国人とコミュニケーションを取るのは、きわめて貴重かつ重要な体験のはずである。そうした体験が乏しいと、海外からの観光客を迎える際に、どんなサービスや受け入れをしたらいいのか想像力を働かせにくい。
自分が海外に出向いて便利だと思ったり苦労したりした経験は、「観光立国」を標榜するこの国でインバウンドを受け入れる際に大きく役に立つ。自分たちも海外に積極的に出かけて様々な経験をした人が、逆に海外の人を受け入れるときにその体験を活かせる。もし、一方通行になってしまえば、「インバウンドへのおもてなし」は果たして大丈夫なのだろうか?
ただし、念のため申し添えておくと、本学部の他の海外プログラムには、多くはないが一定の参加者はあった。2024年度の海外研修も、実施できる授業は増えている。
■両親の介護、ペット…若者の海外離れの理由はさまざま
若者の海外離れについては、他にも様々な理由が語られており、それらが複合的に絡み合っている。円高と昭和バブルの時代には、海外旅行はぐっと身近に感じられ、行き先や購入したブランド品を競い合った。一方、若者の貧乏旅行、例えばアジアやヨーロッパの「放浪」も憧れのスタイルだった。
作家沢木耕太郎氏の『深夜特急』(1986〜1992年)は、一部の学生のバイブル的存在だったし、海外ガイドブックの定番『地球の歩き方』の“はしり”のころ(1979年創刊)には、そこに自分の体験を投稿し、掲載されることがある種のステータスでもあった。
こうした学生時代を過ごし、経済的に余裕があり、子育ても一段落した50〜60代は、今度は両親などの介護で海外には出られないという声も周囲から聞かれる。中にはペットの介護で身動きができないケースもある。
経済的な理由に加えて、自由に海外に行くにはいくつものハードルがあるのが現在の日本の状況である。なお、円安によって海外渡航を断念せざるを得ないケースは、高校の修学旅行にも及んでいる。2019年度に7校の公立高校が海外に出かけた群馬県では、2024年度は1校しか海外へ行かないと報道されている(2024年5月23日、毎日新聞のウェブ記事)。
■パスポートを持っている日本人は「6人に1人」
こうした事象をわかりやすく示すデータの一つが、日本人のパスポート保有率である。
図表1は、ここ10年ほどの日本人のパスポートの保有率を表したものである。その年の有効旅券の既発行数を人口で割ると算出できる。これを見ると、インバウンドが一気に増加した2010年代でも22〜25%の間をほぼ横ばいに推移、おおむね日本人の4人に1人がパスポートを持っていると言って間違いがなかった。
ところがコロナ禍が始まった2020年から保有率は低下をはじめ、2023年にはおよそ17%に落ち込んだ。日本人の6人に1人しかパスポートを持っていないということになる。また、保有率は都市部と地方で格差が大きく、2022年のデータでは、最高の東京都(29.9%)は最低の秋田県(5.8%)の5倍ほどとなっている。
2023年の保有率は前年から下げ止まっているように見える。本来ならコロナ禍で渡航がままならずパスポートの取得を控えた人たちの再取得で、保有率は反転して上がると期待されていたが、そうはならなかった。
■「内向き志向」は望ましいとは言えない
なお、他国のパスポート保有率はデータを取得できる年がまちまちなので比較しづらいが、英国が80%程度、アメリカが50%程度などと、日本に比べて格段に高い。日本はG7の中では最低であるだけでなく、近隣の国・地域と比較しても(韓国が40%程度、台湾が60%程度)かなり低い。
「観光立国」は、海外から人が来てもらえればよいのであって、日本人が海外に行くかどうかは関係がない、むしろパスポートを所有していなければ、旅行は国内に限るので、国内の観光地も潤う。そもそも入国者が出国者より多ければ、「外貨を稼ぐ」という意味ではプラスになるので、歓迎すべき事態だという考え方もあるかもしれない。
しかし、筆者は入国者の人数と同じくらいの人が海外に行き、見聞を広め、海外の観光事情も知ってこそ、長期的に「観光立国」を支える下地になると考えている。
繰り返しになるが、自身が海外渡航の経験があれば、訪日観光客の気持ちを汲んで接することができる。そもそも海外経験がないと、思考が内向きになりがちで、日本を世界の中に位置づける視点を持ちにくくなる。エネルギーも食料もインターネットのプラットフォームさえも海外に依存する日本で、内向きの人が増えることは望ましいとは言えないだろう。
■物価高で「余裕のある人」が減っている
現在の落ち込みは、コロナ禍の影響なのでいずれ回復するとも考えられるが、前述のように2023年の出国者数はコロナ前の半分程度までしか回復していない。原油高によるサーチャージ(燃料加算)の増加や円安が渡航費を押し上げている一方、賃金の上昇はあるものの、昨今の食費や日用品の値上がりで実質賃金は2023年もマイナスとなっており、海外に行く余裕のある人は経済的な観点からも少なくなっている。
この傾向は当面続くであろうし、海外旅行は一度行けばその魅力に取りつかれ何度も行きたくなる反面、ある年齢まで一度も行かなければ、渡航意欲は高まらないことが想像できる。パスポートが手元にない、だから海外に行こうというモチベーションもない、という悪循環に陥るわけである。
■渡航客の減少はビジネスにも影響する
日本人の渡航者の減少は、国際路線を誘致した地方空港では、路線の存続にも影響しかねない。そのため、特定の空港から出国する日本人に対し、金銭的な補助を始めたり、検討したりしている自治体もある。
海外からの誘客は相手国の事情に影響されやすく、外需頼みでは一気に雲散霧消することもありうる。そうなれば、ビジネスなどで路線が必要な層にも影響が及ぶ。とはいえ、こうした補助予算は、訪日客の誘致、あるいは海外からの留学生の誘致などにつぎ込まれる予算に比べれば微々たるものになっている。佐賀県では、九州佐賀国際空港から国際線を利用して渡航する2人以上のグループに1人当たり片道最低1000円を補助する「国際線グループ旅行支援」をコロナ禍以前から実施している。
もちろん、見方を変えれば日本にはまだあまり知られていない場所も多く、かえって海外の観光客にそうした隠れた魅力を教えてもらっているようなメリットもある。日本人ならば海外にばかり目を向けず、日本の良さをもっと知ることも大切だ、という声もあろう。日本の都道府県の正確な位置や県庁所在地もうろ覚えの人が少なくない実情を見ると、「まず国内を知ろうよ!」というのもあながち間違いではない。
■「世界最強」パスポートの持ち腐れ
しかしながら、日本のパスポートはビザの取得をせずとも入国できる国の数が常にトップクラスで、「世界最強のパスポート」とも言われている。2024年1月に英国のコンサルタント会社ヘンリー・アンド・パートナーズが発表したデータによると、日本のパスポートはシンガポール、仏独西伊の欧州4カ国とともに194の国と地域にビザなしで渡航できる。ほぼ世界中どこへでも気軽に行けるパスポートなのに、その強さが十分活かされていない。
そして現今の経済状況などを考えると、保有率が再び伸びる可能性はあまりない。世界各地から日本に観光にやってくる人に対し、相手の国のことを体験的に語れない。これで真の観光立国と言えるのだろうか?
ちなみに、2023年5月にJTBが実施したアンケート調査によると、「この先の1年以内に海外旅行に行きたいと思いますか?」という問いに対し、「行きたいと思っていて、具体的に予定・検討している」と「行きたいと思っているが、実施するかどうか迷っている」が合わせて33.2%、「今は行きたくない」が33.4%、「今に限らず行きたくない、興味がない」が33.3%と、ほぼ3分の1ずつとなっている。この結果が2023年の渡航の伸び悩みを裏付けていると言えそうだ。
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佐滝 剛弘(さたき・よしひろ)
城西国際大学教授
1960年愛知県生まれ、東京大学教養学部(人文地理)卒業。元NHKチーフプロデューサー。番組制作のかたわら、メディア、ジャーナリズム、観光、世界遺産などについての評論、講演多数。著書に、『旅する前の「世界遺産」』(文春新書)、『郵便局を訪ねて1万局』(光文社新書)、『日本のシルクロード』(中公新書ラクレ)、『「世界遺産」の真実』(祥伝社新書)など多数。
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(城西国際大学教授 佐滝 剛弘)