ジャイルス・ピーターソン、ブルーイ(インコグニート)がSTR4TAを結成し、アルバム『Aspects』を通じて、歴史のなかに埋もれていたブリット・ファンクの存在を世に知らしめたのが2020年のこと。二人はその後も、2022年の次作『Str4tasfear』でストリートソウルに光を当て、イギリス音楽史の再編を迫るように作品を発表してきた。

そして2024年、ジャイルスと彼が主宰するブラウンズウッド・レコーディングスの次の一手はアシッド・ジャズの再解釈だ。象徴的グループのひとつ、ガリアーノ(Galliano)が復活し、28年ぶりのアルバム『Halfway Somewhere』をリリースした。この流れは、STR4TAで80年代のUKを再検証したあと、そこから連なる1990年代のアシッド・ジャズにも取り組み始めたと言えるだろう。

アシッド・ジャズはよく知られているにもかかわらず、その実態をうまく言語化するのは難しい。インコグニート、コーデュロイ、ジャミロクワイ、ブラン・ニュー・ヘヴィーズ、ヤング・ディサイプルズなど、代表格として挙がるグループに共通点はあるのだが、それらを同じジャンルとして括ろうとすると明らかに収まりが悪かったりする。ガリアーノは特によくわからないグループだった。様々な音楽ジャンルが入り混じっているだけでなく、青臭い不完全さもあれば、知性を感じさせるメッセージも含んでいる。その掴みどころのなさ、得体のしれない勢いとエネルギーは、どのグループよりもアシッド・ジャズと呼ばれたムーブメントを体現しているようにも思えた。

今回はガリアーノの中心人物ロブ・ギャラガーと、彼のパートナーで様々なプロジェクトで活躍してきたUK屈指のボーカリスト、ヴァレリー・エティエンヌが取材に参加してくれた。「ガリアーノとは何なのか?」を知ることは、そのまま「アシッド・ジャズとは何だったのか?」を知るためのヒントになるはずだ。

左がヴァレリー、右がロブ。最新MV「Pleasure, Joy & Happiness」(エディ・チャコンのカバー)

「ライブ演奏」することが出発点

―ガリアーノがどのように結成されたのか聞かせてください。

ロブ:ジャイルス・ピーターソンのDJセットに合わせて歌詞や詩、ラップをのせていったのが始まりだった。しかも、初めてのライブは東京でやったんだよ。アシッドハウスのイベントで、ナスティ・ロックス・インクというバンドと、ロンドン出身のDJであるデイヴ・ドーレルとその弟ローレンス、そしてデリック・Bというヒップホップ・アーティストが出演する予定だった。だが、直前になってデリック・Bが来日できないということになって、代わりに僕が行った。そこでジャイルスと一緒に初のアシッドハウスのライブをやったんだよ。それが彼のDJに合わせて僕が詩を披露するというものだった。

―結成当時のコンセプトはどんなものだったんですか?

ロブ:DJの考え方がベースになっていたと思う。つまり、音楽をキュレーションしてまとめるという考え方。僕たちには、ブリット・ファンクやブリットソウルのシーンが背景にあって、それを当時、爆発的な人気を博していたアシッドハウスと融合したんだ。DJ的観点からは、レゲエ、ファンク、ソウル、そして他のあまりプレイされていなかった音楽も色々と取り入れていった。ジャズのシーンもクールだったから、ブルーイやジャイルスのような人たちがバックグラウンドにいて、ソウルのシーンを前面に出していたというイメージだね。ガリアーノはその考え方をライブで体現したプロジェクトだと言える。

この投稿をInstagramで見る

Gilles Peterson(@gillespeterson)がシェアした投稿

ジャイルス・ピーターソンとロブ・ギャラガー。インスタ写真の9枚目は初ライブ(会場は渋谷クラブクアトロ)のフライヤー画像

―アシッド・ジャズのシーンに、ガリアーノみたいなライブをやっていたグループは他にもいたのでしょうか?

ヴァレリー:いなかったんじゃない?

ロブ:最初はいなかったね。アシッド・ジャズはスタート地点のようなものとして捉えることができると思う。70年代のファンクやジャズをルーツに、DJ が様々な音楽をかけていたのがアシッド・ジャズなんだけど、それをライブという空間に持ち込んだというのが僕たちの応用方法だったし、他の方法で応用したバンドもいた。20年後にはSOIL&"PIMP"SESSIONSが登場し、また違った方法でジャズを表現したようにね。そういう意味で、アシッド・ジャズは変化を繰り返し、グループによって様々な変化を遂げてきたんだ。そういうことを初めてやったのはガリアーノだと思うけれど、それはガリアーノ独自の方向性だった。そして今回、ガリアーノを再結成して、自分たちのサウンドを思い出したわけだけど、この先はまた違う方向に進むかもしれないね。

ヴァレリー:当時ガリアーノがやっていたのは、クラブ・ミュージックを「ライブという設定」、もしくは「ライブというジャンル」として表現することだった。クラブで踊るためのダンス・レコードを、オーディエンスがいるライブという設定に取り入れる――そういう試みだったと思う。


1990年撮影のガリアーノ。左からコンスタンティン・ウィアー(Vo)、クリスピン・ロビンソン(Perc)、マイケル・スナイス(バイブ・コントローラー)、ロブ・ギャラガー(Vo) Photo by Martyn Goodacre/Getty Images

1991年のライブ映像、ヴァレリーも参加

―DJのシーンでライブバンドが演奏するのはすぐに受け入れられたんですか?

ロブ:僕らは当時キッズで、自分たちが何をやっているのかもよく分かっていなかった。だからこそ面白かった。そういう意味では、パンクの精神と通じているというか、とにかくやってみるという姿勢があった。僕たちは、ジャズ奏者たちが属するシーンとはあまり繋がりがなかった。僕たちが重視していたのはスキルではなく、エネルギーだったから。あの当時、僕らのようなキッズは、レコードを聴いてファンクの演奏方法を学んだんだ。音楽学校に行かなかったんだよ。ここは現代と大きく異なる点だね。ローリング・ストーンズもそう、彼らは1950年代にブルーズのレコードをロンドンで見つけて……。

ヴァレリー:それを仲間内でシェアして聴いていたのよね。

ロブ:そう、みんなで一緒に聴いていたんだ。それと同じように、当時のキッズはファンクのレコードを聴いて、演奏の仕方を学んでいたんだ。彼らは、ノース・ロンドン・ヘヴィウェイツ(ノースロンドンの重鎮たち)と呼ばれていたんだよ(笑)。僕らは80年代のロンドン式のやり方で、70年代のファンクの演奏を学んでいたんだ。

ヴァレリー:みんなそうだったんじゃない? 私も、ロバータ・フラックやスティーヴィー・ワンダーといった素晴らしいバック・ボーカルを起用しているレコードを聴いて、歌の強弱やハーモニーを習ったり、耳をチューニングしたりしたから。その経験が自分の一部になって、考え方やスタイルが確立されていった。当時は多くの人がそんなふうに、レコードに合わせて歌い、クレジットを読んで誰がどの曲に参加しているのか学んだりしながら、自分の音楽スキルを上げていったと思う。

ロブ:確かにそうだね。最初はDJ的な感じで、僕とジャイルスと他に一人二人くらいで集まってクラブでやっていたんだけど、ヴァレリーのような人たちと出会い、ガリアーノはライブバンドとして演奏するのが定番になったんだ。

2023年のライブ映像、1992年リリースの人気曲「Prince of Peace」(ファラオ・サンダースのカバー)を披露

ポストパンク、ファンク、レゲエからの影響

―ガリアーノみたいに様々な要素が混ざり合っているバンドは、それ以前にはそんなに存在しなかったように思いますが、参照した音楽はありましたか?

ロブ:雰囲気的にはスペシャルズとスライ&ザ・ファミリー・ストーンが混ざった感じを目指していたんだと思う。

ヴァレリー:それはさすがに具体的すぎじゃない? 私たちは折衷的なテイストを包括的に網羅していたと思う。私はスペシャルズの大ファンで、当時持っていたレコードを繰り返し何度も聴いた。1979年にリリースされた1stアルバム。メロディも、ソングライティングも、ドラムのサウンドもすべて最高。でも、 ザ・ビートのアルバムも、ブロンディの『Parallel Lines』も、ボブ・マーリーの『Kaya』も大好きだった。スティーヴィー・ワンダーの『Journey Through The Secret Life of Plants』もそう。それにポップ・ラジオもたくさん聴いていたから、ABBAやビートルズなど定番のポップミュージックも大好き。だから参考にしてきた音楽は本当に様々で、色々なスタイルから影響を受けていると思う。それがガリアーノの特徴になった。色々なスタイルを知っていたからこそ、そのスタイルを自分たちの音楽に要素を織り交ぜることができたの。

ロブ:時代的にポストパンク、レゲエシーンが流行っていたというのもあるよね。ジャー・ウォブルやジョン・ライドンが(PILの)『Metal Box』を作った時代だよ。レゲエに対するあのアプローチは……イギリスにおけるレゲエは、当時のポップ・ミュージックだったんだよ。僕たちが若かった頃、70年代後半から80年代前半にかけてレゲエはものすごく流行っていたんだ。

ヴァレリー:イギリス人によって生み出された、ラヴァーズ・ロックというジャンルもあった。イギリスのパンク的な感性とレゲエを融合させ、2つの異なるジャンルが組み合わさったことで特徴的なスタイルになった。

ロブ:デニス・ボーヴェルがプロデュースを手がけた スリッツのアルバム(『Cut』)もあった。僕たちはそういう音楽を聴いて育ったんだ。DJカルチャーがダンスやファンクの方向に進化していったし、アシッドハウスをはじめとするハウスミュージックが爆発的にヒットしたというのもあった。アシッドハウス・シーンの人たちはみんな友人で、僕たちがいたシーンは一気に流行った。それをガリアーノはライブという文脈で表現することにしたんだ。背景や進化の流れを見ていくと本当に興味深い。今でも僕たちは若い世代のバンドにとても関心がある。

ヴァレリー:例えば、SAULTは私たちが80年代や90年代に表現した形を継いでいると思う。(ロブに向かって)そう思わない? 彼らは大勢が集まっているコレクティブで、様々なスタイルから影響を受けている。

ロブ:色々な影響を取り入れて融合させているアーティストたちを見るのは興味深い。スローソン・マローン(Slauson Malone)を知ってるかい? ギターとチェロとAbletonだけでパフォーマンスするんだが、かなり演奏の幅が広くて驚かされるよ。

ヴァレリー:それに、様々なスタイルの音楽を聴いて育つと、自分が実際に歌ったり、演奏したりしている時に「今のはトーキング・ヘッズっぽかったかも」とか「今のはクラッシュみたいだった」と気づく。

ロブ:トーキング・ヘッズにも大きな影響を受けているよ。1980年にローマで行われたコンサートの映像がYouTubeは何度も観たし、『ストップ・メイキング・センス』はポップ・ミュージックの最骨頂だ。

―僕はアシッド・ジャズというムーブメントを、当事者にとってはその時代のパンクみたいなものだって仮説を立てていたのですが、今の話を聞いて納得しました。

二人:(大きく頷く)

ロブ:そうなんだよ。興味深いことに、フリージャズの精神にも通じるものがあった。僕らが若い頃は、暗いクラブで男女が奇妙な音楽を演奏している姿に対して少し恐れを感じていたのかもしれない。今となっては、当時、そのシーンと密接に関わっておくべきだったなと思うんだ。あのシーンからは、とても面白い、自由な音楽が生まれたからね。自分も学べることがたくさんあったと思うし……とにかく時代背景として、僕らはロンドンのパンクやファンクを聴いて育ったキッズだったね。

ヴァレリー:パンクとファンク、あとはレゲエね。

ロブ:そしてアシッド・ジャズが誕生した。ガリアーノというアイデア自体もふわふわしていたというか、流動的だったんじゃないかな。

先日、オノ・ヨーコの展示に行ったんだが、彼女が1950年代に日本を離れた時のことを読んでいて、面白いなと思ったんだ。どの世代の人も、自分の世代が一番実験的なことをやっているという認識があるけれど、彼女の世代も僕らと同じような、実験的なことを色々とやっていたんだよ。その当時にもジョン・ケージなど、パンク的な精神があった。大切なのはその根底にあるアイデアだ。僕らは音楽という素材を使ってアートを作った。他の人は別の素材を用いるかもしれない。その素材はなんでもよくて、大切なのは表現したいアイデアだと思う。 

ガリアーノが発表したアルバム。上から『In Pursuit of the 13th Note』(1st:1991年)、『A Joyful Noise Unto The Creator』(2nd:92年)、『The Plot Thickens』(3rd:94年)、『:4』(4th:96年)

―ポストパンク系の人たちと実際に交流があったんですか?

ロブ:僕らは世代が少し下だったからね。でも、ラジオではジョン・ピールの番組を聴いていた。彼はよくポストパンクやレゲエ、ギャング・オブ・フォーなどの角ばった、エッジのあるサウンドをかけていた。当時からポストパンクとその精神は、世界中に広まっていたんじゃないかな。

ガリアーノの活動をしている当時は、色々なバンドに出会ったよ。僕たちはポール・ウェラーに影響を受けていたんだが、彼とも交流を深めることができた。あの頃は本当にクレイジーだった。ラスト・ポエッツのジャラルと一緒にロンドンでカンフーのレッスンを受けたこともあったし(笑)。ポール・ウェラーはとてもいい人で、彼のスタジオに招待してくれた(※ガリアーノの2nd『A Joyful Noise Unto The Creator』はスタイル・カウンシルのドラマー、ミック・タルボットがプロデュース)。

そういえばレコードの整理をしていて、当時のソノシートが出てきたから、ちょっと見せたいんだよ。ポストパンクはソノシートのリリースが多かったから(笑)。取ってくるよ。日本のアーティストなんだ。(しばらく席を外したあと、ソノシートを見せて)こないだ、これを見つけたんだよ。

―わ! 突然段ボール!

ロブ:手に入れるまで苦労したよ、最高だよね。当時の音楽はどれも重要だ。そして、その背景にある精神が大事なんだ。その精神がそのままDJカルチャーやアシッドハウスなどに受け継がれていった。つまり、自由な精神だ。



ヒップホップ、ポエトリーからの影響

―80〜90年代のパンク的なスピリットを持った新しい音楽といえば、アメリカのヒップホップも挙げられると思います。ヒップホップへのシンパシーはありましたか?

ロブ:もちろんだよ。僕らの新しいアルバムに「Circles Going Round The Sun」という曲がある。冒頭の歌詞は「初めてニューヨークに行ったとき、ジェームス・ブラウンが帰ってきていて、空港は垂れ幕だらけだった。翌朝、僕らはギルにコーラとチーズバーガーを買い、歩道で彼に質問した。彼の目は朝から夜を見透かし、クリス・パーカーが演奏する夜までを眺めていた」というものだ。説明すると、(1991年に)ガリアーノがニューヨークの空港に着いたとき、ちょうどジェームズ・ブラウンもそこにいたんだ。

ヴァレリー:彼は刑務所から釈放されて、バンドと同じタイミングで空港にいたのよ。

ロブ:とにかく大騒動だった。そして、そのあと、僕らはマクドナルドの前でギル・スコット・ヘロンに出会い、その夜はKRS・ワンのライブに行ったんだ。ものすごく衝撃的だったよ。そのときは音楽のカンファレンスがニューヨークであったから、N.W.Aなど西海岸のアーティストもたくさん来ていた。君の言うとおり、彼らにもパンクに通じる精神があった。そして、その影響でイギリスのヒップホップも繁栄した。アメリカほど大きくはならなかったけれど、イギリスにもシーンが確立された。

それから当時、僕はア・トライブ・コールド・クエスト『Low End Theory』のカセットを持っていた。ジャイルスがニューヨークに行っていたときに、誰かがそのカセットを渡して、ジャイルスがそれを僕にくれたんだ。まだ完成したばかりのデモテープだったんだけど、ガリアーノの2nd『A Joyful Noise Unto The Creator(1992年リリース)の制作に入る前、そのカセットをよく聴いていたよ。(ヴァレリーに向かって)君はレーベルにいたとき、ファイフ(・ドーグ)に会ったんじゃなかったっけ? これはガリアーノの活動を始める前の話だけど……。

ヴァレリー:ああ、そうだった。Jive Recordsに所属していたときね。何年も前の話。ロンドン北西部ウィルズデンのスタジオに大勢の人たちがいて、その内の一人に猛アタックされた。何年も経った後、その人はファイフ・ドーグだと判明したわ! その時の私ったら、「私はレコーディングで忙しいから、かまわないで!」なんて言っていたと思う(笑)。まさかトライブのファイフだったなんて……もしかしたらニューヨークでの人生が待っていたかもしれないのに(笑)。もしかしたら、ロブとも一緒になっていなかったかもね!

ロブ:人生どうなるかわからないものですなぁ(笑)。

「Circles Going Round The Sun」のMV、歌詞に出てくる人物(アンドリュー・ウェザーオール、デヴィッド・マンキューソ、ジェームス・マーフィー、アーサー・ラッセルなどにも言及)のコラージュも印象的

―先ほど名前の挙がったラスト・ポエッツ、ワッツ・プロフェッツ、ギル・スコット・ヘロンのようなジャズやファンクと詩が融合した音楽もまた、ガリアーノの大きなインスピレーションだったと思います。

ロブ:今、振り返ってみるとクレイジーなことだが、そういう音楽が当時は海賊ラジオやクラブでかかっていたんだよ。クリス・フィリップスというDJがいて、彼はワッツ・プロフェッツをよくかけていた。DJセットの途中でいきなり”Hear us now! Hear us now”という「Listen」からのフレーズが聴こえてきたりしてクレイジーだった。レオン・トーマスの「Shape Your Mind to Die」とかね。しかも、エクスタシーをキメてる人たちでいっぱいのクラブでかけているんだ!

それから、1987年あたりに(ラスト・ポエッツの)ジャラルがロンドンに来たんだ。ジャイルスはRadio Londonで「Madame Jazz」という番組を火曜日の夜にやっていたんだけど、そこでラスト・ポエッツの「Blessed Are Those Who Struggle」などをかけていたんだ。ジャラルはジャイルスに会いたいと思い、ラジオ局に電話をかけて場所を聞こうと思ったが、ラジオ局は場所を教えてくれなかったらしい。そこでジャラルはラジオ局に爆弾を仕掛けたと言ったんだ。クレイジーな話だろ(笑)。

―無茶苦茶ですね(笑)。

ロブ:とにかくその後、僕らはジャラルと知り合って一緒に遊んでいたんだ。あのジャラルとそんなことをしていたなんて、今、考えると不思議な話だよ。一時は、彼がガリアーノの1stアルバムをプロデュースするって話になっていたんだ。

彼からはたくさんのことを学ばせてもらった。彼はリリックや詩に対する特有の見方があって、それを彼は「スポアグラフィックス(spoagraphics)」と呼んでいた。つまり、「絵のように語る」というものだ。また、彼はライトニング・ロッド名義でクール・アンド・ザ・ギャングとも曲を作っていたんだ。だから演奏はファンクで、それに彼の詩が乗っていた。

彼はリリックやフローも独特で、最初の2行が韻を踏んでいて、3行目は6行目と韻を踏んでいるというスタイルだった。例えば「It was a full moon / in the middle of June / In the summer of '59 / I was young and cool / and shot a bad game of pool / And hustled all the chumps I could find」という具合にね。全ての行で韻を踏み、その先からは独自のリズムで韻を踏んでいくというヒップホップのフローとは違うものだったよ。ラスト・ポエッツには独自のスタイルがあった。

また、ガリアーノが詩を取り入れた当初はメンバーにブラザー・スプライがいたんだ。彼がコンゴを叩き、僕とコンスタンティン・ウィアーが歌詞を書いていた。まさにラスト・ポエッツみたいなことをやっていたんだ。

不変の社会的メッセージ

―アーチー・シェップ、ファラオ・サンダース、ロイ・エアーズなど、あなたがサンプリングしたアーティストの中には、その音楽に社会的なメッセージが含まれていましたよね。ガリアーノにとってもメッセージ性は重要だったのでは?

ロブ: 80年代のポストパンクも政治的な背景から誕生した音楽だったし、音楽には社会的なメッセージを含むものが多い。80年代のイギリスでは、ポール・ウェラーやビリー・ブラッグなどが集まり、炭鉱労働者のストライキを支持する「レッド・ウェッジ」という動きがあって。

ヴァレリー:「ロック・アゲインスト・レイシズム」も大きなムーヴメントだった。

ロブ:レゲエにも社会的なメッセージが込められていたしね。『バビロン』のような映画もあったし。

ヴァレリー:『ハーダー・ゼイ・カム』も。

ロブ:社会に向けて、何らかのメッセージを発信していたものばかりだ。僕らはそんな時代背景で育ったんだよ。そして、アメリカのアーティストたちと繋がるにつれて、彼らのメッセージもイギリスのものと共通しているものだとわかってきた。

ヴァレリー:カーティス・メイフィールド、ダグ・カーン、ジーン・カーンに代表されるような70年代前半のレコードは、人種差別に対する暴動や、貧困生活という実話がベースになっていたから非常に政治的だった。私はそういう作品に大きな影響を受けた。それからフリージャズのムーブメントにもね。

ロブ:その通りだね。僕らが興味関心を持っている音楽が発信してきたメッセージには重なるものが多かった。また、戦略として政治的思想というものは、ある地点からまた各自が違った方向へと広がっていく。ジャラルには彼特有の視点があり、彼なりの抵抗の仕方があった。それは例えば、ロイ・エアーズの視点や、抵抗の仕方とは全く違うものだっただろう。同じように、カーティス・メイフィールドもまた少し違ったアプローチがあった。僕らはあらゆるものに影響を受けてきたよ。今でもそうだ。

では、現在の政治は一体どうなっているのかという話になるわけだが……ざっくりした言い方になるけど、今は全てが政治的だ。イギリスではつい先日、新政権が発足したのでハッピーだったけど、そのあとすぐにアメリカで起きた事件(トランプ銃撃)を見て「なんてことだ」と思う。政治はそんなふうに続いて行くものだ。



―僕の手元にある『Straight No Chaser』(クラブジャズのバイブルと呼ばれたイギリスの音楽誌)に掲載されたインタビューで、あなたとブラザー・スプライはファシストの増加、人種差別、移民、環境問題、大量消費について語っています。2024年の発言と言われたら信じそうな内容ですが、32年後の今日、世界が何も変わっていないどころか、むしろ悪化しているような状況であることも、再びガリアーノが動く理由かなと思ったのですが、いかがですか?

ロブ:当時の歌詞を振り返るのは興味深かったね。ただ、怒りを感じるところもある。例えば、環境問題については、当時から何かしらの対策が必要なことは分かっていた。だが、現在も訴訟を抱えている石油会社エキソンモービルは、あえて、その情報や対策案を隠蔽したという。30年前の話だよ。政府や石油会社が、新技術を否定するのではなく活用していれば、僕らはこのような危機に現在直面していなかったかもしれない。今ではかなり早急にエネルギー対策を進めていかなければならない状況になっている。ただ、それでも政府や企業によって圧力がかけられているのは変わらない。

当時のガリアーノの歌詞が、今でも当てはまるというのは失望させられる。あのころ、しっかりとその課題に対して取り組み、行動するべきだった。まあ、少しずつ改善はされているようだが……化石燃料を段階的に廃止して、再生可能エネルギーに移行していくという方針は非常に重大だが、それを30年前に行動に移していれば、どれだけのことができたのだろうかと思う。

その話でいうと、僕らはデジタル期(ネット世代)よりも前世代の人間だということもできるよね。

―というと?

ロブ:先日、マイケル・ライリー博士と話してたんだ。以前、スティール・パルスというレゲエバンドに参加していた人物で、今は博士号を持っている。彼が言っていたのは、最近ではAIがウェブスクレイピング(ウェブサイトから情報を抽出すること)できるようになったということだ。また、デジタルで積極的に録音・記録をしてない組織や団体、さらに、デジタル素材をウェブ上にアップロードしていない組織は、現代の世界において、ほぼ存在していないことになるとも言っていた。黒人女性の権利に関する話題の流れでそういう話になったのだが、とても興味深いことだと思った。デジタルの世界で存在するには、何かしらの情報をウェブ上にアップロードしなければならないーーこれはガリアーノにも関係する話だ。

このインタビューの冒頭で、君は「ガリアーノについての情報がネット上にあまりないから、基本的なことから改めてお話を伺いたい」と言っていた。ある意味、ガリアーノもデジダル世代以前に活動していたから、デジタル界においては存在していないのと同じなんだよ(笑)。だから今回、カムバックという形にはなるのだが、全くゼロの状態から始める感覚に近いんだ。

ヴァレリー:そうね。解散後に生まれた若い人にとって、ガリアーノは全く新しいバンドになるんだから。私たちがここ1年で公開したコンテンツを見聞きして「新しいバンドだ!」と思ってもおかしくない。それだけのタイムラグがある。

ロブ:全ては時間との戯れだ。そして、音楽というものは、時間と戯れることのできる様式芸術だと思う。人間の記憶と音楽が合わさると、時間というものを感じ取ることができるはずだ。他の芸術様式では、あまりその感覚はないんじゃないかな。先ほど話していた、音楽が政治的であるというのは、そのことも関連しているのかもしれないね。

年を取るにつれて、当時のことを振り返ったりして、とても興味深いなと感じるんだ。政治の話を続けると、やはりSNSの影響が大きい。もし、SNSやエコーチェンバー現象が存在していなかったら、トランプのような人間があれほどの勢力をつけることができただろうか? SNSとエコーチェンバー現象は30年前にはなかったもので、とても興味深い分野だ。

ヴァレリー:インターネットは全てを学ぶこともできる一方で、全く何も学べないところもある。人々は自分の情報をネット上で開示しているけれど、それが本当かどうかも分からないし、それが全てではないかもしれない。そうでしょ?

ロブ:僕たちは情報に溺れているという状況だ。情報を持っていることよりも、むしろその情報をどう使うかが大事になってくる。この話題だけでインタビュー記事が丸々作れてしまうから、それはまた次の機会にしよう(笑)。

―最後の質問です。2024年に再び動き出したガリアーノは、ガリアーノらしさをどういうところで表現しているんでしょうか?

ロブ:ガリアーノの魅力というのはグルーヴであり、ひとつの空間に集まって一緒に演奏することだ。僕たちはガリアーノというグループの声を再び宿らせようとしている。

ヴァレリー:そう、ライブ演奏すること!

ロブ:グルーヴは身体を動かしてくれる。踊らせてくれる。他の人間と一緒に踊るときに味わう感覚や、他の人とつながっているという感覚……それはグルーヴから得られるものだ。デジタルは(ヘッドフォンで音楽を聴くように)自分の頭の中に入り込んでいくイメージで、人間どうしの隔離を促しているのかもしれない。それに対し、グルーヴやダンス、身体、そして身体に宿る精神は、一体感を促すものなのかもしれない。その一体感が僕ら人間を救ってくれるものなのかもしれない。

ヴァレリー:私としては、「再始動」というよりよりも「新生(rebirth)」みたいに考えている。30年も経っているんだから、もはや全く別物。「再び誕生したグループ」として考えるのが素敵だなと思ってる。


ガリアーノ
『Halfway Somewhere』
発売中
再生・購入:https://galliano.lnk.to/halfwaysomewhere