『疑う力』(真山 仁)

「正しいを疑う」は、私の長年の座右の銘のひとつです。

 これは、小説を書く時にも、常に構想の骨格にあるとても大切なテーマです。小説ごとに扱うテーマは変わっても、「正しいを疑う」という視点を終始一貫持ち続けています。

 社会で常識とされていること、当たり前だと思われていることはたくさんありますが、本当にそうなのか。

 また、いろんな人が「自分は正しい」と主張しているが、その正しさは本物なのか、誰がそれを決めるのか。

 多くの人が「正しい」と決めたら、それにはもう異議をはさめないのか……。

 日本人の多くが、自分は「正しい」側に立ちたいと願い、常に周りを見渡し、立ち位置を確認しながら不安を抱いています。

 そしてその不安は、自分の「正しい」を他人に押し付けたり誰かの「正しい」を罵ったりする衝動へとつながっていく。

 その原因として、個人が入手する情報の量や質のばらつき、ますます巧妙になるフェイクニュースなどが考えられますが、とりわけ深刻だと私が感じているのは、“疑う力”が極度に弱くなっていることです。

 本書では、現代の日本社会が抱える諸問題を題材にした自由な議論を通じて「正しいを疑う」力を養っていきたいと思います。

人の数だけ「正しさ」がある

 正しさ同士が対決するというのはよくあることですが、日本人は、そんなことは、あってはならないと思っているふしがあります。だから、この国は多様性を受け入れるのが難しい。

 多様性というのは、いろんな立場の人それぞれが、「私はこれを正しいと信じている」という意見を持っていることです。

 つまり、人の数だけ“正しさ”がある──という意味です。

 ところが、日本は長い年月単一文化で、民族的にも単一とまでは言いませんが、島国ゆえに“mono(モノ=単一の)”社会が続いています。

 その中で、長く認められてきた“正しさ”に対して「それはおかしいんじゃないか」「いつまでそんなことをやっているんですか」という意見を持つ人たちを、同調圧力によって封じ込めがちでした。

 しかし、いつまでもそんなことを続けているわけにはいきません。

 グローバル化が叫ばれる今、 日本社会として多様性を認める方向に進む道を選ぶのであれば、「正しいを疑う」姿勢が必要です。

 すべてを否定的にとらえる必要はありませんが、自分の経験や知見を踏まえて「これって本当かなあ」と考える姿勢は常に持ってほしいと思います。

 猜疑心のかたまりになりましょうとまでは言いませんが、違和感を持つことを恐れないでほしい。

 なんにでも「ふむふむ」と納得しないで、自身の違和感に磨きをかけてもらいたいのです。

「自分事」として考える

 何かを学ぶ際に大事なのは、「自分事」にすることです。

 一般論として受け止めるのではなく「自分事」として考えると、引っ掛かりや違和感が生じる。それらを解決していくためには、分かったふりをしない姿勢がとても重要です。

 疑問を持ったら、質問する。

 分からないことは、分かるまで聞く。

 他者と議論する意義はここにあります。

 多くの人が、日常の中のいろんな場面で、何かしら引っ掛かりを感じている。

「このモヤモヤは何だろう」「みんなはそう言うけど、自分には違和感がある」というとき、その原因を見極めていくためには、何が分からないかを言葉にする必要があります。

 同時に、自分が読んだり聞いたりした話を自分の言葉に変換して他者に伝えるための努力も重要です。

 分からない点を明確に自覚し、その上で、「私はこう思う」と自分の言葉で相手に伝える。

 得た情報をそのまま鵜吞みにするのではなく、「ここは分かるけど、ここはよく分からない」「これは要するにこういうことが言いたいのだな」などと、「自分事」に落とし込んでいく。

 その上で、自分の言葉で発信し、伝えるというのは、実に難しいものです。

プロの記者たちでさえ「伝える」ことに悩んでいる

 コロナ禍の真っただ中の二〇二一年から現役の新聞記者などジャーナリストを対象とした「塾」を月に一度開いています。

 参加する記者たちの多くは三十代、一般的な取材なら一〇分もあれば話を聞いて記事を書ける優秀な人たちです。それでも彼らがこの塾に通うのは、悩みを抱えているからです。

「一歩踏み込んだ取材ができない」

「インパクトが足りない」

「記事が読者の心を捉え切れていない」

 それに対して私は、自分の言葉に翻訳して、取材ができているかと問い続けています。

 人の話をそのまま受け取るのではなく、「これはこういう意味だな」と「自分事」として理解しようと努めれば、分からないことがあったり話の矛盾に気付いたりした場合は、その場ですぐに質問できるはずです。

 たとえば、安全保障について専門家に取材しているときに、「台湾問題が深刻で、台湾をめぐってアメリカと中国が戦争をするかもしれない。日本もそれに巻き込まれるだろう」と言われたとします。

 そのときに「現状で日本と中国が戦争をするとは思えないのですが、どこかに具体的な兆しはありますか」と聞けるかどうか。

 あるいは、「私の周りには中国人と結婚している人も多いし、留学生もたくさんいる。日中の仲が悪いとは思えない」という率直な疑問をぶつけられるかどうか。

 それができるためには、生活や職業、経験に基づいた自分自身の価値観がきちんと確立されている必要があります。

 相手の話に寄っていくばかりだと、そういう質問はできないし、結局は相手の話を真に理解も納得もできません。

納得するために質問する

 プロの記者であっても、取材後にいざ書こうと思ってうまく書けないのは、自分が納得していないからです。

 大切なのは、納得するために質問を続ける姿勢です。

 良い記事を書くためには良い質問が必要ですが、良い質問をするためには「納得できているかどうか」を自分自身に問い続けなければなりません。

 できていないなら、できるまで聞く。

 これは、恥ずかしいことではなく、話をしている人に対する礼儀だと私は思います。

 それぞれに経験値も違えば、専門の領域も違う。すぐに理解できないのは当然です。

 ただし、議論の場においてはルールがあります。

 自己主張をして相手を言い負かすのが議論ではありません。なぜなら、議論とは意見交換を行い、各自の考えを理解した上で落としどころを模索するものだからです。

 他人の意見を聞いて、そういう考え方もあるのかと知る。それが多様性への第一歩です。その上で、「本当に、そうかな?」と考える。

 複数の人間が集まったときに、全員の意見が一致することはめったにありません。

「人を殺してはいけない」レベルの話であれば、ほぼ全員が合意するでしょうが、それでも「殺されるようなひどいことをした人なら殺されてもしょうがない」という意見があるかもしれません。

 人の意見を頭から否定するのではなく、「私はそうは思わないが、どうしてそういう考え方ができるのかが知りたい」と互いに尋ね合えると、議論が活発化します。

 この思考の流れこそが本書のテーマ、「正しいを疑う」です。本書では世間で議論されながらも答えを見つけにくいテーマを取り上げて、“正しい”という厄介な命題を解きほぐしていこうと思います。

「はじめに」より