2023年6月、ロシアの民間軍事会社ワグネルの創設者プリゴジン氏(関連会社コンコルドが通信アプリに投稿した動画より)。ワグネルのような戦争請負会社が、世界の紛争・戦争の中心になりつつある(写真・AFP=時事)

2023年7月末、アフリカのニジェールでクーデタが起こった。その背後に、エフゲニー・プリゴジンが経営するロシア・サンクトペテルブルクに本社のある戦争請負企業(PMF=Private Military Firm)、ワグネル・グループが存在するという噂がある。

ワグネル・グループといえば、つい6月にプーチン政権と衝突し、ロシアを内乱へと誘うのではないかとも言われていた。ロシア政府との金銭的トラブル、正規軍との連携のトラブルが、プリゴジンの怒りを生み出し、衝突へと発展したのだ。

この話は、ウクライナ戦争で活躍するPMFの存在を世界に公然と知らしめた。実際、現在、戦争を遂行する軍隊の多くはPMFであり、いまや国家の正規軍ではなくなりつつある。

戦争の主体となりつつあるPMF

ウクライナ戦争は、NATO(北大西洋条約機構)とBRICs(ブラジル、ロシア、インド、中国)との代理戦争であるといわれるが、それ以上にそれを請け負う、国境を越えたPMFの企業相互の代理戦争ともいえるのだ。

イギリスの作家フレデリック・フォーサイス(1938年〜)の小説に『戦争の犬たち』(1974年)という小説がある。これは、アフリカで新政権を転覆する外国人傭兵の話である。

1970年代には、さまざまな傭兵がアフリカでは活躍していた。ある国でクーデタが起こると、西側勢力は危険な軍事政権と騒ぎ立て、そこに退役軍人で構成された外国人部隊を送り込み、政権を転覆するのである。

植民地独立後のアフリカ諸国の多くは、西側勢力が打ち立てた傀儡政権であった。傀儡政権は、都合よくダイヤモンドや金、石油などの貴重な資源を安く提供してくれた。当然それを阻む勢力が出現する。それは多くの場合、当該国の正規軍人によって組織された軍事組織である。彼らはクーデタにより政権を奪取する。

西側諸国は、アフリカ諸国にきちんとした正規軍をつくらせてはいなかった。それは傀儡政権のなかの正規軍がいつ西側に反抗するかわからないからである。だからこそ、高度な訓練を受けた特殊部隊をもつ傭兵企業を使って、一気に軍事政権を潰すことができたのである。

1978年に公開された「ワイルド・ギース」という映画は、アフリカの独裁政権を倒す傭兵の話だが、傭兵の一撃で崩壊するほど、アフリカ諸国の正規軍の力は弱いものであった。

西側に敵対的な政権は、すべからく独裁政権であり残虐非道であるというイメージは、ある意味西側諸国のプロパガンダに近いものであった。アジアの野蛮、インドの野蛮、アフリカの野蛮といった具合に、そうした政権にレッテルを貼るのだが、少なくとも西側にいる限り、そうしたレッテルは至極まっとうなものに見える(もちろん植民地時代に行った西欧による野蛮の数々は完全に忘却されている)。

これによって、傭兵部隊や軍事請負会社が、アフリカで人権と文明を守るために「残酷」に活躍できる正当な根拠にもなるのである。しかし、こうしたレッテルは、貴重な資源を守るという経済的必要性によって生まれたものであることも、忘れてはなるまい。

軍事請負会社はどのように生まれたか

傭兵や軍事請負会社という制度は、今に始まったものではない。むしろ正規軍、すなわち国軍のほうが新しいのである。戦後生まれの私は徴兵を受けることのなかった世代であるが、私の父は徴兵を受け、中国戦線に赴いた。

とはいえ、私の海外の同世代の知り合いの中には徴兵で兵隊になったものが多くいる。今でこそ徴兵制度は日本以外でも減りつつあるが、まだまだ多くの国で徴兵制度は続いている。とりわけ冷戦構造が崩壊し、西側諸国が世界を支配して以降、もはや軍事に国税を注ぐ必要がなくなったことが徴兵制度廃止の理由である。徴兵のみならず、軍事予算も削られ始めた。

しかしその一方で、軍事の民営化が進んでいった。グローバリゼーションという市場原理は、国家の独占領域であった軍事部門にまで及び、今ではどの国も、私企業の力を借りないと戦争を遂行できなくなっている。

そもそも戦争と資本主義との関係だが、戦争経済学という分野すらある。戦争と収益性の問題を扱う学問である。ドイツの経済学者・社会学者であるヴェルナー・ゾンバルト(1863〜1941年)が『戦争と資本主義』(1913年)の中で述べているように、植民地からの収奪の問題が絡んでいる。

不謹慎だが、歴史的に見て、手っ取り早く金を稼ぐには、他人のものを奪うにしくはないのだ。今も多くのアフリカの国々は、実質的にイギリスとフランスの支配下にある。そのためイギリスやフランスは、アメリカのように軍事基地をアフリカに数多くもっている。

もちろん国家単位で戦争に加担することは、侵略という国際問題に発展するので簡単ではない。そこで傭兵や私企業による戦争支援という手段が増えるのだ。

19世紀に軍事制度が国家の独占になる前、西欧では傭兵や私企業が多く使われていた。19世紀のマルクスは肺結核で徴兵免除になっているが、18世紀のヘーゲルやカントは、徴兵を受けたか。その答えはノーである。

それは、ヨーロッパで徴兵制が普及したのは、19世紀初めのフランスのナポレオンによる徴兵制の採用以降のことだからだ。ナポレオン以降、徴兵による国軍の力が増大し、傭兵や民兵といったものは次第に廃れていく。

アダム・スミス(1723〜1790年)の「夜警国家論」(国家は夜警だけでよく、積極的に国民の仕事に介入しないという理論)ではないが、18世紀まで国家は軍にしろ、警察にしろ、道路建設にしろ、それほど積極的に取り組んでいたわけではない。おおかた民兵組織や民間警察組織が活躍していた。今のようなパスポートや出生届けというのも、おおかた19世紀になって生まれたものである。

もちろんその時代が、のどかであったわけではない。インドのイギリス傭兵セポイのように傭兵を雇うか、東インド会社のように企業が自ら兵隊を持つかして、軍事的問題を解決していたのだ。そのほうが当時の絶対王政国家も安上がりであったのである。

肝心な徴税ですら、地方の豪族や時には盗賊に請け負わせ、彼らを徴税官に任命していた。もちろん、時に彼らがお金をネコババしたり、反乱を起こしたりしたので、つねに注意しておかねばならなかったのである。

私企業としての軍

16世紀にイタリアのニッコロ・マキアヴェリ(1469〜1527年)は『君主論』の中で、こう述べている。

「傭兵軍と外国からの援軍は役に立たず危険である。傭兵軍に国家の基礎を置くなら、その者は決して堅固でも安全でもないであろう。なぜなら、そのような武力はまとまりがなく、野心にあふれ、規律を欠き、信頼が置けず、味方の中では勇敢だが敵の前では臆病だからである。そして神を恐れず、人に対しては信義を守らない」(『君主論』森川辰文訳、光文社古典新訳文庫、12章)。

まさに前述したロシアのワグネル・グループのプリゴジンの例を引くまでもなく、傭兵という味方は時に敵になることがあった。とりわけ20世紀資本主義の産業として戦争請負会社が登場してくると、地獄の沙汰も金次第という現象が起こる。

ピーター・ウォーレン・シンガーの『戦争請負会社』(2003年)という作品は、この問題に関する先駆的作品である。彼によると、戦争請負会社が出現しはじめたのは冷戦終結以後だという。1995年のシエラレオネ紛争、そして1991年ごろから2001年まで続いたユーゴ紛争の頃からだったという。

ではそれらの企業は何を行うのか。直接戦争に従事するだけではなく、もっと広く戦争に関係する業務を行うのだ。シンガーはこう述べている。

「こうした会社は、民営軍事請負企業(PMF=Privatized Military Firm)と呼ばれる新しいものである。戦争と深く関連する専門的業務を売る営利組織である。軍事技能の提供を専門とする法人で、それには、戦闘作戦、戦略計画、情報収集、危険評価、作戦支援、教練、習熟した技能が含まれている」(『戦争請負会社』山崎淳訳、NHK出版、34ページ)

軍事に関するよろず屋というわけだが、資本に国籍がないように、こうした企業の成員に決まった国籍はない。世界中の選りすぐりの軍事専門家が集められている。それは、新しい産業とも呼べるものかもしれない。民営化によって民間に委託されない最後の砦ともいわれていた軍事部門が民営化することで、新たな現象が起こってきたともいえる。

PMFを国家が統制できるのか

なるほど近代の戦争は徹底的に情報戦と技術戦になっている。兵士と兵士が向き合う戦争よりも、情報と技術により相手をミサイルやドローンで殲滅するピンポイントの攻撃である。ウクライナ戦争を見ても、ピンポイントで狙ってくる攻撃は、特殊な技術をもった専門家によるところが多い。こうした技術や情報は、国家ではなく民間会社のほうが得意である。

経済効率や最新の軍事技術の導入という点で収益性の高い軍の民営化だが、心配なことはPMFを統制する国家の役割が減少することである。戦前のような軍の暴走をチェックすることが可能なのかどうか。それは、文民統制の問題である。もっといえば、私企業である以上、利潤を上げることが最重要課題である。そうすると、つねにPMFは、受け取る金額を増大させるために、戦争あるいは戦争の危機を国民にあおり続けなければならないという危険性がつきまとうのである。

金の切れ目が縁の切れ目ということば通り、それまで味方であったPMFが敵国にねがえることもありうる。金を惜しんではいけないのだ。企業は利潤拡大のために必死に努力するとすれば、現代社会では戦争の危機があおられ続けることになり、隣国への疑心暗鬼の中、無駄ともいえる予算をこれらの企業に注ぎ続けなければならなくなっているともいえる。

皮肉なことだが、アルジェリアの独立運動で指導的役割を果たし、夭折したフランツ・ファノン(1925〜1961年)が『地に呪われたる者』(1961)という作品の中で述べていたことが思い出される。それは、軍を民兵組織にしない国は、軍部によって裏切られるか、外国の介入によって崩壊するしかないという言葉だ。もちろん民兵とは私企業のことではない。すべての人々が、1人ひとり軍務につくことである。

もちろん、今のわれわれに必要なことは、軍人としての民兵になることではない。国軍の拡大、PMFの拡大によって、国家を無駄な危険と無駄な出費にさらさせないように、つねに彼らの行動を監視するウォッチャーとしての民兵になることである。それのみでしか、いまや文民統制など不可能な危険な時代に入ったともいえるのだ。

(的場 昭弘 : 哲学者、経済学者)