非情なまでの兵糧攻め!餓死者が続出、恐ろしいほど徹底した豊臣(羽柴)秀吉による「鳥取城の戦い」の戦略

写真拡大 (全4枚)

戦国時代の三英傑のひとりであり、日本の歴史上でも知らない人はいないであろう「豊臣秀吉(とよとみひでよし)」。足軽という身分から、天下統一を果たすまでの彼の激動の人生はドラマチックですよね。

豊臣秀吉(Wikipediaより)

今回の記事では、そんな豊臣秀吉が行ったもののひとつ「鳥取城の戦い」について詳しくご紹介していきたいと思います。

関連記事:

地獄の兵糧攻めに餓死者続出。羽柴秀吉が決行した「鳥取城渇え殺し」【前編】

地獄の兵糧攻めに餓死者続出。羽柴秀吉が決行した「鳥取城渇え殺し」【後編】

鳥取城の戦いとは?

鳥取城は、織田信長が「名城」と評したお城です。戦国時代の山城を起源として、江戸時代には鳥取藩の居城として整備されました。日本最長の城郭復元木橋「擬宝珠橋」や日本唯一の球面石垣「巻石垣」などが有名です。

織田信長の命令により、毛利氏を討つことを目的として中国攻めが行われていました。秀吉はこの中国攻めにおいて数々の城を落としていきますが、鳥取城の戦いもそのうちのひとつ。

鳥取城の主「山名豊国」(Wikipediaより)

鳥取城攻めは2回行われています。1回目は1580年のこと。4〜6月にかけて、鳥取城主であった山名豊国を降伏させます。山名豊国は彼の家臣によって追放され、新たな城主として毛利氏の重臣・吉川経家を迎え入れます。

2回目は1581年のことで、20,000の軍勢で鳥取城を攻めました。

鳥取城の戦いの恐ろしさ1:攻める前に入念な包囲網を形成

豊臣秀吉軍は、黒田官兵衛が兵糧攻めを提案し、それを採用することにします。攻める前に、豊臣軍は鳥取城を70箇所以上の陣を敷いて包囲しました。

これにより、鳥取城は完全に孤立してしまい、支援ルートは断絶されてしまいます。

鳥取城の戦いの恐ろしさ2:事前に米を買い占める

包囲に加え、豊臣軍は鳥取城下の米の買い占めも事前に行いました。これは、食料をなくし、籠城戦をより早く終わらせるためでした。

通常価格よりも高い値段で米を買ったと言われていますが、略奪や苅田も行われたという説もあります。これにより、一気に米不足に。

鳥取城の戦いの恐ろしさ3:ついに餓死者も

陸での支援ルートがなかったため海からの支援を求めましたが、豊臣軍によって海路も封鎖されていました。鳥取城内では、家畜や藁、草なども食べつくしてしまい、ついに餓死者が出るまでになってしまいます。

武士だけでなく民衆も豊臣軍によって鳥取城内に逃げ込まされていたため、食糧の消費が早かったのです。

鳥取城の戦いの恐ろしさ4:落城のあとも……

悲惨な状況を見て、城主の吉川経家は降伏。鳥取城の戦いは終わりを迎えますが、その後も悲劇は続きました。助け出された人々に対して、秀吉は粥を振る舞います。

しかし、食べた後に突然死する人が多くいたと言われています。長年、その理由は謎のままでしたが、最近の研究で、飢餓状態の人が急に栄養を摂取したことにより、重い合併症を引き起こす「リフィーディング症候群」というものを発祥したのではないかということがわかっています。

いかがでしたか?この記事が、みなさんが少しでも日本文化や歴史の面白さに興味を持つきっかけになれば嬉しいです。