藤原道長とはどんな人物だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「権力を維持するためなら、なりふり構わず行動した。それは『金峯山詣』のいきさつを見るとよくわかる」という――。
藤原道長(写真=東京国立博物館編『日本国宝展』読売新聞社/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

■ライバル・伊周の動向が気になる藤原道長

藤原道長(柄本佑)は藤原行成(渡辺大知)に、「藤壺(註・中宮彰子の後宮)に伊周が訪ねてくることはないのか」と尋ねた。NHK大河ドラマ「光る君へ」の第33回「式部誕生」(9月1日放送)の一場面である。

行成が「伊周殿は目立った動きは控えておるやに思えます」と答えると、道長は「されど伊周の位をもとに戻したのは、敦康親王様の貢献を見据えてのことであろう。このまま中宮様にお子ができねば、伊周の力は大きくなるやもしれぬ。気は抜けぬな」と、大きな懸念を口にした。

敦康親王(渡邉櫂)は一条天皇(塩野瑛久)が、寵愛した亡き皇后定子(高畑充希)とのあいだにもうけた第一皇子。定子の兄が伊周(三浦翔平)だから、即位すれば外戚である伊周が力を持つ可能性が高い。道長はそれを懸念しているのだ。

そういう危険性があるので、道長は長女の彰子(見上愛)を、わずか12歳のときに一条天皇に入内させ、中宮に据えていたのだが、一条は亡き定子に執着し続けて、彰子の後宮に通ってこない。彰子に皇子を産ませ、行く行くはその子を即位させ、天皇の外孫として権力を安定させるのが道長のねらいだが、この時点で見通しは立っていなかった。

だからこそ、道長はまひろ(吉高由里子、紫式部のこと)に『源氏物語』を書かせ、それを彰子の後宮に置き、文学好きの一条が渡ってくる状況を作ろうとしたのである。

■紫式部に源氏物語を書かせたワケ

道長の焦りは、第33回の以下のセリフにも表れていた。

まひろが「ここでは落ち着いて物語を書くことができませぬ。里に戻って書きとうございます。どうかお許しくださいませ」と申し出ると、道長はまひろを制して「ならぬ」と大きな声を出し、こういった。「帝は続きができたらお前に会いたいと仰せだ。お前の才で帝を藤壺に。頼む。帰ることは許さぬ。お前は、わが最後の一手なのだ」。

むろん、ドラマなので脚色はある。一条天皇が紫式部に会いたがったという話は伝わっていない。それは、まひろという主人公を立てるための創作で、物語に関心をもった一条が彰子の後宮に渡る、という状況をつくりたかったと思われる。

だが、ドラマと史実のあいだに大差はない。彰子が一条の皇子を産みうる状況をつくるために『源氏物語』を書かせた――。多くの研究者が想定するその線は、ドラマでも外れていなかった。

だが、それだけでは足りない。道長は大きな一手に打って出た。第34回「目覚め」の予告では、道長ら一行が白装束でどこかに向かう場面が映され、道長の声で「わが生涯最初で最後の御嶽詣である」というセリフが流れた。実際、それが道長の大胆な策だった。

見立紫式部図(写真=メトロポリタン美術館/CC-Zero/Wikimedia Commons)

■75日間の政治的空白

「御嶽詣」とは、寛弘4年(1007)8月に道長が行った「金峯山詣」のことである。金峯山とは奈良県吉野町にある、標高1719メートルの山上ヶ岳を中心とする霊山で、修験道の聖地だった。こう軽く書いても、詣でるのは大変そうに感じられるが、それどころではなかった。これはあまりにも大変な行事だった。

まず「金峯山詣」をするには、精進潔斎する必要があった。すなわち酒食を断ち、魚食も断ち、1日1食の精進を続け、夜は五体投地の祈りを行うのだが、それを何日も続けなければならなかった。道長の日記『御堂関白記』によれば、閏5月にはじめているので、75日の精進を行ったと思われる。それも、彰子の中宮職の次官であった源高政の家に籠り、家族を遠ざけて精進に専念したのだ。

『栄花物語』によれば、こうして籠って精進を続けるあいだも、政に関して手を抜くことはなかったという。だが、75日も籠っていて、それはどうだろう。道長を賛美する傾向が強い『栄花物語』ならではの記述ではないだろうか。

続いて、笠置寺や祇園社、賀茂社などいくつかの寺社を巡って予行練習を行い、ようやく8月2日、都を発って金峯山に向かった。

■もはやこれは国家行事である

出発後もかなり気合が入っており、道長の土御門邸からは近道があるのに、わざわざ遠回りをして朱雀門の前でお祓いし、石清水八幡宮や大安寺など、いくつかの寺社を経て8月11日、金峯山に到着した。だが、そこにいたるまでも、かなりの苦労が重ねられた。

奈良の大安寺に宿泊した際は、僧が手厚い準備をしてくれていたが、『御堂関白記』によれば、宿所が華美で金峯山詣に相応しくないからと、南中門の脇で寝たという。道長の気合のほどがわかる。また、数日来雨が降り続いていたので、吉野の麓に到着してからは、かなりの苦労があったという。

道長は奉納するために持参した金堂製の経筒に、「寛弘四年八月十一日」と彫りこんでしまっていたので、なんとしても11日に着かなければならない。だが、足元は雨でぬかるんでいる。そこを道長も、馬や輿に乗らずに自分で歩かなければならなかった。途中には鐘掛岩という難所があって、鎖を伝わって登る必要があった。

しかも、道長だけではない。大勢の僧や人足を引き連れていた。また、道長は金峯山に絹や布、紙、米など大量の品々を献上したが、人足はそれらを担いで登らなければならなかった。なにしろ『御堂関白記』には、布を「百端」、米を「百石」などと当たり前のように書かれているが、運ぶのは容易ではなかっただろう。

それでも無事に予定の8月11日、頂上に到着しているから、いかに強行軍であったかがわかる。

金峯山寺(写真=663highland/GFDL/Wikimedia Commons)

■こっそり奉納した「性欲を開放する経典」

金峯山では先述した経筒に、法華経などみずから写した数々の経を納め、山頂にあって蔵王権現が湧出したと伝わる湧出岩の前に埋めた。この経筒は、それから700年近く経った元禄4年(1691)に発見され、いったん埋め戻されたが、近代にふたたび掘り出され、現在、国宝に指定されている。

経筒の周りには、写経の経緯について道長の文が記されているが、極楽往生への願いにしか触れられていない。だが、『御堂関白記』に記された、金峯山における道長の行動からも、この参詣の最大に目的が、彰子の皇子懐妊祈願であったことは明らかである。

道長は8月11日に頂上に着いたあと、まず湯屋に行って水を浴び、罪障を清める解除を行った。その後、真っ先に向かったのは「小守三所」だった。これがどういう場所であったか、確定しているわけではないが、現在では子供を授かりたい人が祈願に行く場所になっている。むろん、当時も「小守」とは子供を身ごもることを指し、それを祈願する場所だったと推定される。

また、道長はさり気なく「理趣分八巻」も奉納したというが、「理趣分」とは性欲を開放する経典なので、一条天皇と彰子とのあいだに皇子が生まれるように、という願いが込められている可能性が高そうだ。「金峯山詣」はまさに、道長が外戚として君臨できるかどうかを賭けた一世一代の行動だったのである。

■金峯山詣の御利益とは

道長は弥勒経三巻、阿弥陀経、般若心経など数々の経を、連れてきた僧侶たちに読経させ、金峯山に奉納した。その僧侶というのが、延暦寺や興福寺、東寺などから集まった錚々たる高僧ばかりだった。だから、倉本一宏氏は「これは道長の金峯山詣が国家行事でもあったという証しです」と書く(『平安貴族とは何か』NHK出版新書)。

皇后が、要は自分が送り込んだ娘が、皇子を出産してほしい――。そんな願いのために、これほどの「国家行事」を催してしまう道長は、はたして「光る君へ」で描かれているような、私欲のない公正な政治家だったといえるのか。

もっとも、彰子が皇子を産み、その皇子が即位したのち道長が外戚として君臨すれば、政権は安定する。それを目指すことが公共の利益にかなったという面は、宮廷社会の常識に照らしたとき、一概には否定しきれないのだが。

さて、道長の大願は成就し、金峯山詣が行われた寛弘4年(1007)の年末、彰子は懐妊し、翌寛弘5年(1008)9月11日、念願の皇子(敦成親王)が誕生した。

最高権力者である道長が、彰子の懐妊を願ってこれほど大騒ぎをしている以上、一条天皇としては、なにもしないわけにはいかなかっただろう。道長の行動が一条にあたえたプレッシャーは、測り知れないほど大きかったに違いない。こうして一条天皇を動かしたのもまた、金峯山詣での「御利益」といえるかもしれない。

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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。
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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)