2024年4月6日からスタートのNHKアニメ『烏は主を選ばない』の原作となっている、阿部智里さんの大人気和風ファンタジー「八咫烏シリーズ」。累計200万部突破&第9回吉川英治文庫賞を受賞した本シリーズの第1巻『烏(からす)に単(ひとえ)は似合わない』の序章と第1章の全文を無料公開します。

八咫烏シリーズ 巻一
『烏(からす)に単(ひとえ)は似合わない』
阿部智里


『烏に単は似合わない』(阿部 智里)

序章

 この人がいい、と思ったのは、私がまだ五つか六つの時だった。

 春たけなわの、風が少しだけ強い、気持ちの良い朝のことだった。

 桜が咲いたぞと言って、悪友が私のもとを訪ねて来た。すみの奴がこうして来るのは、大抵が私を外に連れ出そうとしている時だ。案の定その日も、大人達から行ってはいけないと言われていた領境の崖へと連れて行かれた。

 崖をはさんだ隣の領には、白くかすんで見えるくらいに桜が咲いているという。笑いながら追いかけっこをして、私達は森の中を走っていた。

 だがそこで、すみは足を滑らせたのだった。

 頭上の木々が途切れ、視界が開けたことに気を取られたのだろう。派手な音を立てて転げ落ちて行くすみに、瞬間、肝を冷やした。

 着物を脱ぐのももどかしく鳥形(ちょうけい)へと姿を転じると、急いで崖下へと舞い降りた。しかし、再び人間の姿に戻りすみのもとに駆け寄ってみれば、元気に悪態をついていたので、私は思わず噴き出してしまった。

 浅い谷間を、笑い声がこだまする。憎々しげに頭を押さえていたすみは、ふと私の肩越しに上を見て、口を閉ざした。すみの視線を追った私は、そこで世にも美しいものを見た。

 この崖を越えてしまえば、もう隣の領である。その隣の領の崖上には、すみが言った通り、見事な桜が咲いている。

 満開に咲き誇るその桜の下に、ひっそりと立つ人影があった。

 金色に光る、しゃらりと流れる髪飾り。

 やわらかそうな髪の毛は、一族の者には珍しい、薄い茶色の巻き毛であった。きょとんと私とすみを見下ろす瞳の色も、透き通るように淡い。長い袂は薄紅色。桜模様を散らしたそれは、その幼い娘に良く似合っていた。

 風が吹いた。

 淡い水色の空に、桜の花が舞い散った。

第一章 春

 もう、梅の花が咲いているらしい。

 清しくもふわりと甘い薫りが、どこからかそよそよと匂っている。足を止めて庭を眺めれば、濃い色の松葉の合間から、真っ白い花弁が見て取れた。

 咲き初めである。

 ほう、と感心するのとほとんど時を同じくして、琴の音がやわらかに響き始めた。どうやら、春の風情を奏でたもののようだ。足音を忍ばせて透廊を渡り切れば、几帳の向こうに座っている、弾き手の後ろ姿が目に入った。

「良い曲だね」

 曲の余韻が消えるのを見計らって声をかければ、驚いたように振り返った。

「まあ、お父さま」

 ちっとも気付きませんでしたと恥じらう娘に笑み崩れ、父はいそいそと歩み寄った。

「他の者はどうしたんだい。うこぎと言ったか。彼女は?」

「みな、蓬を摘みに出ております。もうすぐ戻る頃かと」

「そうか」

 それなら仕方が無いと、手ずから円座を部屋のすみから引きずって、娘の前にどっかりと腰を下ろす。

「さっき弾いていたのは、お前が作ったのかな?」

「聴いていらっしゃいましたの? お恥ずかしいですわ」

 ほんの手遊びですのに、と笑う様子に屈託はない。だが、この娘にそう言われては、宮廷の楽士とて顔色なしだろう。

 彼女は、明るい色の髪と瞳を持つ、東家の二の姫である。音楽の才に長け、また愛くるしい面ざしを持った才媛であった。

 まじまじと娘を眺めた父親はため息をつき、表面だけは困った顔をして頭を振った。

「もうねえ、お前はとてもこの父の子とは思えないよねえ。才能にあふれていて、しかも、とびっきりのべっぴんさんだ。お母さまに似て良かったよねえ」

 あら、といたずらっぽく笑い、二の姫は袖で口を覆った。

「そんな哀しいこと仰らないで下さいな。私はお父さま似だと、もっぱらの噂ですのに」

「おやまあ、どこがなのだろうね」

「うこぎが言うには、『おっとりし過ぎていて、はらはらして見ていられない』のだそうで」

 違いない、とひとしきり笑っているうちに、階の方が騒がしくなった。

 女房達が、帰って来たらしかった。

 ただでさえ、中央で高官を務める東家当主が帰って来るのは珍しい。とりわけ、どんな行事もないこの時節の当主の帰還は、まったくの不意打ちであった。泡をくったようにもてなしの準備を始めた女房を押しとどめて、父はうこぎを呼び寄せた。

 うこぎは、今年で四十路となる、経験豊かな女房である。彼女の仕える姫は、わけあって別邸で暮らしている。そこに、なんの前触れもなく当主がやって来たのである。何かあっての来訪なのだろうと最初こそ身構えていたのだが、そのうち頭が痛くなってきた。それというのも、本人達ときたらやれ庭の梅が綺麗だの、琴が上手になっただのと世間話に花を咲かせて、一向に本題に入ろうとしないのである。

「では、この前本邸で行われた新年の宴には、出て来られなかったのだね?」

「申し訳ありませんでした。私も、本当に楽しみにしていたのですが……。でも、本格的に体調を崩したわけではないのです。ちょっとお腹が痛くなってしまっただけですから、ご心配には及びませんわ」

「ならいいのだけれど。お前の場合、特に気をつけないと。ねえ、うこぎ」

 うこぎは、親子仲がいいのは喜ばしいけど、いいかげんなんとかならないものかしらと思っていたところだったので、急に呼ばれてびっくりした。

「はい、はい、なんでございましょう」

「お前は、この屋敷の家事を取り仕切っているのだったね。本邸の者が来た時にでも、双葉について何か聞かなかったかい」

「双葉さまでございますか」

 双葉とは、東家本邸の方に住まう、東家一の姫――つまり、うこぎの主である二の姫の、姉にあたる人である。

「そういえば、お体を壊されているとか」

 そうなのだよ、と東家当主は心配そうに眉根を寄せた。

「先にも言った新年の宴でねえ、どうやら疱瘡にかかってしまったみたいなんだ」

 ええっ、と目を見開き、うこぎと二の姫は顔を見合わせた。

「でも、双葉さまはもうすぐ登殿予定ではないのですか?」

 登殿とは、入内の前段階のことを指す。形式上は宮仕えとしてであるが、東家ほどの名家とあれば、仕える相手などほとんど無きに等しい。宮仕えとは名ばかりで、日嗣(ひつぎ)の御子(みこ)の后選びのために設けられた制度なのである。候補の姫君達が集うために造られた、専用の宮だってすでに用意されている。その宮の名は『桜花宮(おうかぐう)』といい、ここへ移り住むことを、登殿というのだ。そこで日嗣の御子に見初められて、初めて入内へと漕ぎ着けるのである。

 自分の娘が入内すれば政での立場だって向上するだろうに、東家の当主は頓着無く肩を竦めた。

「幸い、命に別状はないんだけどねえ、あばた(・・・)が出来てしまったと言って、登殿は無理だと言うのだよ」

「は……」

「そこでだ。二の姫よ、お前、代わりに行ってもらえないものかね」

 あまりに軽い物言いに一瞬詰まってから、うこぎはこわごわと聞き返した。

「代わりって、何のです?」

「だから、双葉のさ」

「双葉さまの、何を」

「だから、登殿の」

「登殿?」

 まあぁ、と、二の姫は目を瞠った。

「それは、私が宮廷に行けるということですか?」

「そうだよ。綺麗な着物だって、いっぱいあつらえてあげるからね」

 聞いたうこぎ、と嬉しそうに振り返った二の姫は、唖然とする侍女に声を失った。

「あら。どうしたの、うこぎ?」

「……これは姫さま、お着物どころの話ではございませんよ」

「はい?」

「だって、登殿でございますよ、登殿!」

「だから、宗家本邸に行けるということでしょう?」

 お出かけなんて何年ぶりかしらとはしゃぐ姫に、うこぎは興奮して声を荒げた。

「そうではなく! あなたさまが、宗家の若宮殿下の后候補となられたと、そういうことなんです!」

 宗家とは、金烏(きんう)――つまりは族長の一家のことである。したがって、宗家の若君とは日嗣の御子、皇太子のことを指し示す。

 東家は、宗家に連なる名門四家のひとつだ。始祖である金烏がこの『山内』の地を四つに分け、自分の子ども達に分け与えたことがその名前の由来である。それぞれ、東家の東領、西家の西領、といった具合に、東西南北の四家四領。

 そういった自国の由来やらなんやらの教養は、登殿に際しての必須である。しかし、悲しいかな、入内など思いも寄らなかったこの別邸の妹姫は、音楽以外に能がない。これからが大変だと目を回したうこぎを前に、姫はのんびりと首を傾げた。

「でもねえ、双葉姉さまならともかく、私が登殿したところで、文字通り宗家のかたがたにお仕えするくらいしか出来ないのではないかしら」

 うんうん、と父は微笑んだ。

「お前はねえ、にこにこして座っていればいいよ。変に若宮に気に入られようとか考えなくていいからね。どうせ他家が黙っちゃいないのだから、余計なことなどせず、さっさと帰っておいで」

 お館さま、とうこぎは悲鳴を上げた。

「なんてことを仰るのです」

「だってねえ」

 その様子は、嫁入り前の娘を持ったそこらの父親そのものである。なんとも情けない顔になった父を笑って、二の姫はやんわりとうこぎを諫めた。

「ね、うこぎ。お父さまにこんなに大切にして頂けるなんて、私はなんて幸せなのかしら」

「それはそうですけど」

「大丈夫ですわ、お父さま。すぐ帰って参ります。でも中央なんて、行ったことがないから楽しみで」

 うん、と父は頷いた。

「いい勉強になると思うよ。お前と親しい藤波さまも、同じ年頃の姫もたくさんいるからね。お友達になるといい」

「はい」

 これには、秘かにうこぎが眉をひそめた。うこぎは、かつて登殿に付き従ったことがある。内情には詳しかったが、ここで口を開くのは得策ではないと思った。

「どんな所なのかしら」

 うっとりと嬉しそうな姫に隠れて、うこぎは小さくため息をついたのだった。

 それからというもの、二の姫は登殿の準備に追われて、大忙しだった。幸い、姉の所で使う予定だった物品などはそのまま使えるが、二の姫なじみの侍女や本人の教育はそうはいかない。突貫でおおまかなことは叩き込んだものの、まだまだ不安の残るまま、登殿の日を迎えてしまった。

 中央入りする仕度のため、東家本邸にやって来た一行は、すぐに準備に取り掛かった。

「行儀作法だけは身に付いておられるのが、せめてもの救いでございますね」

 姫の正装を着付けながら、しかし満足そうにうこぎはうそぶいた。

「ここだから言えますが、実は私、姫さまが登殿出来ればなぁと、ずうっと思っておりましたので。万が一にと、宮廷仕込みの作法だけは、きっちりお教えしてお育て申し上げたつもりでございます」

 そうでなければこうはうまくいくまいと、心なし自慢げですらあった。

 丁寧に結い上げた髪に宝冠と金釵を差し込み、桃色の領巾を両腕にからめて出来上がりである。姫の頭のてっぺんからつま先までを眺めまわし、うこぎは感嘆の息を吐いた。

「我が姫さまのことながら、お美しゅうございますわ。お館さまはあんなことを仰っていましたが、日嗣の御子がお選びになること、絶対に間違いございません」

 際限なく褒めちぎるうこぎに照れた二の姫は、慌てて話を他にふった。

「中央まではどれくらいかかるの?」

「飛車で、たった半日でございますよ。遠出に慣れないお体にはきつく感じなさるやもしれませんが、本当にすぐですから」

「私なら平気よ」

 うこぎに手を引かれ、本邸の廊下を渡った二の姫は、車宿りから引き出されてきた飛車に息を吞んだ。見事な細工物で飾り立てられた車には、東の家のものであることを表す紋が、きらびやかに光っている。

 そして轅の先に繋がれた生き物は、二の姫が今まで見たことのないものであった。

 一見それは、一羽の烏に見えた。その羽と嘴は黒々と光り、丸い目がきょときょとと動いている。しかし、その大きさはゆうに大人の一人や二人を隠してしまう程であり、本来二本であるべき足は、何故か三本も生えていたのである。

「うこぎ、あれは何?」

 鋭い嘴にやや腰が引けた姫に、ああ、とうこぎは頷いた。

「あれは馬(・)でございますよ」

「うま? あれがそうなの?」

「おや、姫さまは、馬を見るのは初めてでございますか?」

 大烏の轡を取っていた壮年の男が、にこにこと姫に笑いかけた。

「私、飛車に乗るのは初めてだもの。絵巻では見たことがあったけれど、あれは四つ足の獣で、このような鳥ではなかったわ」

「ああ、それは神馬でございますね。もう、何百年も前に絶えてしまいましたから、今ではこちらが、馬と呼ばれておるのです」

「噛んだりはしないの?」

「気性が荒いものもおりますが、こいつは大人しいものでございますよ。姫さまがお使いになると聞いて、とっておきの駒をご用意しました」

 うこぎは苦笑して、男をやれやれと指し示した。

「この者は、長く厩を管理している者でございますによって。姫さまが馬に興味を持たれて、嬉しいのでございましょう」

 その通りでございますと、男は心底嬉しそうに頷いた。

「登殿なされる姫さまを中央に送り届けるなど、一生に一回、あるかないかの名誉でございますれば。使用人一同、感涙を抑えられませぬ」

 それに答えようと口を開きかけた時、姫さま、と、やわらかな声音で、うこぎが二の姫を呼んだ。手招きされて中庭に向かえば、そこには、使用人達がずらりと並んでいた。

「姫さま、此度のご登殿、真におめでとうございます」

 声を揃えて頭を下げたのは、今日まで世話になった下男や下女達だった。見ればその面持ちは、寂しがるような、口惜しがるような顔から、信じられない幸運に上気する顔まで、さまざまである。

「あなた達……」

 言葉が出なくなった。

 父があのような言い方をしたものだから、あまり、登殿がめでたいことであるとは思っていなかった。皆がこのように喜んでくれるのが嬉しくもあり、なんとなく後ろめたいような気もした。

「あの、皆、ありがとう」

 でも、きっとすぐに戻って来ると思うから、と言えば、そのようなことを仰らないで下さいと、下女達が口々に言い募った。困った顔をした二の姫を見て、それまで口を挟まなかった下男が声を上げた。

「姫さま。俺達は、いつだってあなたさまのお帰りを歓迎いたします」

「嘉助……」

 嘉助は下男の中で、特に自分に気を遣ってくれていた若者であった。どうぞお体に気をつけて、と、どこか泣きそうになっている嘉助に、二の姫はふわりと微笑んだのだった。

「ええ、そう言ってくれると嬉しいわ」

 行ってきます、と手を振れば、彼らは一斉に立ち上がり、わっと歓声を上げた。

「行ってらっしゃいませ、姫さま!」

「ご登殿、おめでとうございます」

 さあさあもう行きますよと急き立てられて、興奮冷めやらぬまま、二の姫は車に乗り込んだ。これでどうやって飛ぶのかと外を覗くと、後から二羽ほど、また新たな烏が加えられた。この二羽が後ろから車を支え、最初の一羽がそれを先導するようにして飛ぶらしい。

 車の前に座った男が掛け声をかけると、先頭にいる一羽が、大きく羽ばたいた。

 途端に風が巻き起こり、綺麗に掃き清められているはずの地面から、細かい砂塵が舞い上がる。風に前髪をさらわれて、二の姫は一層胸が高鳴るのを感じた。二度三度と烏が羽ばたくと、がくん、と車全体が浮き上がる。中に据え付けられている手掛かりに掴まり、飛び上がるところを見てみたい、とさらに物見を押し開けた二の姫は、屋敷の片隅からこちらを覗く人影に気が付いた。柱に隠れてはいるものの、白い寝巻きの裾が、ちらりとだけ見える。次の瞬間、視線と視線がかち合う。目を見開き、二の姫はハッと口を覆った。

 あれは――

「姫さま、もう出ます。大人しく座っていてくださいませ」

 鼻先でぴしゃりと物見を閉められて、二の姫は何も言わずにその場に座り込んだ。口にこそ出さなかったが、今の人影に心当たりがあった。

 あれは、間違いない。双葉姉さまだ。

 胸が、さっきとは全く違った意味で、早鐘を打っていた。急に水を浴びせられたように、体の奥が冷えていくのが分かった。

 本来なら、今、この場にいるのは、双葉姉さまのはずだった。

 たきしめた香の薫りに包まれて、紅の薄様を身にまとい、たくさんの女房にかしずかれて。これからのことに胸を高鳴らせ、不安も期待もきゅっとその身に抱え込み、頬を紅潮させていたであろうに。

 登殿のために、育てられてきた姉だった。それなのに。

 ――心中を察するに、余りあるものがあった。

「お可哀想に……」

 新年の宴に出ていたのが自分で、休んだのがお姉さまであったなら良かったのにと、呟かずにはいられなかった。

 やがて、飛車は地面すれすれに浮き上がり、滑るように前へと進み出した。本邸の車宿りは、そのまま切り立った崖へと続いている。崖から飛び出すように滑空し、車体が安定してから再び物見を開いたが、もう、歓喜にわく使用人達も、姉も、目にすることは出来なかった。

 日が天頂に届く前に、中央の山が見えてきた。

 山内には、基本平地がない。どこを見たって山ばかりである。従って、筆頭貴族である四家などでは、それぞれに与えられた領地の中で、最も高い山の頂上に一族の屋敷を構えるのが普通である。東家の別邸からほとんど出たことの無かった二の姫は、無論、宗家も同じようなものだと思っていた。ところが、宗家の場合は、他とは全く違っていたらしい。

 まず、山の高さからして違った。いや、標高からすればあまり変わらないのかもしれないが、山の周りが一段低くなっていて、なおかつ傾斜が恐ろしくきつかった。山肌には岩が覗き、山の中から滝が噴き出している箇所がいくつもあり、その間を縫うようにして、懸け造りの貴族の住居が築かれている。その一つ一つがどれも立派で、張り出した床を支える縦横の柱が、まるで冬枯れの木立ちのように見えた。邸宅の間を渡り廊下で繋いでいる様子が印象深い。

「宗家の方の住居は、懸け造りではないのですよ。どこにお住まいだと思われます?」

 うこぎの説明を話半分に聞いていた姫は、さあ、山の上とか? と、適当に返事をした。それでも怒らなかったのだから、うこぎも久しぶりの中央に、すこしばかり興奮していたのかもしれない。

「違います。この山の頂上には、山内をお守りくださる山神さまがいらっしゃるそうですからね。山頂付近は、禁域となっています。かつて、私達八咫烏の一族は、その山神さまに従って、この地にやって来たのだそうです。山神さまのお世話をするために、私どもの長、金烏は、山の斜面をくり抜いて、山の中(・)に住まうことを決定なさいました。だから、金烏の子ども達がこの山を出た今でも、この地を『山内』と呼ぶのです」

「では、朝廷は山の中にあるの?」

「さようでございます。だから、姫さまのお父上のような、四家の当主やその子弟が、山の側面に住居を建てておられるのです。山の中は、宗家の方々と、政治の場と決まっておりますからね」

 話しているうちに、先導する烏に乗った男が、もうそろそろ着くことを伝えてきた。どこに降りるつもりなのかと不思議に思った二の姫の目に、一際大きな懸け造りの建物が飛び込んで来た。

 それは、朱色の門だった。岩肌との間には漆喰が塗り固められ、形は普通の屋敷の門と変わりないのに、その大きさが桁違いである。何台かの飛車が門の前に停めてあったが、それが雛遊びに使う玩具に見えるほどだった。

「あそこに降りるの?」

「いいえ。あれは、官人の使う『大門』でございます。桜花宮の門は『土用門』といって、もっと上でございますよ」

 言われた通り、それからしばらく上に昇って行くと、先ほどの大門より幾分小さめに作られた舞台が見えて来た。おそらくは、これが土用門なのだろう。

 御者の腕が良いのか、さほどの衝撃もなく飛車は舞台の上に滑り降りた。車輪の勢いがなくなる頃になって外を見れば、綺麗に着飾った女房の一団がこちらにやって来るところであった。

 車から降りた二の姫は、ようやく見渡せた周囲の光景に歓声を上げた。

「すごい、なんて大きな滝!」

 門のすぐ横手の岩壁からは、ごうごうと音を立てて滝が流れ落ちていた。しぶきが霧のようになっており、顔に当たる涼気が清々しい。水の落ちていく先はぼやける程遠く、この舞台の高さが推し測れた。うこぎの手を振り切って舞台の端に近付けば、すぐ後から大慌てで駆け寄って来た。

「姫さま、そのようにはしゃがないで下さい! 宗家の女房が呆れております」

 はたと思い当たり、姫は袖で口を覆った。宗家の女房が新たに数人、自分のお付きに加わるのをすっかり忘れていた。案の定、取り残された女房が、苦笑気味にこちらを見遣っている。宗家の女房のほとんどが、美しい着物の下に、質素な黒い着物を纏っていた。そしてその髪は、宗家を通して山神に仕える立場にあるため、肩口あたりで短く切りそろえられている。

 二の姫は軽やかに彼女らの元に取って返すと、にこりと笑って一礼して見せた。

「お恥ずかしいところを見せてしまいました。東家が当主、二の娘ですわ。あなた達は宗家の方ね?」

 飾り気のない挨拶に面食らったのか、女房の先頭にいた幾分年嵩の女はまじまじと二の姫を眺め、いくらか表情を改めた。

「藤波さまに言い付かってお出迎えに上がりました、滝本でございます。桜花宮に、ようこそいらっしゃいました」

「藤波さまはお元気?」

 内親王藤波の宮は、日嗣の御子の実妹にあたる姫宮である。二の姫の母が藤波の教育係を務めたために、幼少から親しんで育ってきたのである。

 滝本は厳しい面持ちをやや和らげて、首肯した。

「貴女さまのお話は、よくよくうかがっております。お元気でいらっしゃいますよ」

「それなら良かったわ」

「どうぞこちらへ。他家の皆さまは勿論のこと、大紫(おおむらさき)の御前(おまえ)がお待ちでございます」

 登殿する姫君達は、后宮ならびに姫宮など、宗家の女宮に仕える、といった体裁で殿上を許される。族長を金烏と言い表すことから、皇后は赤烏(せきう)というのが正式な呼び名であるが、宮中に上がった女達の間でその言い方がされることはめったにない。宗家の紋は『日輪に下がり藤』であり、紫は皇族以外には禁色であることから、最も力のある女宮のことを大紫の御前と呼ぶのだ。

 舞台の奥には立派なつくりの土用門があり、大きな幕が掲げてあった。紫の地に、金色の桜の花と、大きく羽を広げる三本足の赤い烏が刺繍されている。赤い烏を興味津々に見上げる二の姫に気付き、うこぎが説明をしてくれた。

「後宮に準じる宮殿なので赤烏の紋が入っていますが、桜花宮の実権は、通常『桜の君』にあります」

「桜の君?」

「はい。日嗣の御子の妻のことでございます。日嗣の御子の妻は、御子が金烏として即位され皇后となるまで正式に宗家の者としては認められないので、紫に準じる浅紫の衣を使用するのです。それが桜色に見えることから、『桜の君』と呼ばれるようになったと伝えられています。大紫の御前が統括する後宮――『藤花宮』の紋には藤の花が入るため、山内で桜の入った紋が見られるのは、ここだけなのですよ」

「そうなの。桜の君、なんて、素敵な名前ね……」

 土用門の両側には、渡殿によって繋がれた、やはり懸け造りの建物が並んでいた。

「東の家の姫君に与えられるお屋敷は、代々『春殿』と決まっています」

 今度は滝本が、歩きながらの案内を買って出た。

「南の家が『夏殿』、西の家が『秋殿』、そして、北の家が『冬殿』です。桜の君が決まるまでの間、管理を任される女宮が住まう屋敷は『藤花殿(ふじのはなどの)』といいます」

「へええ」

「藤花殿だけは、後宮と直接繋がっているのです。同じ藤の名を冠しているのはそのためです。登殿した以上、そちらで大紫の御前と藤波さまにご挨拶をして、春殿を任せてもらう権限を頂かなければなりません。お着替えの必要がございますので、まずは春殿へ」

 滝本に先導され、舞台脇の渡殿をつたって春殿へと向かう。途中、夏殿の前を通ったが、夏殿の姫を見ることは出来なかった。

 まだ正式な春殿の主でないために中に入れないので、春殿のすぐ横に用意された天幕へと通された。着替えを終え、一息ついたところで、ようやく藤花殿から使者がやって来た。

「大紫の御前が、お会いになられるそうです」

 隣でうこぎが大きく息を吸い、幾分緊張した顔で二の姫に向き直る。

「いよいよでございます、姫さま。ここから先は、うこぎは口出し出来ません。どうか、お教えした通りにご挨拶なさいませ」

「ええ」

 分かっているわ、と言い返し、二の姫はそっと目をつぶった。

 これからは、自分が無礼をしてしまっても、庇ってくれる者は誰もいなくなる。

 くっと顔を上げ、控えていた宗家の者に向かって、頷きを一つ。

「行きましょうか」

 頷きを受けた者は一度深く礼をし、朗々と響き渡る声で叫んだ。

「東家二の姫君、登殿にございます!」

 その声を聞いたお付きの者達が、一斉に体を藤花殿の方角へと向け、宗家の者が二の姫に先んじて、渡殿を歩き始めた。山腹の岩肌に建てられた、本殿へと続く廊下である。二の姫は、天幕を持ち上げてくれた女房の間を通り、その後に続いた。

 春らしい風が吹いていた。

 どこかで、山桜が咲いているらしい。飴色の床板には、山桜の花弁がほの白く散らばっている。ちらりと後ろを見れば、すぐ後ろにはうこぎがいる。さらにその後ろでは、二十を超す女房達が、それぞれに身を飾り立てて、二の姫に付き従っていた。

 遠くで、南家一の姫登殿の声が聞こえた。視線を上げれば、ちょうど渡殿は大きな岩のくぼみにさしかかったところ、向こうの夏殿の門がはっきりと見えた。天幕の奥から出て来る人影も、遠目ながらも見ることが出来た。

 前に立つ女房に比べて、随分と背の高い御仁のようである。顔つきまではよく見えなかったが、しなやかな黒髪と堂々とした歩き方から、なんとなく強そうな人だと思った。

 夏殿の姫が長い長い渡り廊下を歩き終え、藤花殿前の舞台に来た時だった。反対側の渡殿から、もう一組の姫の一行がやって来たのが分かった。

 秋殿の姫のようだ。こちらもまた、夏殿の姫に負けず劣らず、存在感のある姫のようだった。背丈こそ夏殿の姫よりも低かったが、姫本人が着ている物と、そのお付きの者の身に着けている品が、きらきらと日の光に輝いている。先導する宗家の者の着物と比べても、金糸銀糸をふんだんに使った、逸品に違いなかった。さらには、肩に流れる姫の髪自体が、淡い茜色に光っているようにすら見えた。

 夏殿と秋殿の姫は、ちょうど本殿の前で向き合うようになり、ほとんど同時に入殿した。しずしずと、夏殿と秋殿、二列になった女房達が、藤花殿へと吞み込まれていく。夏殿の女房の後に続く形となった二の姫が本殿の前に来た時、今度は冬殿の姫と二の姫自身が向かい合わせになった。

 そこで初めて、他家の姫を正面から見た二の姫は、小さく目を見開いた。

 北家の姫はほっそりと小柄で、そしてとても可愛らしかった。

 何べんも梳ったのであろう、一本一本が細い黒髪は、綺麗に切りそろえられている。黒檀の髪に縁取られた顔は小さく、垂れた目尻が愛らしい。

 そしてなにより素晴らしかったのは、その肌の色の白さであった。一度も日の光を浴びたことがないかのような、いっそ神々しいまでの色白である。あまりの肌の眩さに、一瞬呆けたようになった二の姫をじっと見つめ、北家の姫はふいと横を向いた。取り残されそうになった二の姫は、慌てて北家の姫の横に並んで入殿した。

 信じられない。なんて綺麗な子なのかしら。

 どぎまぎと歩きながら、澄ました風の北家の姫を横目で窺う二の姫である。

 他の者が着ればそっけなく感じただろう、白を基調にした装束が、まるで彼女の清廉さを表しているようで好ましかった。

 そうこうしているうちに、晴れ着姿の一団は本殿の広間へとたどり着いた。広々とした、縦長の板の間である。すでに夏殿、秋殿の一行は両側に分かれて座している。南家、西家の両姫は、女房の向かい合う真ん中で中庭を背にして座っていた。あとは教わった通りに、二の姫は南家の姫の左手につき、北家の姫も西家の姫の右手に腰を落ち着けた。

 ぞろぞろと自分達の女房が着席するのを感じながら、二の姫はじっと正面を見据えていた。正面上座の御簾から、しめやかな衣擦れの音がしている。中にいるのは、大紫の御前。それに、幼少のみぎりに親しく育った、藤波の宮である。藤波の声が聞きたいものだ、と期待しながら待っていたが、実際口を開いたのは滝本であり、儀式的な挨拶に、祝辞が続いた。この良き日に、山神の祝福がありますように、と、厳かに結んだ滝本は、そのまま単調な口調になって言った。

「桜花宮において、これより無断での外出、および外部の者を無断で連れ込むなどをした場合、どんなに位の高い姫であっても、厳罰に処されるということをご承知置き下さいませ。男子の入宮は、宗家の男子、および警備にあたる山内衆の者が、大紫の御前、藤波の宮に面会に来た場合のみ、藤花殿に限って許されます。また、外部と連絡を取る場合は、必ず藤花殿を通すこと。どうしても外出が必要な時は、宗家から派遣された女房を使うようにお願い申し上げます」

 滝本は優雅に一礼し、上座の横に下がって行った。その後も儀式はすみやかに行われ、とうとう大紫の御前が、四つの屋敷の鍵を、それぞれの姫君に預ける段になった。

「南の家の姫」

 呼ばれた南家の姫は、はっ、とはきはきとした返事をした。

 颯爽と進み出たさまは、さながら男のように凜々しかった。

 南家の姫は、目鼻立ちのはっきりとした、気の強そうな美女であった。豊満な胸回りと腰つきながら、すらりとした長い手足を持っている。肉感豊かであるものの、どこにも婀娜っぽさを感じさせない女であった。

「南の家当主が一の娘、浜木綿(はまゆう)でございます」

「噂は聞いておる。夏の殿は、かつては妾のものじゃった。良き屋敷ゆえ、頼んだぞ」

「承知しました」

 滝本の配下の女官が、御簾の奥から鍵を受け取り、浜木綿へと差し出した。浜木綿がそれを受け取り、もとの位置に戻ったことを確認してから、今度は西家の姫を呼んだ。

 はい、と応えた声は、どことなく色っぽかった。しゃなりしゃなりと歩きだした姫を横目でとらえた二の姫は、思わず息を吞んだ。

 美しい。これほど美しい女性を、今まで見たことが無いと思った。北家の姫も浜木綿も美人だとは思ったが、これは確実に別格である。

 赤い光沢を持った黒髪はつやつやと波打ち、薔薇色の肌は匂うように艶かしい。一歩一歩歩み寄るその仕草すら、見ているこちらが恐ろしくなる程に華やかだった。みずみずしい唇は、熟れきった甘い果実のようである。

「西の家当主が一の娘、真赭(ますほ)の薄(すすき)でございますわ。お会い出来ましたこと嬉しく存じます」

 大紫の御前はむっつりと押し黙り、秋の殿を頼む、とだけ言い返した。

「北の家の姫」

「はい」

 緊張しているのか、見た目に違わぬ大人しげな声で、北家の姫は返事をした。

「北の家当主が三の娘、白珠(しらたま)と申します」

 白珠か、と呟き、さして言うこともないように、冬の殿を頼む、と大紫の御前は言った。

「東の家の姫」

「は、はい」

 さあ、いよいよ自分の番である。二の姫は声が震えないよう気をつけながら、なるべく聞きやすい声で喋るよう心がけた。

「東の家当主が二の娘でございます。お目にかかれて光栄です」

 じっとこちらを見つめるような沈黙があって、二の姫はぎょっとした。

 また何か無礼をしたのだろうかと自分の言ったことを反芻し、問題ないと再度確認する。だが、大紫の御前は何も言わない。

「あの……?」

 たまらなくなっておそるおそる声を上げると、そなた、と、ようやく御簾から声がした。

「仮名は無いのかえ? 東の二の姫とはまた、随分と味気ない。双葉とかいった名を聞いた覚えがあるが」

 仮名は、真名に代わって普段使われる呼び名である。真名の方は婚姻の際、夫にだけ教えるのが普通だから、宮仕えするには、絶対に必要になってくる。『双葉』は登殿までの期間が長かったので世間が勝手に付けた仮名だが、別邸でひっそり育った二の姫はそうはいかなかった。

「あの、双葉は私の姉で――急な病で、妹の私が」

 ああ、もうよい、とそっけなく言われて、二の姫は、上手く喋れない自分に赤面した。しかし大紫の御前は大して気にした風もなく、では、と手を打った。

「『あせび』ではどうだ。東の家の栄達を願って」

 あちこちから、あら、とか、まあ、とか言う声がし、ついで囁きがあたりを席巻した。

「どうだ。気に入らないかえ?」

 何を言われたか分からず、ぽかんとなった二の姫は、すぐに、自分の仮名を付けてくれたのだと気付き、小さく飛び上がった。

「そ、そんな、気に入らないなどと、恐れ多い。もったいのうございます」

「では、決まりだな、あせびの君。春の殿をよろしく頼もうか」

 あせびの君――それがここでの、二の姫の名前となった。

 信じられない幸運に呆然となりながら、あせびは女房から、台の上に載せられた鍵を受け取った。受け取った瞬間、高雅な香りがにわかに強く匂い立ち、あせびは御簾の向こうに思いを馳せたのだった。

「おねえさま」

 挨拶の儀を終え、ひとまず本殿から退出したあせびは、軽やかな声に振り返った。

「まあ、藤波さま! お元気そうで何よりですわ」

「おねえさまも。ここでお会い出来るなんて、思いもしませんでした」

 お付きの者を置いて、藤波が嬉しそうにこちらに寄って来た。藤波の宮は、まだ十二を数えたばかり。あどけない顔に似合わない濃紫の汗衫を着ており、やわらかそうな髪を、赤い紐で花結びにくくっている。

 一方、藤波の方もあせびをまじまじと見つめ、ほう、とため息をついた。

「でも、本当にお会い出来て嬉しいです。昔から、大きくなったら美人になると噂されていましたけれど、なんてお綺麗になったのかしら……」

「私が?」

 あせびは、苦笑気味に首を振った。

「ありがとう。でも、一番みすぼらしいのは自分だって、分かっているからいいのよ?」

 桜花宮にやって来てから、つくづく圧倒されることしきりなのだ。ところが、藤波は怒ったように口を尖らせた。

「お世辞じゃありません。そりゃ、他のお三方もお綺麗でしたけど」

 言いながら、先ほどの様子を思い出したのだろう。うっとりと目をつぶり、熱に浮かされたように藤波は囁いた。

「板ばりの床に、こう、彩衣が広がるんです。花の衣は香らんばかり……それはもう、四季を司る女神さま達が、一時に舞い降りたかのようでした」

 いたずらっぽく笑い、でも、一番お綺麗なのはおねえさまでした、と続けた。

「ああ。おねえさまが、本当に私のおねえさまになられたらいいのに」

 そうしたらどんなにかすてきでしょう、と顔をほころばせ、それからふと顔を曇らせ、今度はあせびの顔色を窺うように、上目遣いになった。

「あの、先ほどはひどいことをしました。大紫の御前は、機嫌がよろしくなかったようで」

 何を言っているのかと、あせびは首を傾げた。

「大紫の御前は、よくして下さったではないの。名前まで頂いて。あせびですって。なんて良い名をもらえたのかしら」

「はい?」

 藤波はそれを聞き、ぽかんと口を開けた。退出してからだんまりを決め込んでいたうこぎが、ぎょっと身を竦ませるのが分かった。どこか、様子が変だ。かたい面持ちの二人に戸惑ったあせびの背に、豪快な笑い声がぶつかって来た。

「あせびの名をもらって喜ぶなんて、あんたもつくづく田舎もんだねえ」

 驚いて振り返ったあせびの目に飛び込んできたのは、女にしては珍しい程の長身だった。

「夏殿の、浜木綿さま?」

「浜木綿でいいよ。ま、あんたもアタシと同じ派閥だからね。よろしく頼むよ」

 浜木綿は、くっくっ、と喉の奥で笑いながら、臆面なくあせびの目の前に立った。

「あせびはね、馬の酔う木、と書くんだよ。なんでか分かるかい?」

 あせびは目を丸くし、分かりません、と答えた。

「あの花は、毒を持っているからね。マヌケな馬が口にして、あっという間に酔っぱらっちまうのさ。大紫の御前は、見事に若宮殿下をこき下ろしてくれたわけだ」

 言っている意味が分からず、あせびはおろおろと視線を彷徨わせた。隣では藤波が、ムッと顔をしかめている。

「言いたいことがあるなら、はっきりしたらいかがか」

 浜木綿に向かい合った藤波は、態度も口調も一変していた。

「おや、姫宮殿下。大好きな兄上を侮辱されて、悔しいと見えるね」

 からかうように言われた言葉に、さっと顔色を失くした藤波である。

「夏殿の君。言っていいことと、悪いことがあろう!」

「あんたがアタシに腹を立てるのは筋違いだ。うさを晴らしたいだけなら、他を当たりな」

 他と言っても、残っているのは皇后陛下だけだがね、と笑われて、藤波は怒りのあまり真っ赤になった。しかし結局何も言い返せずに、藤花殿へと帰って行った。

「藤波さま!」

「ほっときな、あせびの君。おこちゃまの短気だ。あれで内親王とは、笑わせる」

 どうにも気まずくて、あせびは非難の意味をこめて浜木綿を見た。それをどう解釈したのか、浜木綿は悠然と欄干にもたれかかった。

「大紫の御前にとっては、今の日嗣の御子は政敵だからね。あれはあんたに、『馬程度の下賤の者なら、お前の色気に酔いしれることだろう。せいぜい上手くおやり』って、皮肉まじりに激励したのさ」

「馬程度の下賤の者?」

「若宮殿下のことだ」

 意味の分からぬ様子のあせびに耐えかねたのか、うこぎが低い声を上げた。

「姫さま。身分が低く、忙しく働いて日銭を稼ぐ者達のことを、『馬』と侮辱して呼び表す場合が稀にあるのです。あまり良い言葉ではございませんので、高貴な者は進んで使いたがりませんが……」

「何か含みのある言い方だねえ。別に構わないけどさ」

 にやにやと笑いを浮かべ、浜木綿はあせびへと向き直った。

「しかし、そんなことも知らないとは、どうやら本格的な箱入りのようだな」

「私、東の家の別邸から、出たことがないんです」

 目を丸くして、浜木綿は欄干から身を起こした。

「体が弱かったので……男の方と、話したこともほとんどありません。今回の登殿も、急に決まったことでしたし」

「馬鹿な。それこそ冗談だろう」

「本当のことでございます」

 浜木綿の態度が気に入らないのか、うこぎはよそよそしく言い放った。

「幼少の頃より、なるたけ外気に触れないよう、お育て申し上げましたので。外出も、本邸か、すぐ近くの花見ぐらいが関の山でございました」

 今度こそ完全に呆れ返り、浜木綿は額に手を当てた。

「よりによって、教育も何もしていない娘を登殿だと? 無茶にも程があるわ。お前の父御は何を考えているのか、さっぱり分からん」

 はやく帰っておいでとのたまった父を思い浮かべ、あせびは真顔になった。

「多分、何も考えていないのだと思います」

 かなり本気で言ったのだが、浜木綿は取り合おうとしなかった。

「東の家は腹黒と聞くからな。何か、深い考えあってのことなのだろう。もしかしたら、本命は別にとっておくつもりなのかもしれないな」

 本命、と聞き返したあせびに、浜木綿は訳知り顔になった。

「宗家の長男だよ。これも知らないのだろう? 今の日嗣の御子は次男で、しかも、正室の子じゃない。大紫の御前には実子がいたのに、無理やり譲位させられちまったんだ」

「正室の生んだ長男だったのに?」

「そう。古いしきたりだとさ。なんでも、本物の金烏だったんだとよ、今の若宮さまは」

 本物の(・・・)。

 その言い方が妙に引っ掛かり、あせびは口をつぐんだ。そんなあせびの様子にも気付かないで、浜木綿は語り続ける。

「大紫の御前は、南家の出身だ。南家に権力が集中するのを妬んだ奴らが、強引に日嗣の御子の座から引きずり下ろしたのさ。今でこそ落ち着いているがねえ、水面下で前日嗣の御子を信奉する者は多い。何せ、当の若宮と言えば、とんだうつけの青瓢箪らしいからね」

「だったら、さっさと出てお行きになればいいのですわ。あなたを引き止める者など、ここには誰もいなくてよ」

 唐突に響いた甲高い声に、あせびはぎょっと顔を上げた。

「ええと、真赭の、薄さま?」

「ごきげんよう、あせびの君。性悪に捕まって、ご愁傷さまですこと」

 口先だけで笑い、真赭の薄は浜木綿をねめつけた。

「よくもまあ、自分の夫となるかもしれない方を、そこまで悪しざまに言えるものですこと。そんなにお嫌いなのなら、最初から登殿なんかしなければ良いのでなくて」

 馬鹿め、と浜木綿も、これまた不敵に笑って見せた。

「嫌いだなどとは一言も言っておらんだろうが。うつけだろうがなんだろうが、アタシはあの男を愛しているよ」

「日嗣の御子という、そのお立場に恋していらっしゃるのでは?」

「分かっているではないか。南家の女はみんなそうだ。男たらしの西家とは違うんでな」

 低く笑った浜木綿に、真赭の薄は冷ややかな視線を返した。瞬間、二人の間で火花が散ったような気がした。

「お会い出来るのを楽しみにしていましたのに。どうやらあなたとは、仲良くなれそうにありませんわ、夏殿の御方」

「同感だな、秋殿の御方。アタシも、派手好みの女は好きじゃないんだ」

 無礼な、と、真赭の薄の背後にいた女房が声を荒げた。

「この方をどなたと心得る? 恐れ多くも、西の家一の姫――」

 浜木綿はうるさそうに、女房の言葉を途中で遮った。

「そしてアタシは、南の家一の姫なんだ。心得違いはどっちだい」

 下っ端は黙ってな、と邪険に言い捨て、浜木綿は真っ向から真赭の薄に向かいあった。

「指をくわえて見ているがいいさ。若宮殿下を籠絡したところで、最後にものを言うのは家の力なんだ。おまえの美貌など、何の役にも立ちはすまい」

 余裕たっぷりに笑った浜木綿に、真赭の薄も艶麗な微笑を返した。

「そのお言葉、そっくりそのままお返しいたしますわ。今上陛下がその結果どうなさったか、中央の人間はみんな、忘れていなくてよ。大紫の御前のようにならないことを、心の底から祈って差し上げますわ」

 おやさしいこって、と吐き捨てた浜木綿は、長い裾を捌いて踵を返した。

「気分が悪い。帰るぞ」

 それまで一言たりとも口を出さなかった浜木綿付きの女房は、やはり無言のまま、そのあとに続いた。足音も高らかに自分の屋敷へ帰っていく後ろ姿に、真赭の薄はふん、と鼻を鳴らした。

「南家はね、ああ見えて余裕なんかないんですのよ。西家が力をつけてきたものだから、焦っていますの」

 激しい応酬に呆気にとられていたあせびは、真赭の薄の言葉にぎこちなく振り返った。

「焦っている?」

「ええ。大紫の御前は、面目まるつぶれですもの」

 それから、先ほどとは打って変わった笑顔になって、あせびへと腰を折った。

「ご挨拶が遅れてしまいましたわね。あなたとは、仲良く出来たら嬉しく思いますわ」

 以後よしなに、と笑われて、あせびはその微笑みに頭が沸騰したような心持ちになった。

「こ、こちらこそ、よろしくお願いします。何分世間知らずですので、ご迷惑をおかけすると思うのですが」

 しどろもどろの言葉にも、真赭の薄は嬉しそうに頷いた。

「やっぱり、思ったとおり、なんて可愛らしいのかしら。わたくし、美しいもの、綺麗なものは、みんな好ましいと思っていてよ」

 はあ、と曖昧に答えて、あせびは困って視線をうろつかせた。だが、そんな様子には目もくれず、真赭の薄は柳眉を逆立てた。

「それにしても、あの南家の男まさりときたら、一体なんなのかしら。ちっとも可愛らしくないと思いませんこと? 外見は言うまでもありませんけど、性格もあんなでは、絶対入内なんか無理に決まっていますわ」

 それから一拍置いて、おほほほほ、と高笑いした。

「ま、浜木綿がたとえどんな女であろうと、入内するのはこのわたくしだから、関係はないのだけれど!」

 ねえ、白珠、と名を呼ばれて、そうですわね、と気の無い声が返って来た。そこで初めてあせびは、真赭の薄の陰に隠れていた、北家の姫君に気が付いた。

「白珠さま」

 驚いてうっかり声を大きくすれば、迷惑そうに眉をひそめて、扇で顔を覆ってしまった。そんな白珠を笑い、真赭の薄は頬に手をあてた。

「白珠は恥ずかしがりなのですわ。だからせっかくの正装なのに、こんな地味なのを選んでしまったのね。もとはそんなに悪くないのに、野暮ったいったらありませんわ。わたくしの衣装を分けてさし上げるから、一度着てみなさいな」

 きっと、見違えるようになりますわと言い切った彼女の装いは、確かに洒落ていた。金糸で蝶と花の縫い取りがなされた唐衣は美々しく、蘇芳を薄様に重ね着したその姿は、まるで牡丹がそのまま人の姿になったかのような艶やかさだ。宝冠の飾りはさらさらと音を立て、目にも耳にも涼しげである。

 でも、と、あせびは思う。

 でも、この衣装は、きっと白珠には似合わない。

 例えば、浜木綿が先ほど着ていたのは、花菖蒲のような、鮮やかな瑠璃紺に、金の流水文様が入った唐衣だった。初めて見るような大胆な柄だったが、それを着こなしている浜木綿に、あれはよく似合っていたのだと思う。本人も分かってやっていたのだろう。己だってこの日のために、自分の身の丈に合った衣装を選んできた。紅の匂は少し華やか過ぎて子供っぽいかとも思ったが、自分の髪の色はやや薄いから、ちょうどいいと思ってこれに決めた。白珠の着物だって、自分と同じように悩んで決めたに違いないのに。

 てっきり断るかと思ったあせびの予想に反して、白珠は大人しく、恐縮でございますわ、と返事をしただけだった。一瞬違和感を覚えたあせびだったが、真赭の薄の明るい声に、その感覚ははっきりとした形をとる前に霧消してしまった。

「わたくしとしたことが、うっかり本題を忘れるところでした。実はあなたに、ご挨拶の品があって参りましたのよ」

 菊野、お出しして、と気取った声に応えて、先ほど浜木綿に下っ端呼ばわりされた女房が進み出た。その手に捧げ持っているのは、真赭の薄の衣と同じ、赤い絹である。

「我が領の名立たる匠達が丹精こめて仕上げた、蘇芳の絹でございます。蘇芳色は、西領にて千年の齢を経た古椿の精にのみ、染め上げることの許された貴重な色でございます。今回は特別に、絡新婦の糸で縫い取りもさせました。ご覧くださいませ、この桜模様のすばらしいこと!」

 たしかに、銀の刺繍が文句なしに美しい芸術品である。

「つまらない物だけれど、どうぞお納めになって」

「こ、これをでございますか?」

 真赭の薄の言葉に素っ頓狂な声を上げたのは、あせびではなくうこぎであった。

 他に何があって? と真赭の薄は笑う。うこぎは主に代わって、差し出された品をおっかなびっくり受け取ったはいいが、掲げ持った姿勢のまま動けなくなってしまっていた。

 品物の価値はよく分からないが、うこぎの様子から察するに、相当良いものなのだろう。礼を言おうとしたのだが、真赭の薄といえば、うきうきと嬉しそうなばかりである。

「白珠にも先程渡しましたのよ。でも、わたくし程ではないけれど、あなたも綺麗な髪ですもの。きっとこの衣装は、特別良く映えますわ」

 何か言おうと口を開きかけ、なんとなく疲れてしまったあせびである。

「ああ、気にしなくて結構ですのよ。これくらいのものなら、わたくし、掃いて捨てるほど持っていますの。登殿前だというのに、殿方が無理矢理置いていってくだすったのよ。いつものことなのだけれど」

 過ぎた美貌も困りものですわ、と眉根を寄せる姿は、なるほど、美しいことは美しいのだが。

「姫さま。そろそろお召替えのお時間です」

「あら、ほんとう」

 それでは皆さま、ごめん遊ばせ、と最後に高笑いの余韻を残し、真赭の薄は、浜木綿とはまた違った意味で、嵐のように去って行った。ぽつねんと残されたあせびと白珠は、しばらくの間、きらきらしい一行を言葉も無く見送ったのだった。

「お美しい方だけれど……」

 なんというか、強烈だ。

 口には出さなかったが、大体は察したらしい。扇からひょこんと覗いた黒目がちな眼が、呆れたような色を浮かべた。

「そんなのんきなことでよろしいのですか」

 ぽかんと見つめ返せば、少しだけ怒ったような目と視線がかちあってしまった。

「あたくし達は、若宮殿下の正室には、なりえるはずが無いとお考えなのでしょう。競争相手と思われていないのです」

 言われて、今さらながらに衝撃を受けたあせびである。自分はこの三人と、互角に張り合うことが前提でやって来たことになっているのだ。

「忘れていました」

「忘れていました?」

 やや高くなった白珠の声に、しまった、とあせびは思った。

「その、私なんて、白珠さまなんかとは比べ物にならないくらいの田舎ものですし――競争相手なんて、とんでもないことです、と、言いたかったのですが」

 慌ててしどろもどろの返答をしても、白珠の目線はどんどん冷え切っていった。

「仮にも、東領を代表して登殿したのです。もう少し、それなりの意地というものをお持ちになった方がよろしいのではないのですか?」

 そう言い捨てると、白珠もさっさと自分の屋敷に帰ってしまった。彼女に付き従っていた老婆が、非難がましくこちらを睨むのを見て、あせびは、何か自分がやらかしてしまったらしいと悟った。

「姫さま」

 遠慮がちにかけられた声に、がっくりと肩を落としたあせびである。

「うこぎ……なんだか、わけの分からないことばかりなのだけれど」

 情けない顔をしていたのだろう。うこぎは唇を噛んで、なぜか悔しそうな顔になった。

「うこぎが甘うございました。もっとよく、事情をお知らせしておくべきでした」

 ひとまず正装を着替えてからということになり、渡殿を通って春殿へと帰ってきた。正式に鍵を渡されているから、今度は気兼ねなく中に入ることが出来る。

 内装は思っていたよりもこざっぱりとしていて、意外にも、東家の別邸の雰囲気に似ていた。さりげなく置かれた調度品はどれも高級品だが、どこか懐かしさを感じさせる物ばかりである。ただ、本来壁があるべき所が、何故かまるまる一面、枢戸で出来ていた。一つ開いて外を窺えば、開けていて見晴らしが良い。暖かくなった時に開け放せば、さぞかし気持ち良かろうと思った。広い邸内を見回しつつも着替えをすませると、あせびはここに来て初めて、ほっと一息つくことが出来たのだった。円座をあせびの前に持ってきたうこぎは、さて、と、くつろいだ風の主に向かいあった。

「まずは、あせびの君さま。滞りなく登殿を果たされましたこと、まことにおよろこび申し上げます」

「ありがとう――と、簡単に言って良いものなのかしら」

 本当に滞りなく、とは言いがたい。うこぎは深々と頷いた。

「他家の姫君は、すごい剣幕でございましょう? 皆さま、自分こそは、と思っていらっしゃいますからね。いつの代でもこんな感じでございます。お父上さまが仰った、『お友達になる』というのは、正直無理ではないかと思っておりました」

 あせびは、浜木綿に言われたことで気になっていたことがあった。

「派閥、というのはなんのこと? 浜木綿さまは、私が同じ派閥だから、仲良くしよう、というようなことを言っていたでしょう」

 ああ、とわずかに苦々しげに呟き、うこぎは背後の女房に目配せした。

「それに関しては、これをご覧になりながらの方が、分かりやすいかと」

 女房が開いた巻物は、宗家と四家の血縁関係をまとめた、系譜だった。上から順をたどって見てみれば、南家からの入内が、ことさら多いのがよく分かる。その次が西家だ。東家、北家は、ほんの数えるほどである。

「現金烏陛下の奥さまは、お二人だけです。先ほどお目にかかった大紫の御前がご正室、つまりは赤烏であり、南家のご出身でございます」

 南家。つまりは、浜木綿の家だ。

 系譜の端をぱちりと扇で指し、うこぎはあせびの顔を見た。

「大紫の御前と今上陛下の間には、お子さまがお一人だけおられます。この方が、前日嗣の御子――若宮の兄上さまです。この方こそ、まぎれもなく、宗家直系長子であられます。ここまではお分かりですね?」

 頭の中で人物関係を整理しながら、あせびは何度も頷いた。

「ええ、分かるわ」

「では、もう一人の奥さまのことをご説明しましょう。こちらは、あせびさまもよくご存知の、藤波さまの実の母上でございます。側室ではありましたが、お産みになったお子さまは二人」

「それが藤波さまと、今の若宮さまね?」

「そうです。そして、若宮さまと藤波さまのお母上は、西家の出でございました」

「西家……」

 真赭の薄の家である。

「十年ほど前、兄宮を推す南家一派と、若宮殿下を推す西家一派の間で、政治闘争が起こったのです。四家のうち残り二家も、どちらに味方するかを決めなければなりませんでした」

 長年の南家の横暴に、腹を立てていた者は少なくなかった。それと言うのも、南家は外戚という立場を利用して、天狗との交易権を独占していたことをはじめ、数々の特権をいいようにしていたからである。

「北家は西家側につきました。結果、若宮は日嗣の御子の座を兄宮さまから勝ち取ったのです。ここで東家も、間違いなく西家につくと思われていたのですが……」

 そこまで聞いて、あせびは嫌な予感がした。年代から言って、当時、東家の長を務めていたのは、自分とゆかりある人物である可能性が高い。それも、ものすごく。

「まさか」

「はあ。あせびさまのお父上は、西家にはつきませんでした」

 お父さま……。

 思わず力の抜けたあせびである。

「なんでそうなさったのかしら」

 弱々しい声に覇気のない笑いを返し、うこぎは疲れたように言った。

「どうやら、荒事を避けようとのらりくらりしているうちに、南家に肩入れしているように思われたみたいですね。実際は中立のつもりだったようですが、いつのまにか西家と北家に対抗して南家と東家、という図式が完成してしまったわけです」

 浜木綿の言っていた派閥とは、このことだったのだろう。しかし、とどこか苦々しげにうこぎは続けた。

「あくまでお館さまご本人はそんなつもりではない、と主張なさっているので、南家の当主さまの覚えもあまり良くはないのですが……」

 またもや、浜木綿の言っていた意味が判ってしまったあせびである。

「だから、東家は腹黒?」

「と、言われておりますね……」

 しばし、うこぎとじっと見つめあい、あせびはなんだか泣きたくなった。

「私、もう家に帰りたい」

「弱気にならないで下さいませ!」

 何はともあれ、兄宮派と若宮派の実力は拮抗してしまった。この状況を打開する最も有力な手段として、両家が一番に考えたのが、今回の登殿であったのである。次の金烏となる若宮のもとに入内した姫の家が、次代において政権を獲得することは確実だった。

「ふたつの家が、それぞれの家の命運をかけて送り込んだのが、浜木綿さまと真赭の薄さま、ということです」

 道理で、とあせびはため息をついた。

「相手にされなくて当然だわ」

 二人のあの態度も、話を聞いた後では納得である。たそがれかけたあせびに対し、うこぎはキッとまなじりを吊り上げた。

「そんなことはございません!」

 家柄を考えれば、実際、四人は同等である。

「現に白珠さまを擁する北家は、今回も本気で入内を狙って来ています。北家は、今まで入内してきた人数は少ないとは言え、山内において最大の武力を誇る家柄です。ここで白珠さまが入内したとあれば、政での勢力図そのものをひっくり返す事態になるに違いありません!」

 それは返せば、桜の君に選ばれるということが、それほどに重要な意味を持つということだ。あせびが入内した暁には、東家だって絶大な力を持つことは間違いない。あせびが小さくなる必要は全く無く、むしろ家のことを考えれば、積極的に入内を狙っていくべきなのだ、とうこぎは力説した。

「今まで、南家、西家がでしゃばり過ぎていたのです。東家の姫君が入内しかけたことは何度もあったのに、そのたびに、あくどい手で邪魔をして……!」

 ぎりぎりという、歯ぎしりの音まで聞こえてきそうなうこぎの様子に、あせびは少々青ざめた。こんなうこぎを見るのは、こっそり一人で花見に出かけた時以来である。

 うこぎは鼻息荒く、思わず後退ったあせびの方へと詰め寄って来た。

「とにかく! うこぎは僭越ながら、あせびの君さまには多大なる期待を寄せております。東領にて念願の入内なるかと息を凝らして見守っている者は、決して少なくございません」

 はあ、と気のない返事をして、あせびはうこぎから離れようとした。それに気が付いているのかいないのか、うこぎはあせびの両肩を勢いよくわしづかみにし、ぐっと顔を寄せた。

「ご心配にはおよびません! うこぎが、全力であなたさまをお守りいたします。姫さまなら、絶対に若宮さまのご寵愛を勝ち取れます!」

 守ってくれるのはいいのだが、と、あせびは心の中だけで呟いた。その前に、そう言ううこぎ本人に殺されそうだ。

 さっきから、肩が痛いのである。

 翌朝。

 昨夜は疲れているということで早めに床についたのだが、興奮していたためか中々寝付けなかった。あせびは眠い目をこすりながらのろのろと起きだし、朝っぱらからうこぎに𠮟られてばかりいた。

 禊を終え、春殿に戻った後は、そのまま朝餉となった。

 煮豆を混ぜ込んだ粥に瓜の粕漬けという、いたって軽い朝食を済ませると、今度は身だしなみを整える。髪を梳り、白粉を塗って紅をさす。もともとあせびは、色の黒い方ではない。白珠ほどではないにしろ、冷水を浴び、桜色に上気した肌は、まろやかに肌理が細かく、なんとも好ましかった。この頬に、白粉を厚く塗るのも無粋なようで、化粧は、ごくごく薄くほどこされるだけになった。

 身支度が整った頃に秋殿から使いが来た。なんでも、簡単な茶会でもしないかとのことだったので、あせびは諾と返事をした。

 桜花宮には、屋敷に繋がる廊を区切る門が存在している。藤花殿から春殿、夏殿へ続く門を角徴門といい、秋殿、冬殿へ続く門を商羽門といった。この二つの門を抜けてしばらくすると、行く手に見える秋殿から、賑やかな笑い声が聞こえてきた。うこぎに言われた女房が先立ち、あせびの来訪を伝えると、そのまま入ってくるようにと伝えられた。

 秋殿は、春殿とは趣向の全く違った屋敷であった。どこか木の温もりを感じられる春殿とは異なり、秋殿の廂や丸柱、梁にいたるまでが、黒の漆塗りとなっていたのである。しかも、几帳や、装飾として飾られた着物は全て蘇芳に統一され、刺繍された金の花々、家具に施された彫金の数々が、眩しいようなありさまであった。

「……すごいわ」

「ただの悪趣味でございますよ」

 感嘆の息を吐いて思ったままに呟けば、うこぎがぼそっと囁きを返した。

 確かに、一歩間違えればそうだろう。しかし、白壁に映える黒と、紅と金に彩られた秋殿の様子は、いかにも洗練されている。悪趣味と一概に言い切るのは、少々無理があるような気がした。

 案内されるまま邸内を進めば、思い思いに座る女房らの着物が、ひときわ鮮やかな一角に通された。一つ開かれた枢戸の外には、未だ固い芽をした楓の木々がある。紅葉の頃、全ての戸を開け放てば、それはそれは美しかろうと思われた。

「いらっしゃいまし、あせびの君」

 どうぞお座りになって、と、上座から声を掛けてきたのは、この屋敷の主、真赭の薄である。幾重にも重ねた薄蘇芳をゆったりと着こなし、艶やかに脇息に寄りかかっている。

 お招きありがとうございます、と礼をして周りを見れば、白珠はすでにいたが、浜木綿の姿は見えなかった。声を掛けなかったのか、はたまた誘いを断ったのかは知れないが、今回の集まりには不参加らしい。

 二人の前にある火鉢と、そこから漂うふんわりとした良い香りに、どうやら香を焚いていたようだと分かった。あせびの視線に気が付いた菊野が、にこりと笑う。

「薫物合わせ、と言うほど、大げさなものではありませんが……真赭の薄さまが、冬殿の君がお持ちの練香に、少々興味をお持ちになられまして」

「だって、今まで知らなかった薫りなのですもの」

 丁子が強いのかしらと、真赭の薄は扇を揺らす。それを受けて、白珠のお付きの老婆が、慇懃無礼ともとれるような笑みを浮かべた。

「それはもう、北家代々に伝わる、秘法によって作られたものでございますれば」

「まあ、黒方にも似ているようだから、大体の配合は分かりますけれど」

 さらりと真赭の薄に言われ、年老いた女房の笑みが抜け落ちた。ふふん、と得意気な菊野の隣で、真赭の薄は興味を失ったように体を火鉢から離した。

「わたくしの香は、自分で調合したものですの」

 どうお思いです? とにこやかに問われ、白珠は無表情のままに答えた。

「少し、麝香が強いように思います……全体として、茉莉花に似た感じもいたしますが、これは何なのです?」

 よくお分かりですこと、と、嬉しそうに真赭の薄は言った。

「これは、汀荊(ていけい)と黄双(きそう)を混ぜましたの。決まった割合で混ぜませんと、このような甘い薫りにはならなくてよ」

 それを受けて、これ見よがしに菊野が言う。

「汀荊は、白い水蛇の背に生えた茨の花から採れるもの。黄双は、生まれてから清めの水しか与えられずに育った、鵺の両眼より作られたものです。山内三種の貴香のうち、二つを贅沢に使っているのです」

 そして、誇らしげに胸を張る。

「どちらも、西領でしか取れないものでございます」

 あせびの陰で、うこぎがうんざりしたようなため息をついた。それが聞こえたわけではないだろうに、真赭の薄は、上機嫌のままあせびを振り返った。

「それで? あせびの君の香は、どんなものですの?」

「は?」

 それまで、二人をぽかんと眺めていたあせびは、ぱちぱちと目を瞬いた。しまったとばかりにうこぎが頬を引きつらせたが、今さら遅いのである。自分の知っている香と言えば、うこぎがいつも用意してくれる物くらいだ。聞いたことはないが、それも東家秘伝のなんちゃら、というような代物ではないだろうと思った。

「あの、申し訳ありません。私、そういうのはよく分からなくて」

「そういうの、とは?」

「丁子とか、麝香とか……高価なものは使ったことが無いのではないかしら。あの、薫物合わせをしたこともなくて」

 ご冗談でしょう、と、真赭の薄は素っ頓狂な声を上げた。

「東家は、そんなに余裕がありませんの?」

「おそれながら!」

 侮もあらわな視線に耐え切れなくなったように、うこぎは声を大きくして割り込んだ。

「姫さまの香は、先代から製法を譲り受けし、由緒正しきものでございます。普段から使用しておいででしたゆえ、そのような自覚が無かったものと思われます」

「でも、薫物合わせもしたことがないだなんて」

「宮烏として異常ですわ」

 ひそひそと、秋殿の女房達が囁きを交わす。真っ赤になってあせびが俯くと、うこぎは意地になったようであった。

「姫さまは、体が少し弱いのです。そうなっても致し方ございません!」

 それにしたって、と、女房達は物言いたげな視線を交わす。なんとも形容しがたい空気になったところで話題を変えたのは、気を利かせたのであろう、菊野であった。

「お体の調子が悪いというのは、きっと、悪い気が溜まっておられたのでしょう。もうすぐ、雛の祭りがございますれば、きっと良くなりますわ」

「ああ、巳の日の祓ね」

 それなら分かる。

 上巳の節句は、人形に身の穢れを移し、川に流す行事である。そのための人形を、すでに自分で作って、懐に忍ばせてもいた。

 顔が明るくなったあせびに安堵したのか、菊野は再び、自分の主自慢をし始めた。

「真赭の薄さまは、雛人形を作るのが上手ですのよ」

「嫌ですわ、菊野ったら」

 まんざらでもない様子で笑う真赭の薄に、あせびは自分も会話の輪に入れるのが嬉しくて、思わず口を挟んだ。

「私も、得意なんです。今も持ってますわ」

 今も? と揃って怪訝な顔になった一同の様子にも気付かず、あせびはふわふわした心もちのまま、素朴なつくりの、小さな雛を胸元から取り出した。

「人形は災厄の身代わりにもなるから常に持っておくようにと、お守りとして……」

 そこまで言った時、堪えきれなくなったように、女房の一人が扇の内で噴き出した。それにつられたように、他の者も次々に、腹を抱えて笑い出した。

 一人爆笑の渦につつまれて、あせびはきょとん、と目を丸くした。うこぎが蒼白になって顔を伏せていることから考えて、どうやら、笑われているのは自分らしい。だが、何がおかしいのだか、さっぱり分からなかった。

「それは、山烏のやる『形代流し』で使う雛でございましょう?」

 半笑いで言ったのは、冬殿付きの老婆だった。

 山烏とは、八咫烏の貴族のことを宮烏というのに対し、粗末な衣服を着た、庶民のことを指して言うのである。山烏、という言葉が出て来た途端、白珠はちらとも笑わずに、そっぽをむいた。しかし、山烏のやる、とは、一体どういうわけだろう?

「我々(・・)、宮烏の巳の日の祓では、そんな安っぽいことなどいたしません」

 いいわ、と、真赭の薄が笑い混じりに、自分の女房に向かって扇を振った。

「わたくしのものを、特別に見せてさし上げますわ」

 指示を受けた女房は、すぐに何かを抱えて、一同の席に戻って来た。

 そっとあせびの前に降ろされたのは、一抱え程もある、実に立派な雛人形であった。

 肌は、一体どうやって作ったのか、つるつると滑らかだ。着物は、実際に真赭の薄が身に着けているのと同じ、蘇芳で染められた赤い生地を使用している。指先ほどのかんざしも、職人の手によるものであると一目で分かった。

「三月も前から、手がけておりましたのよ」

 人形の出来栄えが満足なのか、真赭の薄の口調は明るい。

「小物はそれよりも前、一年も前に頼んでおりましたの」

「着物の色をお決めになられたのは、真赭の薄さまですわ」

「本当に、なんて趣味がよろしいのかしら」

 口々に主を褒め称える女房達も、誇らしげな様子を隠そうともしない。それを横目で見ながら、白珠の女房は鼻を鳴らして言った。

「ま、この雛が見事かどうかはともかく、宮烏であるというのなら、これが普通でございます。いいですか、ご存知ないようですからお教えしますが、『形代流し』など、今時、誰もやってなどおりませんよ」

 貴族にとっての上巳の節句は、一家の娘の、健やかな成長を願うためのものである。人の形をしたものを川に流すという点では変わりないが、その雛は、今ではただの形代と言うのが躊躇われるほど、美しい芸術品になっていた。

「仮にも、姫さまの代わりとなるものが、みすぼらしいものであってはなりませんからね。どの家も、威信をかけて、最高の物を用意いたします」

 そうして作られた雛人形は、家臣の手によって、これまた職人によって作られた、立派な船に乗せて川に流すのである。もちろん、すぐに回収し、その後で屋敷に飾られてしまうのだが、流されているその間、綺麗に着飾った雛を、注意深く眺める者達がいる。それが宮烏の青年達である。年頃の若君は、深窓の令嬢の姿を雛に重ね、将来の伴侶に思いを馳せるのだ。実際、上巳の後に、出来の良い雛の持ち主に、恋文が届くことも少なくはない。そのため桜花宮での上巳の節句は、五つの節句のうちで唯一、若宮来訪が定められていない行事でもあった。

 一方で、庶民の娘は普段から男子と顔を合わせているから、雛を立派にする必要がない。結果、あせびが持っていたような、木片に顔を描き、色紙で簡単な着物を着せたような人形を使うのである。よって、宮烏は上巳の祭りのことを雛の祭りと呼び、形代流しとは言わないのだ。

 そのようなことを、冬殿の女房に教えられ、初めてあせびは知ったのだった。

「まさか、雛の祭りも知らないだなんて」

 まだ笑いの収まらない女房らの中で、困惑したように言う者もいた。

「本当に、東家のご息女でいらっしゃるの?」

「雛を作っても頂けないだなんて」

「お父上に嫌われていたのではなくて?」

 あせびを庇おうとしたつもりなのか、真赭の薄は半笑いになって言った。

「まあ、あせびの君には、この素朴な感じが逆によく似合っているかもしれませんわ。宮烏には粗末な物でも、田舎から出て来た方にとっては、上等過ぎるくらいですもの。ねえ?」

 おほほほほほ、と甲高い女達の笑いがこだまする。

 きらびやかに着飾った雛の隣にある、自分で作った人形が、妙にみじめに見えた。

 心無い一言一言が、深く胸をえぐるような心地がする。このままでは泣いてしまいそうだ、と顔を俯けた時、不意にかちゃん、と、何かが割れる音が響いた。

「これは失礼いたしました」

 澄ました顔で言ったのは、白珠である。見れば、白珠の手元で茶器が割れてしまっていた。どうやら、火鉢にぶつけたらしい。

「真赭の薄さまお気に入りの、青鷺印の茶器が!」

「これ!」

 悲鳴を上げた菊野を咎めるように睨んでから、真赭の薄はひきつった笑いを浮かべた。

「割れてしまったものは仕方がありませんわ。どうぞお気になさらないで」

「真赭の薄さまなら、そう仰って下さると思っておりました」

 にこりと邪気のない笑みを浮かべ、白珠は音を立てずに立ち上がった。

「少し、空気が淀んでいるようです。外に出て参ります」

 自分の女房に割れた容器を片付けるように命令してから、白珠はあせびを見た。

「あせびの君もご一緒にいかがです?」

「あ……」

 気を遣ってくれたのだ。

 まさか、茶器を割ったのはわざとではないだろうが、今さっきの雰囲気を変えてくれたのは間違いない。あせびは返答をするのももどかしく、白珠の後を追って外に出た。

 真赭の薄達に声の届かない渡殿まで出て、白珠は足を止めた。

「白珠さま、あの、声をかけて頂き、助かりました。ありがとうございます」

「礼など結構です。別に、あなたを助けようと思ったわけではありませんから」

 こちらに背を向けたまま、白珠はすげなく言った。それから、ちょっと考えた様子を見せると、でも、そうですね、と呟いた。

「別に、それを恩に着せて言うわけではありませんが、ひとつ、お願いがございます」

 女房には遠慮してもらえますでしょうか、と振り向かれ、あせびの背後に控えていたうこぎが、露骨に嫌な顔になった。

「うこぎ?」

「……分かりました。しばらく席を外します」

 どことなくつっけんどんにお辞儀をし、白珠の横を抜けて、うこぎはその場から離れて行った。白珠は、自分の女房が離れた所にいるのを確かめ、あせびへと顔を向けた。

「あなたに、入内は諦めて頂きたいのです」

「え?」

 あせびは目を丸くした。

 いくらなんでも、登殿して来た翌日に、他家の姫に言われるようなことではないと思う。本気で言っているのなら、随分自分勝手なお願いだ。一瞬冗談かとも思ったが、そう言った白珠の目は、怖いくらいに真剣だった。

「唐突に何を、とお思いでしょうが、あなたとあたくしでは、そもそもの立場が違います。話を聞く限り、あなたのおうちは、今回の登殿に乗り気ではないように思います」

 それは、あなたが一番実感しておられるはずですと、早口に白珠は囁いた。

「何の準備もないまま、こんな所に放り込まれて、一番戸惑ったのはあなたではございませんか。あたくしには、東家が、あなたが入内することに期待しているとは思えないのです。東家とは違い、北家は今回の登殿に命運をかけております。それこそ、あたくしの生まれる何代も前から準備を重ねて来たのに、あなたとあたくしが同じ心構えでいるなんて、まさか仰せにならないでしょう?」

 ぱっと頭をよぎったのは、東家であせびの登殿を祝ってくれた下男達と、夕べのうこぎの顔である。だが、私だって期待されているなどと、間違っても言えるはずが無い。

「私は……」

「あなたが入内しなくても、東領の者は許して下さるでしょう。でも、あたくしはそうはいかないのです。だからお願いです。今回の入内は、どうか諦めて下さいませ」

 返答に困って息を詰まらせたその時、白珠の背後に、人影が現れてハッとなった。

「――随分と勝手なことを申すものよ、冬殿の」

 怒気を隠さないその声は、あせびにとって慕わしい、藤波の宮のものだった。わずかに驚いた顔になった白珠はしかし、藤波に相対した時には、動揺の欠片もその顔に上らせてはいなかった。

「ほんの戯れでございます、藤波さま」

「わたくしには、そうは聞こえなかったが」

 紫の細長を捌き、ぐっと藤波は白珠に肉薄した。

「言っておこう。そなたにとって戯れであろうが、春殿の御方がそれを本気にしたら、笑いごとでは済まされぬ。もしそうなった場合、東領はおろか、わたくしもそなたの敵になるということを忘れるでないぞ」

 それには返答せずに、感情を窺わせない笑顔を顔に張り付けたまま、白珠は優雅に会釈をした。老婆を従えて、しかしどことなく足早に秋殿の中へ帰って行く冬殿の一行を見送った途端、藤波の顔から力が抜けた。

「……ああ、もう。驚かせないでください、おねえさま!」

 肝が冷えました、と頬に手をあてがう藤波に、あせびはぽかんとした。まるで話の流れが見えていないあせびに、苦笑しつつも肩を叩いた者があった。

「私が、藤波さまをお呼びしたのです」

「うこぎが?」

 人払いを、と言われてすぐに、急いで藤波のもとに向かったのだという。四家の姫同士の密談に割って入ることが出来るのは、確かに藤波くらいしかいない。

「ちょうど、わたくしもおねえさまの所に行こうとしていたところでしたので、幸運でした。ここでうかつな返事をして、後々問題になったら、ことでしたもの」

「まったく、その通りです。あせびさまも、うかつに私を遠ざけたりなさらないで下さい。まさかもう既に、応と答えてしまったなどと言わないでしょうね?」

 慌てて否定をしつつも、あせびの心中には、もやもやとしたものがわだかまっていた。白珠の本気が、まだ空気の中に漂っている気がする。ぴりりとした緊張感が、なんとも言えない不安の影を残していた。

「それで、藤波さま。あせびさまに、何か用があったのでは?」

 うこぎの言葉に、藤波はそうなの、と、嬉しそうな顔になった。

「ちょっと、おねえさまに見て頂きたいものがあって」

「では、秋殿の方には、私から断りを入れておきましょう」

 もうよろしいですね、とうこぎに確認され、あせびは一も二もなく頷いた。あの中に戻らなくても良いことに、うこぎも内心、ほっとしているに違いなかった。

 うこぎが秋殿の中に戻っている間に、藤波はあせびを藤花殿の中へと案内した。

「藤波さま。そう言えば、お付きの者はどうしたのですか?」

 いつも傍にいる、滝本の姿が見えない。小さく舌を出して、くすくすと藤波は笑った。

「滝本には内緒なのです。おねえさまにお見せしたい物が、面倒な所にありますので」

 こちらです、と歩き出した藤波を追って、あせびは行く先が分からないまま歩いた。藤波は藤花殿の奥へと、迷い無い足取りで入って行ってしまう。

「待ってください!」

 一体、藤波はどこへ行こうとしているのだろうか。藤花殿のさらに奥は、宗家の方々の居住区――さらに言えば、後宮へと続いていることを知っている。入り組んだ廊下をどんどん進み、流石にこれ以上は、と思ったところで、ぴたりと藤波は足を止めたのだった。

 そこは、岩壁に、大きな門扉の据えつけられた場所であった。

 やっとあせびを振り向いた藤波は、静かに、と唇に指を一本立て、胸元から、古めかしい鍵を一つ取りだした。軽やかにそれを振って門扉に向き直った藤波の手元から、がちゃがちゃと金属の触れあう音がする。やがて、がしゃん、と大きな音が上がった。

「開きました!」

 彼女の手元を見れば、確かに彼女の掌よりも大きい、重々しい錠前が外れた状態で閂にぶら下がっていた。だが、錠前が付いている扉があるという時点で、もうこの辺りは入ってはいけない所だということではないだろうか。なんとか藤波の気持ちを害さずに帰れないだろうかと言い方を考えているうちに、藤波は閂の外れた扉の中に、するりと入ってしまった。

「ふ、藤波さま!」

 びっくりして大きな声を上げれば、静かに、と声をひそめた返答がある。そして藤波はおどおどするあせびの手を掴み、強引に中へと引き込んだのだった。

「大丈夫ですわ、見つからなければいいのです」

 ここは、宗家が宴などで使うお道具を収めておくお部屋です、と藤波は悪戯っぽく笑う。

「滅多な者は入れませんから、誰も来たりしないでしょう」

 裏を返せば、やはりあせびにとっては立ち入りの禁止されている場所ということだ。

「で、でも……」

 今にも誰かに咎められるのではないかと逡巡していたあせびは、次の藤波の言葉に、ぴたりと口を閉ざしたのだった。

「実は、見て頂きたい物というのは、長琴なのです」

 ――長琴は、東家のみに伝わる、演奏法が秘伝とされる楽器である。

 なんでも、以前ここでそれを見てから、ずっと気になっていたのだという。あせびに見せたくてしょうがなくとも、ここにある物は金烏の許しがない限り、持ち出すことは厳禁だ。苦肉の策として鍵をこっそり借り、あせび本人をここへと連れて来たというわけだ。

 部屋は薄暗く、ところどころ、格子の嵌められた小窓からぼんやりとした光が射し込んでいた。想像以上に広い部屋らしく、高い天井いっぱいにがっちりとした棚が設けられていた。とてつもなく広い納戸に放り込まれたような雰囲気に吞まれて、あせびは黙って藤波について歩いた。藤波は期待に目を輝かせ、始終嬉しそうにしていた。

「宗家が、長琴を持っているなんて驚きだったのです。きっと、何か由来があるのでしょうけれど、どういったものなのか、おねえさまならきっとお分かりになりますわ」

 そして叶うならば、いつかそれを弾いてもらいたいのだという。

「私なんかより、ずっと優れた楽人がいっぱいいるでしょうに……」

 書籍に親しむことなく育ったあせびであったが、その不足を埋めるように、多くの楽器を与えられてきた。中でも長琴は、亡き母が得意としていたものだった。その面影は薄れても、子守歌の代わりに奏でられた母の音は、体の奥に残っていたらしい。成長するにつれ、あせびがことさら長琴を好むようになったのは、実に自然なことだった。それゆえというわけではないが、やはり今まで見たことのない長琴があるとなれば、少しばかり興味が湧いた。

 藤波に逆らう気をくじかれたあせびは、尻ごみしつつも藤波と一緒になって、棚の間を行ったり来たりした。置いてある物は、いかにも高じきな陶磁器や銀の装身具と数限りなかったが、楽器らしきものはいっこうに見当らない。長く藤花殿に戻らないと、うこぎが不審に思うだろうとあせびがやきもきしていると、遠くから藤波を呼ぶ声がして、二人はぎょっと顔を見合わせた。

「藤波さま、今回は諦めて、また出直したらどうでしょう」

 藤波にも女房の声は聞こえているだろうに、その顔は、素直にうんとは言いそうになかった。こうなった藤波は頑固であると、あせびは経験上知っていた。

「そんな! 次がいつになるか分からないのに……」

 藤波は駄々をこねたが、女房の声はどんどん近付いてきている。とうとう泣きそうになった藤波を前に、あせびは覚悟を決めた。

「分かりました。藤波さまはとりあえず、一旦外にお出になって下さい」

 それでなんとか誤魔化した後、戻って来てくれればいい。

「帰っておいでになるまで、私も探しておりますから」

 渋々だが、取りあえずそれで納得した藤波は、女房らに見つかる前にと外に出た。

「鍵は開けておきますから、見つけたら外に出て待っていて下さいな」

「ええ、そうします。なるべくお早くお願いします」

「もちろんですわ」

 がこんと音を立てて扉が閉まる。足音が遠ざかるのを確認すると、うっすら光の漏れる扉にもたれ、あせびはがっくりと肩を落とした。もし一人でここにいるところを滝本にでも見つかったら、とんだ大目玉だ。どうしてこんなことに、と思わなくもなかったが、嘆いてばかりいても仕方ない。あせびは気合を入れて無数の棚へと向かい合ったのだった。

 たぶんあちらの方にあったと思う、と言われた方向は、窓の数が少なく、いっそう奥まった場所であった。申し訳程度に設けられた明り取りから、淡く頼りない光がぼんやりと漏れ出ている。さまざまな物に袖を引っかけぬよう、慎重に歩を進めてしばらく。淡い光の下に、ふと、何かが置いてあることに気が付いた。棚の間の通路の、突き当たりである。

 黒くこごったような薄闇の中、ぼんやりと浮かび上がるようにそれ(・・)はあった。

 きらきらと、微細なほこりが明かりに反射して舞う中に鎮座していたのは、紛れも無く、すんなりとした輪郭を持つ、あせびにとっては見慣れた楽器――長琴であった。

 吸い寄せられるようにそれに近づき、指で軽く触れれば、しっとりと体に良く馴染む。誰かが使おうと用意していたのだろうか。すでに弦は張ってある。試しにと軽く爪弾けば、調弦はされていないものの、驚くほど良い音がこぼれ落ちた。あせびの琴よりも音に潤いがあって、響きに深みが出る。

 簡素で、余計な飾りがほとんどなされていない長琴だった。唯一彫られているのは、桜にかかる霞の文様くらいであろうか。でも、その分つくりはしっかりしていて、触った感じも素晴らしい。主の意図をよく汲み取ってくれそうな、素直な性質の楽器だった。

 あせびは感嘆のため息をついた。

 未だかつてお目にかかったことのないような、本当に見事な長琴である。

 自分の置かれた状況すらも忘れて、あせびは思いがけずめぐり合った名器に興奮した。

 ついつい、いつものように、気分のおもむくままに演奏する。それだけで、先程まで感じていたもやもやが、溶けて消えてしまうような気がした。なんて単純なのかしらと自分で思い、苦笑する。

 その時、どこからか、穏やかな声が掛けられた。

「何を笑っている?」

 びくりと身を竦めたのは、その声が明らかに、女性のものでは無かったからだ。

 顔を上げて目に飛び込んで来たのは、やはり白い薄物を涼やかにまとった、一人の男性の姿だった。暗がりの中、柱にもたれかかるようにして、こちらを窺っているのが分かる。

 あせびは混乱した。

 顧みるまでもなく、ここは、男子禁制のはずだ。例外となるのは、この桜花宮の男主である、若宮さま。あるいは、宗家の者で、大紫の御前に面会を許された者のみであると、滝本は言っていたのである。ここにいるという時点で、相当に身分が高い御仁であるに違いない。どうしたらよいものか、困って黙りこくっているうちに、男はさっさとこちらに近付いて来てしまった。

 窓に近付いたことで、男の顔が、なんとなくだが分かるようになった。

 尊く、秀でた面持ちをしているようである。はっきりとした光が当たったのは口元までだったが、女のような肌の色と、薄い色の形の良い唇は、高貴な生まれを思わせるに十分な、気品というものを持っていた。

「先程からとても良い琴の音が聞こえていたから、来てしまった」

 顔を見返せば、表情に乏しいながらも、どうやら笑ったらしいと分かった。

「とても上手だ」

 男の声は掠れて静かだったが、同時にとても柔らかかった。男の素性が知れない以上、邪険に対応することは出来なかったし、そうでなかったとしても、なんとなくこの人に対して冷たくするのは、はばかられるような気がした。

「お褒めにあずかり、嬉しいですわ」

 少しだけ声が上ずってしまったが、こぼれた微笑は本物だった。それに応えた男の笑みが、何故か頼りなげに見えたのが不思議だった。

「それで、あなたのようなひとが、どうしてこんな所に?」

 ここは、入る者の制限がされている宝物庫だが、と言われ、あせびは途端に青くなった。

「ほ、宝物庫だったのですか」

 藤波はそれを知っていて、あえて言わなかったに違いない。道理で、このような楽器があるわけだ。自分が無遠慮に触っていたこれも、宗家の宝の一つだったのだろう。申し訳ありません、と、あせびは悲鳴を上げるように床に伏した。

「あの、珍かな楽器があると聞いてつい……! 軽率でした、お許し下さい」

 いやいや、と、慌てたように男が手を振る。

「別に、咎め立てしようというのではないから。それどころか、久しぶりに良い音を聞かせてもらった」

 礼を言いたいくらいだと笑い混じりに言われ、体の奥から力が抜けるような安堵を覚えたあせびであった。だが、そんなあせびをどう思ったのか、男は困ったように言い添えた。

「しかし、ここに入ったことは、内緒にしておいた方がいいだろうね。最初に会ったのが私で良かった。滝本あたりに見つかったら、間違いなく問題になっていただろう」

 改めて自分のしでかしたことにぞっとしつつ、あせびは弱々しく、再度頭を下げた。

「本当に、申し訳ありません……」

「もういいから。でも、今の音を聞いて、正面に誰か来ているかもしれないね。おいで、こっちから出してあげよう」

 優しく手招きされ、あせびは震える足を𠮟咤して、男の後を追った。

「あなたは、春殿の方だろう?」

 双葉殿の女房か、とかれ、あせびは力なく首を振る。

「大変お恥ずかしいのですが……これでも、春殿の主なんです」

「何ですって?」

 驚いた風の男の様子に、あせびは情けなくなって俯いた。

「あの、どうにもならない事情がありまして、妹の私が代わりに来たのです」

 ああ、だから、と、男は合点がいったように呟いた。

「しかしそれでは、とんだ失礼をしてしまったな。お許し頂きたい」

 いえ、とあせびは口ごもる。失礼も何も、自分はまだこの男が、何者だか分かっていないのだ。むしろ自分こそ、失礼どころか無礼を働いているのではと気が気ではない。

 もごもごとそのような事を言うと、微かに男が狼狽するのが分かった。

「いや、私はそのような……恐縮されるような者ではない。その、金烏陛下の命令で、浮雲を取りに来た、ただの下男だ」

 ただの下男が、このように貴族然としているものだろうかと思いつつ、どうやら気を遣ってくれたらしいと分かった。素直に納得したふりをしつつ、うきぐも、というのは何かと尋ねた。男は一瞬逡巡した後、あの長琴のことだ、と教えてくれた。

「時々、朝廷での管弦の遊びで使われている」

「そうだったのですか」

 だから手入れをされていたのか、と思う。

 何気ないことを話しながら、男はいくつもの棚の間を歩いて行く。それから、壁と棚の間に隠れた、一見して扉と分からない、通用口のようなものを開けてくれた。屈まなければ入れない程に、扉は小さい。普通は使われることのない道なのだろう。

「ここから、藤花殿の廊に出られるはずだ。だが、いいかい。ここに来て私と会ったことは、決して、誰にも話してはいけないよ」

「分かりました。あの、色々とお世話になりました。本当にどうもありがとう」

 男が開けたままの状態で押さえてくれる扉を抜ける時、その袖口から、ふわりと良い香りがした。背後で扉を閉められたのを感じて、あせびは姿勢を立て直し、周囲を見回す。暗い所から急に明るい所に出たせいか、一瞬目が眩む。先ほど通ってきた廊下ではないようだったが、少し歩くと、見覚えのある中庭が目に入った。はあっと、ため息をつく。一気に緊張がほぐれた。だが廊下を進むうちに、だんだんと怖くなってきた。藤波が宝物庫を出て行ってから、随分と時間が経ってしまっていた。春殿の君が行方不明になったとうこぎが騒ぎ立てていたらどうしよう、藤波が誤魔化してくれていればいいのだが……。

「あせびの君!」

 突然叫ばれた自分の名に、あせびは驚いて顔を上げた。そんなあせびに体当たりするように抱きついて来た人物は、自分の顔馴染みではない女房であった。

「ああ、良かった、さんざん探し回ったのですよ! 藤波さまにすぐ呼んで来るように言われたのに、どこにもいらっしゃらないのですもの」

「待って、あなた、宗家の女房なの?」

 抱きついたままの体勢でまくしたてる女房に、あせびは困惑しつつも声を上げた。大きな声に我に返ったのか、その女房はぱっとあせびから飛び退った。

「ああ、申し訳ございません! 私ったらついホッとして」

 そう言ったのは、まだ若い、あせびとさほど変わらない年頃の女房だった。健康そうな肌に、うっすらとそばかすが浮いている。派手なところのない若苗色の衣を着込んでいて、実直そうな娘だとあせびは思った。

 早桃と名乗った彼女は、藤波がすぐに来るように言っている、と伝えてきた。

「なんでも、若宮さまがお近くに来ているのだそうで、花見台の下をお通りになるのだと」

「若宮さまが?」

 驚いて目を丸くしたあせびに何度も頷き、早桃は頬を紅潮させた。

「さ、お急ぎになってください! うこぎさまも探しておられたのですから」

 半ば早桃に引きずられるように藤花殿に戻ると、それに気付いたうこぎが、鬼のような顔をしてこちらに詰め寄って来た。

「姫さま。今まで、どこに行っていらしたのです!」

 どうやら藤波の言葉に誤魔化されて、あちこちを探し回っていたらしい。

「藤波さまが途中で別れたと仰るので、春殿まで見に行ったのですよ。それなのにいらっしゃらないから、御手水間から台盤所まで……」

 説教は帰ってからと言っていたから、背後からぶちぶちと聞こえる声は、あくまで独り言なのだろう。いくつかの渡殿を抜けると、桜の木が一望出来る透廊へと出た。未だ桜はつぼみの状態ではあるが、これが咲けば、さぞかし美しかろうと思われた。高欄に手をかけて下を見下ろせば、何やら舞台のようなものまで見えた。

「おう、こっちだあせび」

 威勢のいい声に顔を上げれば、回廊の先に、すっかりくつろいだ風情の浜木綿がいた。自分の着物を敷いた上に腰をおろし、瓢箪を片手に、赤い漆塗りの盃を楽しそうにあおっている。

「そこにいると、向こうから丸見えだぞ」

 さっさと来い、と言われてみれば、確かに彼女の前から向こうは、簾が掛けられていた。なんでも、花見の時は楽人や踊り手が舞台に上がるので、そこから見えないようにするための御簾を、下ろせるようになっているらしい。

「あっちにゃ白珠と真赭の奴もいるぞ」

 指差された先を見て、一瞬どきりとしたあせびだった。それを見た浜木綿は、やはりと人の悪い笑みを浮かべた。

「先に行われた秋殿の茶会で、早速いじめられたと見える」

 そんなんじゃありません、とあせびはやや拗ねたように言い返した。

「嘘をつけ。お前には、学が無かろうが華がある。あいつらが黙っているわけないだろう。実のところ、かなりの別嬪なんだ、自信を持てよ」

 完全に面白がっているその様子に、先程の一件が尾を引いているあせびは渋い顔をした。

「それは、真赭の薄さまの方でしょう? 私なんて、こんな、白茶けた髪ですし……」

 実を言えば、ここに来てからというもの、あせびは自分の容姿に気後れを感じていたのである。両親から頂いた体に文句を言うつもりは全く無いが、癖のない黒髪が美しいとされる宮中で、この髪は異質としか言いようがなかった。

 ところが、それを聞いた途端、浜木綿はげらげらと笑い始めた。

「お前の髪は白茶けた、とは言わん。香色と言うのだ。それに変わった髪色といえば、真赭の薄もそうだろうが。必ずしも、型に嵌った美人がいいとは限らん」

 西家のお株を奪う良い機会だ、と浜木綿はなお笑う。

「白珠がつんつんしているのだって、お前の美貌に妬いているからに決まっているだろう」

「は?」

 目を丸くしたあせびの顔を、浜木綿は上から覗き込むようにした。

「あの子は生まれた時から、若宮の正妻となるように吹きこまれて育ったんだ。人一倍、神経が過敏になるのも仕方ないだろうさ」

 だからなのか、とあせびはようやくそれに思い当った。

「嫉妬……されていたのでしょうか」

 あせびが全く思いつかなかった可能性を、浜木綿はいとも簡単に肯定してみせた。

「まず、間違いなくそうだろうね。アタシだって、あんたが恋敵だったら穏やかじゃなかったかもしれない」

 冗談めかして言うその様子は、まるで、若宮は自分の恋の相手ではないと、暗に言いきっているかのようだった。

 ま、あんまり深く考えすぎるな、と、ぽんと頭を叩かれる。その後すぐに酒を注がれて、やれ、飲めだの歌えだの騒がれたから、自覚するのに少し間があったが、あせびは自分の心が、確かに軽くなっていることに気が付いた。

 あれ、もしかしたら今、気を遣ってくれたのかしらと思った時、不意に回廊の奥から悲鳴が上がった。

「いらっしゃいました!」

「若宮さまですわ!」

 やっと来たか、と呟いた浜木綿を横目に、あせびも欄干に身を乗り出した。

 舞台の横手から、二、三人のお供と童を引き連れて、やって来る人影がある。黒衣をまとった護衛の中で、しゃんと張った肩に何気なく羽織られた薄紫が、やけにまばゆく感じられた。

「あれが……」

「若宮殿下だ。我らが親愛なる日嗣(ひつぎ)の御子(みこ)だよ」

 あんたのお眼鏡にかなったかい、とからかわれたが、あせびはそれに答えることが出来なかった。ここからだと、角度からして若宮の顔は良く見えない。だが、なぜだかあせびはその姿に、強烈な既視感を覚えたのだった。

 なぜだろう、同じ光景を、いつか見た気がする。

 自分は今まで、ろくろく外に出たことすら無かったのに。幼い頃、こっそり領境に花見へ出かけた、たったひとつの例外を除いて。

「あ」

 思わず、声が漏れた。それが聞こえたわけでもないだろうに、下にいた若宮が、ふと足を止めてこちらを見上げて来た。

 近い距離ではなかった。向こうから見えたのも、無機質な御簾に映る、影だけだったはずである。それなのに、何をそこに見出したのか、若宮が小さく笑ったように思えた。

 その瞬間、二人を遮る邪魔な御簾も他の者も、どこか遠くに行ってしまったかのような錯覚に陥った。

 辺りは一面、桜吹雪だった。

 桜の花はほんのりと色づいていて、見下ろし、見上げる二人の間に渦をまいていた。

 見慣れない、紫の衣が印象的で――でもそれ以上に、こちらに向けられた凜とした眼差しに、目が離せなくなってしまった。

 驚いて、感動して、泣きたくなるような衝撃に手が震えた。

 あの時、私はまだ十にも満たなかったというのに。

「――何だったんだ? 何か、気になるものでもあったのかね」

 その声に我に返った時、そこには桜吹雪も、こちらを見上げる者も存在してはいなかった。桜もつぼみのままであり、満開とは程遠い。女房達の興奮気味の声の中、不機嫌そうに下を見る浜木綿に、ここがどこで、自分が何をしているのかもはっきりと思い出した。

「あの、すみません、今、何かおっしゃいましたか?」

「若宮が、急に足を止めてこっちを見ただろう。供の者が困っていたのに、あいかわらず傍若無人な奴だな」

 浜木綿の冷やかさとは逆に、あせびの心臓は早鐘を打ち、顔も火照って仕方なかった。すでに若宮の一行は背を向けていたが、後ろ姿だけでも、胸が痛くなるには十分だった。

「浜木綿さま」

 やっとのことで出した声は、みっともなく震えていた。

「申し訳ないのですが、ちょっと、気分が悪くて……」

 先に戻ってもよろしいですか、とけば、いいぞ、と頓着無く頷かれた。

「酒気にでもあたったか?」

「いえ、横になっていれば、すぐ治りますので」

 大丈夫ですか、とうこぎに言われて、力なく頷いたあせびだった。春殿に戻ると、あせびはそのまま塗籠にひきこもり、誰にも顔を見られないようにしてしまった。

「若宮さまだった……」

 小さく呟けば、カッと顔に火がついたかのようだった。

 若宮さまだった。あの時の男の子は、若宮さまだったのだ。

「嘘みたい」

 でも、間違いないという確信があった。しっかり顔を確認するには遠すぎたが、それだけは絶対に確かだと思った。

 体の奥にともってしまった熱を持て余していると、塗籠の外から控え目な声がかかった。

「あせびさま。お身体の調子が悪いのですか?」

 その声の主に思い当ったあせびは、呆気にとられた。

「早桃? どうしてここにいるの?」

「浜木綿さまが、様子を見て来るようにと仰られましたので。うこぎさまは、薬湯の手配に出ていらっしゃるそうです」

 平気ですか、と尋ねる声は、本当に心配そうで、なんとなく泣きたくなった。うこぎも心配はしてくれるのだが、あせび本人の気持ちよりも、体の不調に気を張るきらいがあって、なんとなく休まらないのだった。

 塗籠から出て早桃に相対すると、早桃はびっくりしたようだった。

「何かあったのですか?」

 目が真っ赤です、と指摘されて、慌てて目元を拭った。

「なんでもないわ。それより、早桃と少しおしゃべりがしたいの。いいかしら」

 もちろんです、と言いつつも、早桃はあせびの申し出に面食らったような顔をしていた。

「早桃は宗家の女房なのよね?」

「本来はそうなのですが、今は夏殿の女房ということになっています。元は、藤波さまの女房ですけれど、登殿に合わせて、夏殿に配属されたのです」

「では、若宮さまにお目にかかったことはある?」

 ようやく合点がいったのか、安心したように早桃は首肯した。

「ありますよ。たまに、藤波さまに会いにいらっしゃいましたから」

 昔、体が弱かったとかで、若宮は幼少期を後宮で過ごしたのだという。

「だから、藤波さまとも仲がよろしくて、今でも時々お土産を持って来て下さいます」

「昔、体が弱かった、というのは?」

「はい。普通は上皇さまに預けられるのですが、それも出来ないくらいで」

 女屋敷に、かなり長い間いたのだという。そのうちに上皇も亡くなってしまったので、実質若宮の教育を任されたのは、母方の家である西家だったらしい。

「では、あまり他の所にはお行きにならなかったのかしら」

「そんなことはないと思いますよ」

 現に今は、外界に出て行かれることもあるくらいですからね、と、早桃は肩を竦めた。

「西家に行ってからは病状も落ち着かれて、あちこち見て回られていたようです」

 多分、東領の方にも行かれたと思いますよと言われて、あせびの顔は反射的に赤くなった。早桃はそれを見咎めて、もしかして、と声を小さくした。

「――あせびさまこそ、お会いになったことがあるのですか?」

 思わず口が滑ったのは、同じ年代である早桃を、どこかで気安く感じていたからだろう。何にしても、誰か、ひどく騒ぎ立てしない人に、話を聞いてもらいたかった。

「あのね、幼い頃、一度だけひとりで、屋敷を抜け出したことがあったの。桜の花が満開だと聞いていたのだけれど、春先の風がまだ冷たいからといって、うこぎが連れて行ってくれなかったのよ」

 うこぎの言葉を聞き分けないほど、我が強い子供ではなかった。むしろ物分かりが良いとよく褒められたあせびは、それでもやはり拗ねていたのだ。

「ある時、出入りしていた下男が、裏口を開けっ放しにしていたのを見つけてしまって。いつもだったらそのまま放っておいたのだけれど、そこから見えた桜が、あまりにも綺麗だったものだから」

 うこぎ達に見つからないように、そっと屋敷を出て、桜を見て回ったのだ。

 東領の領境は、険しい崖となっていた。もともとは流れのきつい川だったのが、どんどん水量が少なくなって、今は小川ほどになってしまったために生まれた地形だった。

 東領側の崖には、桜の木がいっぱいに生えていて、それはもう美しかった。

「私はもっとそれを見たくって、崖の所に近付いて行ったの。いきなり笑い声がしたのよ」

 視線を転じれば、向かいの崖下に小さな影がふたつ見えた。どうやら子どもらしいが、岩にしがみついて、元気に何か言っているのが聞こえた。そしてその片われは、見慣れない色を小脇に抱えていたのだ。

「紫のお着物をお持ちだったの」

 あせびがその意味に気付いたのは、恥ずかしながらついさっきだった。だが、早桃は即座に分かったようだった。

「それが、若宮殿下だったのですね」

「多分、間違いないと思うわ」

 あれほどに綺麗な少年を見たのは、生まれて初めてだった。十年近く経った今でも、それは変わらない。下男の連れて来る息子達とは、明らかに質が異なっていた。

「あの後、うこぎがやって来て私を怒ったものだから、すぐにいなくなってしまったのだけれど」

 どうにも、忘れられなかった。いつしか、桜が咲く度に、一種の習慣のように彼のことを思い出すようになっていた。あまりにも現実感のないその姿に、一時、自分の夢だったのでは、とさえ思ったこともあったのに。

「まさか、若宮さまだったなんて……」

 自然と、吐息に甘いものが混じった。早桃はあせびのその様子をじっと見つめたのち、そっと呟いた。

「若宮殿下のことが、お好きなのですね」

 途端に、カッと頬が熱くなったあせびである。はいともいいえとも答えられなかったが、早桃は察してくれたようだった。納得したような、または感心したような顔をして、次の瞬間には力強く頷いていた。

「分かりました。早桃は、あせびさまにご協力することにいたします」

 え、とあせびは思わず声を上げた。

「協力って、だって、あなたは夏殿の」

 言いかけたあせびを遮り、早桃は小さく首を横に振った。

「もとより、私は宗家の人間です。藤波さまには、自分に代わってあせびさまを主と思うようにと、あらかじめ言われております。浜木綿さまではなくて、です」

 早桃は渋い顔で続けた。

「それに、夏殿は少し、雰囲気がおかしいのです。藤波さまに言われなかったとしても、私は浜木綿さまにも夏殿の女房にも、好感は持てなかったと思います」

 その言い方に気になるものを感じて、あせびは聞き返した。

「雰囲気がおかしいって?」

「夏殿の女房と浜木綿さまは、お互いにお互いを無視しているみたいなのです」

 それには、思い当る節があった。確かに夏殿の女房は、総じて無口で無愛想な者が多い。南家から来た女房と元宗家付きの女房との間で、大きな溝があるのかもしれなかった。

「ですから、あせびさま。どうか、私を使って下さいませ。どんなことでもいたします」

 そう言った早桃の瞳の色は、限りなく真剣なものだった。

「こんな言い方は失礼になると分かっております。でも、私はあせびさまのお気持ちに、感動いたしました。浜木綿さまのおっしゃることを聞いておりましたから、余計にです」

 政治の道具としてではなく、純粋な恋として成就する入内があってもいいと早桃は言う。

「私の弟が、もうすぐ山内衆――宗家近衛隊の、養成所に入ります。そうしたら文で、若宮さまのご様子を聞くことが出来るでしょう。他にも宗家の女房として、お役に立てることがあるはずです」

 心の底からそう思ってくれているのだろう。あせびは、今までに感じたことのない親しみを早桃に覚えた。

「ありがとう。でも、入内とか、おおげさなことを考えないでいいのよ。ただ、私の相談に、時々付きあってくれないかしら」

 おおげさなこと、という言葉に一瞬反論しかけた早桃は、続けて言われたその言葉に顔を輝かせた。

「もちろんでございます。こんな私で良ければ」

「こんな、だなんて言わないで。私、同じ年頃の話し相手が、ずっと欲しかったのよ。あなたがいてくれて、本当に良かったと思う」

 友達みたいだわ、と呟けば、早桃は恐縮しつつも、嬉しそうな笑顔になった。

 上巳の節句が終わってすぐ、あせびは藤波から、あるものを下賜された。藤花殿に呼び出されたあせびの目の前に出されたのは、実に立派な長琴であった。あせびはその横っ腹に、見覚えのある模様を見つけて驚いた。

 そっと琴の側面をなぞれば、桜に霞――確かに、浮雲である。

 だがあの男は、浮雲はたまに朝廷の方で使われると言っていた。頂いて良いものなのだろうかと恐縮すると、藤波は遠慮しなくても良いのだと、上機嫌に言い切った。

「宗家の者が長琴を持っていても、仕方がありませんから。陛下にそう言ってお願いをしたら、快く了解してくれました」

 それを聞いて、あせびが喜んだのは言うまでもない。早速弾こうと春殿に運ばせたのだが、浮雲を見て、うこぎは仰天したようだった。彼女はしばらくの間何も言わず、魅入られたようにあせびの手元を凝視していた。

 相変わらず浮雲は美しく、音も濁らず、最高の状態を保っている。変なところはどこにもない。何をそんなに気にしているのだろうと思ったところで、うこぎはため息をついた。

「よもや、それと再びまみえる日が来ようとは、うこぎは思いもしませんでした」

 それは、私が以前仕えていた姫のものでございます、と、静かにうこぎは答えた。

「これが?」

「はい。わけあって、宗家のものになっていたのですが」

「その方は、とても良い趣味をしてらしたのね」

 私も気に入ったわ、大切に使わせて頂きましょう。

 あせびが屈託なく笑ってそう言うと、感慨深げだったというのに、うこぎはなぜだか泣きそうな顔になった。

 はい、かの姫さまも、さぞお喜びになることでしょう、と、うこぎは囁いた。

 浮雲の手入れをしているうちに、周囲は薄暗くなっていた。女童が鬼火灯籠に明りを入れようとしたが、落ち着きを取り戻したうこぎは、それを止めた。

「あせびさま。なぜ、桜花宮のお屋敷が、それぞれ春殿、夏殿、秋殿、冬殿、と呼ばれているか、ご存知ですか?」

 どこかいたずらっぽく言ったうこぎに、あせびは首を傾げた。

「さあ? でも、理由が無いなら、東殿、という名前でもいいはずね」

「その通りです。実際、はじめはそんな風に呼ばれていたようですが」

 うこぎはそこで一旦言葉を切り、ぱんぱん、と手を打ち鳴らした。

 それを受けた女房達が、一斉に立ち上がった。

「お屋敷は一つ一つ、歴代の姫君の趣向に従って、趣深く造り上げられてきました。結果、調度品から庭木――はては、お屋敷から見る風景まで、姫の思い通りになったのです」

「風景?」

「はい」

 言っているそばから、女房達は手早く御簾を巻き上げ、枢戸を片っ端から開けていった。

 月が出ているのだろう。

 扉が開かれたところから、春の夜気とともに青い光がなだれ込んできた。ぼんやりと、簀子の上に投げ出された影を眺めていたあせびは、視界の端を掠めた白い影に顔を上げた。

 花びらだった。

 言葉をなくして、あせびは高欄の方へと近寄った。外がとても明るい。これは、月が出ているせいだけじゃない。見渡して、何も言えなくなった。

 朧に浮かぶ月の光に照らし出されたのは、白く輝く、満開の桜の波だったのだ。

 目の届く限り、山の斜面を覆い尽くす桜の花。やわやわと吹き付ける風は、花の香りを濃厚に含んでいる。声が出ない。なんて美しいのだろう、と口にした途端、感動がすべて安っぽくなる気がした。どんな言葉を尽くそうと、それは同じことのように思えた。

「――東家の姫が、代々愛したもの。それは、桜でございました」

 おだやかな、うこぎの声が聞こえる。

「春の花を何よりも愛した姫が、何百年にもわたって、作り上げた景観でございます。春に最も美しくなる屋敷を、いつの間にか、誰もが春殿、と呼ぶようになっていたのです」

 美しいでしょう、と問われ、あせびは返事をしなかった。答えなんて分かりきっているからだ。無言で琴の前に座り、いとおしげにその表面を撫でる。爪を慣れた様子ではめてから、ゆったりとした動作で音を合わせ、静かにつま弾いた。

 ほろほろ、ほろほろ。

 優しく切ない琴の音は、淡い月の光に解けて、空へと上っていった。

 桜が咲いている。

 月が出ている。

 琴の音が、甘い水のように流れて。

 その光景は、その全てが一つで、一幅の絵のようだった。

 ああ……。

 ふと、あせびは気が付いた。

 だから、私はここにいるのね。

 双葉に、この琴は弾けない。だから、ここにいるのは、自分なのだ。これは偶然ではないと、あせびは悟った。

 ここが、私を呼んだのだ……。

 それまで、心のどこかで感じていたしこりが、ことりと落ちた気がした。

 ここにいていいのだと、桜の花が笑った。

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