犬山城(写真: RITSU/ PIXTA)

NHK大河ドラマ「どうする家康」の放送で注目を集める「徳川家康」。長きにわたる戦乱の世に終止符を打って江戸幕府を開いた家康が、いかにして「天下人」までのぼりつめたのか。また、どのようにして盤石な政治体制を築いたのか。家康を取り巻く重要人物たちとの関係性をひもときながら「人間・徳川家康」に迫る連載『なぜ天下人になれた?「人間・徳川家康」の実像』(毎週日曜日配信)の第35回は、家康が小牧・長久手の戦いで大勝利を収めた理由を解説する。

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秀吉と家康が激突することに

いつかは戦わなければならない相手になるだろう――。

織田信長を通じて邂逅した徳川家康と豊臣秀吉は、互いが力を持つにつれて、そんなふうに意識したことだろう。信長が「本能寺の変」で命を落としたことで、いよいよ、二人は激突することとなった。天正12(1584)年の「小牧・長久手の戦い」のことである。

秀吉からすれば、あとは家康さえ叩いてしまえば、という思いが強かったことだろう。

なにしろ、天正11(1583)年4月には、賤ヶ岳の戦いで、ともに信長を支えてきた柴田勝家を相手にして勝利している。勝家だけではなく、信長の3男である織田信孝も死に追いやった。勝家に荷担していた滝川一益も降伏し、もはや向かうところ敵なしである。

そうなると残るは、織田信長の次男にあたる信雄、そして家康をどう排除するか。それが、秀吉にとって目下の課題だったに違いない。

「屋形としてあがめて慕う」

「屋形(やかた)」とは当主のことで、秀吉が信雄について言ったとされる言葉である。信雄は尾張・伊勢・伊賀の三国を領有。幼い三法師の後見役にもなり、実質的に織田家の家督を継いでいた。

だが、秀吉の勢いが増すにつれて、信雄はないがしろにされていく。秀吉は摂津の池田恒興・元助父子を美濃に移し、自身は大阪城の築城にも着手。信長の安土城を上回る規模の城を築くのに躍起になり、天下人として振る舞い始める。

家康側につくことを決意した信雄

われこそが信長の後継者と言わんばかりに、諸大名に書状を出す秀吉に対して、信雄は「そう来るのならば」と、家康側につくことを決意している。

『三河物語』では、信雄は秀吉に切腹させられそうになり、「家康にたのもう」と徳川勢のほうに近づいていく。家康はこんなふうに答えたという。

「本所を関白殿がもりたてようとおっしゃったので、世は戦いもなくなり静かになるかと思っていたのに、本所に腹を切らせるとおっしゃっていると聞く。ぜひともお助けいたそう」

本所は「領主」の意味で信雄のこと、「関白殿」はのちに関白となる秀吉のことである。秀吉が信雄をバックアップするというので、戦の世がなくなり安心かと思っていたら……と、苦言を呈しているのだ。

新たな領国の経営に注力していた家康も要請を受けて、秀吉を叩く好機と腹を決めている。「ぜひともお助けいたそう」と信雄を担いで、秀吉に対抗することとなった。

天正12(1584)年3月6日、信雄は秀吉と親しい岡田重孝、浅井長時、 津川義冬の三家老を誅殺。それに呼応して、家康は翌日の7日に浜松を発ち、8日に岡崎城を出た。13日には清州城で信雄と協議すると、尾張国小牧山城に本陣を置いている。

秀吉はといえば、大阪城を出発して3月10日には上洛。秀吉軍が伊賀を攻略する一方で、秀吉方に味方した池田恒興と森長可らは3月13日に犬山城をたった1日で落としている。

池田恒興は織田家の重臣だっただけに、信雄のショックは大きかったに違いない。そうでなくても、総兵力は徳川と織田の連合軍が2万人に対して、秀吉軍は10万だったともされている。

圧倒的に秀吉軍が有利ななかでも、家康が決戦に臨んだのは、同盟を結んでいる北条氏政と氏直はもちろん、まだ秀吉の手に落ちていない長宗我部元親や紀州の雑賀衆や根来衆、そして越中の佐々成政などが「秀吉の好きにはさせまい」と集結すれば、十分に勝機があったからにほかならない。

つまり、家康からすれば、序盤戦での勢いを対外的に見せつける必要があった。それにもかかわらず、犬山城が1日で落とされたことは痛手だったが、ここでも家康は優秀な家臣たちに救われることになる。

酒井忠次の勝利が突破口に

3月17日、徳川方の酒井忠次と奥平信昌らが、羽黒に陣を進めてきた池田恒興やその娘婿の森長可らを迎え撃ち、これに見事に勝利したのである。

苦しいなかで、見えた光ほど輝かしいものはない。家康はこの好機を逃さずに、攻めに転じている。そう、家康が得意とした「筆」による攻撃である。

忠次の勝利から2日後の19日、家康は美濃国の脇田城主である吉村又吉郎(氏吉)に書状を出している。吉村又吉郎のほうからアプローチがあったらしい。信雄への忠節を条件に、氏吉の身上を保証することを伝えている。

21日には、家康と信雄との連署状というかたちで、紀州の保田花王院と寒川行兼に書状を出して、協力を要請。「ともに秀吉を背後から討つべし」と呼びかけている。

その際に「羽柴が自分のほしいままに振舞うことについて、成敗を加えるため」としっかりと目的を明示しているところに、家康の「大義は自分にある」という強い思いを感じる。

家康からすれば、信雄に「なんとかしてくれ」と懇願されての出兵だ。私利私欲で台頭する秀吉と自分とではまったく違う。そうアピールすることで、反秀吉勢力の結集をはかったのだろう。

25日に下野皆川城主の皆川広照におくった書状になると、かなり筆も乗ってきたらしい。羽黒での戦いの勝利の報告も、臨場感あふれるものになっている。

「羽柴が日頃からあまりに不義を働くことについて、信雄と私たちで話し合い、去る13日には、尾張の清州城に出馬。同17日、尾濃の羽黒と呼ばれる場所で、池田紀伊守、森武蔵守がたてこもるところに押し寄せて、即時に崩して、1000人あまりを討ち取った」

戦況報告のところの文は「押しよせ、即時に乗崩し、千余人討捕り候」となんだかリズムも小気味よい。

さらに家康は「畿内・紀州・西国・中国とも提携して、まもなく上洛するから安心してほしい」とも書いている。家康の書状は「相手にどんな行動をとって、どんな心持ちでいてほしいのか」が明確である。書状をもらった相手も、頼もしく思ったに違いない。

ちなみに、秀吉が働いた不義というのは、信長の死後、織田家をないがしろにして勝手に振舞っているということにほかならない。のちに家康も、秀吉の死後、豊臣家をないがしろにして、石田三成から同様の怒りを買うことを思うと、なかなか趣深い文面である。

家康は勝利を各方面にアピール

こうして最初につかんだ勝利を各方面にアピールすることに、余念がなかった家康。だが、この時点では、依然として秀吉方が圧倒的に有利であることに変わりない。海千山千の秀吉は、この程度ではびくともしなかっただろう。

だが、秀吉がいくら冷静でも、戦は個人戦ではなく、チーム戦だ。にわかに勢いづく家康勢をみて、焦ったのは緒戦で不覚をとってしまった、森長可と池田恒興である。実は敗れた「羽黒の陣」、は秀吉の着陣を待たずに勝手に手出ししたものともいわれている。なんとかして活躍して、失敗を取り返さなければならない。池田恒興は「家康を小牧山にしばりつけておき、徳川の本国三河を衝くべし」という策を秀吉に献じている。

実は、この作戦に秀吉は乗り気ではなかったらしい。それでも、秀吉の甥である三好秀次が総大将として、三河に乗り込むことを望んだのか、作戦を決行している。秀吉もまた、池田恒興や森長可らに挽回の機会を与えたいと思ったのかもしれない。

秀吉は直感に従わなかったことを後悔

しかし、秀吉は、最初の直感に従わなかったことを後悔することになる。作戦を事前に察知した家康は4500の兵を先発させながら、自身も信雄とともに、9000の兵を率いて、三好軍を追撃。「長久手の戦い」において、敵将の池田恒興と池田元助の親子、そして、森長可らを見事に討ち取ることに成功する。

家臣が拾った貴重な勝ち星を、手紙力で拡散させた家康。緒戦での小さな勝利を、大きな勝利につなげることとなった。


【参考文献】
大久保彦左衛門、小林賢章訳『現代語訳 三河物語』(ちくま学芸文庫)
大石学、小宮山敏和、野口朋隆、佐藤宏之編『家康公伝〈1〉〜〈5〉現代語訳徳川実紀』(吉川弘文館)
宇野鎭夫訳『松平氏由緒書 : 松平太郎左衛門家口伝』(松平親氏公顕彰会)
平野明夫『三河 松平一族』(新人物往来社)
所理喜夫『徳川将軍権力の構造』(吉川弘文館)
本多隆成『定本 徳川家康』(吉川弘文館)
笠谷和比古『徳川家康 われ一人腹を切て、万民を助くべし』 (ミネルヴァ書房)
平山優『新説 家康と三方原合戦』 (NHK出版新書)
河合敦『徳川家康と9つの危機』 (PHP新書)
二木謙一『徳川家康』(ちくま新書)
日本史史料研究会監修、平野明夫編『家康研究の最前線』(歴史新書y)
菊地浩之『徳川家臣団の謎』(角川選書)
太田牛一、中川太古訳『現代語訳 信長公記』(新人物文庫)
野田浩子『井伊家 彦根藩』(吉川弘文館)

(真山 知幸 : 著述家)