人類学の視点から「発達障害」をとらえ直す。その先に見えた日本社会の奇妙さとは?
「発達障害の人に対し、当事者を十分に考慮せず仕事に就かせる支援が是だとされる。障害のある人への支援政策において『就労』が重視されすぎているのです」と語る照山絢子氏
発達障害本ブームというべき昨今。書店には関連書籍が山と積まれ、新刊も次々と出版されている。そんな中、フィールドワークを通したユニークな視点でこの問題に切り込んだのが『発達障害を人類学してみた』だ。
著者の照山絢子氏(筑波大学准教授)に、人類学の視点を通した発達障害のとらえ方について聞いた。
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――文化人類学者が発達障害をテーマとするとき、ほかの専門家と何が違うのでしょうか?
照山 発達障害だけにフォーカスするのではなく、それを通して日本社会を見るところが特徴だと思います。
――というと?
照山 日本社会がどういうものかが、発達障害を通して見えてくるんです。 発達障害はもちろん医学的な概念です。代表的なものとしては自閉スペクトラム症(ASD)、注意欠陥多動症(ADHD)、学習障害(LD)が挙げられるのですが、実はこれらの障害は目立ちやすい場合とそうでない場合があります。
例えば、無文字社会と呼ばれるような、読み書きがない社会や識字率が低い社会では学習障害であることは目立ちません。つまり、ある社会の期待があるから、それにうまく適応できないことが目立つという側面があるのです。そうすると、「日本社会は何を当たり前としているのか?」と考えることができます。
――日本社会が当たり前としていることとはなんでしょうか。
照山 いろいろありますが、就労している状態をひとつの目標と考える傾向はあると思います。これは発達障害だけではなく、身体障害や精神障害でも同じで、日本の障害者政策のベースになっています。
具体的には、就労支援を経て、どれほどの人が就労したか、どれくらい長い間就労していることができたかが重要な指標になっている。この背後には、数字で把握しやすい成果を求める日本社会の文化的な背景があるのではないでしょうか。
実際、障害のある人々が就労できないことで経済的損失がいくらなのかを計算したり、支援の経済的な効果を測って、結果を検証したりする考え方があります。
――日本以外はそうではないのでしょうか?
照山 アメリカの発達障害者支援団体にインタビューしたときに、そこで出会った当事者の方々の過ごし方を聞いてみたところ、絵を描いて過ごしたり、語学の勉強をしたり、散歩をしたり、料理をしたり。
経済的には障害年金で保障されていて、就労は重視されていませんでした。支援は「本人がどれだけ豊かに生きることができるか」を目指して行なわれていた。
もちろん、自治体によっても違いますし、その方の置かれていた環境でたまたまそれが可能であったのかもしれませんが、背景に大きな考え方の違いがありそうだと感じました。
――なるほど。
照山 それに対して、日本の場合はとにかく毎日行く所があって、そこで仕事をすることが目指されているという印象はあります。本人にとってやりがいのある仕事かどうかはともかく、まずは何か仕事をすることを良しとするようなところがある。
調査で出会ったある重い自閉スペクトラム症の方は、就労しているものの、帰宅後は消耗し切っていて、何もできなくなる。週末も疲れが抜けないまま、月曜日になるとまた仕事。でも、就労を継続できているという意味でこの方の支援は成功事例とされていました。
――子供に対しても同じなのでしょうか?
照山 教育現場での支援も、最終的には就労を見据えていると思います。もちろん現場としては「もっとクラスでお友達つくれたらいいね」とか「来年はもうちょっとこれができたらいいね」とか当事者の子供たちにもっと寄り添った支援が行なわれています。でも、どのような支援目標が掲げられているかを考えると見えてくるものもあります。
――裏を返せば、どんな子を普通の子供と考えているか、ってことでしょうか?
照山 そのとおりです。学校で期待されているのは、読み書き計算をしっかり習得できること。そして、空気を読んで本音と建前を使うことができること。
日本語は敬語があり、社会的な距離を表現する言語なので、本音と建前が使えるということは社会生活を送ることができるということでもあります。そして、授業中歩き回らずにじっとしていることができ、指示に従う従順さを持っていることです。
――なぜ読み書きやじっとしていることがそれほど大切なのでしょうか。
照山 ホワイトカラーの増加といった社会変化が関係しているかもしれません。こういったことができない子供たちが問題視されるのは、日本社会では読み書きができ、本音と建前を上手に使い分け、デスクワークができれば、有利に生きることができることの裏返しだと思います。
――直感的には、じっとしていられない子供なんかたくさんいそうですが、みんな発達障害とされるのでしょうか?
照山 発達障害は医師の診断によるので、じっとしていられない子供を全員発達障害とみなす、なんてことはありません。
ですが、印象深かった出来事もあります。調査中に、ある教師が、外国にルーツのある子供に対して「発達障害みたいな子はたくさんいるからね」とコメントしました。
日本の学校の場合だと、先生の話を聞かなければいけないタイミングがある。でも、ある外国にルーツのある子供は、そのタイミングで話し始めてしまう。ですが、その子が育った文化では普通の振る舞いだったりする。
単に文化の違いであるわけです。ただ、私が調査を始めたのは約20年前なので今ではまた状況も違うでしょう。
――研究を始めたときと比べて、発達障害を取り巻く状況はどのように変わりましたか?
照山 当初は発達障害という言葉がこれほどメジャーになるとは考えていませんでした。日本社会が変化していく中で、うまくなじまない人たち、居場所がない人たちがいて、そういった人たちの存在を可視化する言葉として定着したということだと思います。
サラリーマン社会の中でやっていけなくても生きていく道はあると思いますが、そう思えないほどの生きづらさが日本社会にあるのかもしれませんね。
●照山絢子(てるやま・じゅんこ)
1979年生まれ。慶應義塾大学文学部卒業後、シカゴ大学社会科学修士課程を経て、ミシガン大学人類学部博士。2022年より筑波大学図書館情報メディア系准教授。専門は文化人類学、医療人類学。日本における発達障害やゲーム依存などを中心的なテーマとしつつ、医学分野との協働にも積極的に取り組んでおり、最近では新型コロナウイルス感染症の診療にあたる総合診療医へのインタビュー調査などを実施している。共著に『障害のある先生たち』(生活書院)がある
■『発達障害を人類学してみた』
診断と治療社 2750円(税込)
発達障害について、支援者でも当事者でもない著者が、フィールドワークを通して診断基準の曖昧さ、発達障害のある子供の親を取り巻く状況、学校での現状、成人当事者の問題、そして当事者の交差するマイノリティ性に対して示唆を与える。筆者が2005年から2012年にかけて断続的に行なった調査を柱に記した博士論文がベースになっている。世にある書籍とはひと味違った、医療人類学という観点で発達障害をとらえ直す良書だ
取材・文/室越龍之介