岡崎城(写真:マッケンゴー / PIXTA)

今年の大河ドラマ『どうする家康』は、徳川家康が主人公。主役を松本潤さんが務めている。今回は豊臣秀吉が家康と和睦した背景を解説する。

天正13年(1585)11月13日、徳川家康の重臣・石川数正(岡崎城代)は妻子と共に出奔し、豊臣秀吉のもとに身を寄せた。これは前月28日に家康が諸将を浜松城に集めて話し合った結果、秀吉に対して新たな人質は出さないと決めたことに一因があった。

家康を征伐しようと思った矢先に…

家康は秀吉のもとに、すでに次男の於義伊(後の結城秀康)を人質として差し出している。だが「佐々成政と家康が手を組んで秀吉に対抗する」との噂が立ったことで、秀吉の疑いをはらし、従う意向を見せるために、新たな人質を出す案が浮上したのだ。

秀吉に人質を出すべきという「融和論」の数正は、「強硬論」が座を占める徳川家中で孤立していた。そのような中での人質を出さないという決定は、数正の今後の政治生命を断ちうるものだった。数正は徳川家を出て、秀吉のもとに奔り、活路を見いだしたのである。

徳川の人質差し出し拒否を受けて、秀吉は、来春(1586年2月)には出陣する意向を示していたが、思わぬ天災によって、目論みは潰える。その天災とは地震である。

天正13年(1585)11月29日の夜、近畿から東海・北陸を強い地震が襲ったのだ。天正地震と呼ばれるこの地震の規模は、マグニチュード7.9あるいは8.0とされ、畿内では建物が倒壊し、多数の死者が出た。

この地震で秀吉は出陣を延期したばかりか、武力衝突に発展させずに、家康を懐柔する作戦に切り替えた(家康の領国は被害をそれほど受けなかった)。

家康と秀吉を仲介する役割を担ったのが、秀吉方についていた織田信雄(織田信長の次男)であった。

天正14年(1586)1月27日、家康と信雄は岡崎で話し合い、家康は秀吉に和睦を請うことになる。

信濃国衆(例えば小笠原貞慶)の徳川からの離反、重臣・石川数正の出奔。そこに秀吉による討伐を受ければ、いずれはジリジリと負けていくことを、家康はよく見通していた。それゆえ、秀吉との和睦に舵を切ったのだ。

天正14年(1586)4月中旬、秀吉は妹・朝日姫を家康のもとに嫁がせることを決める(これにより、秀吉と家康は義兄弟の関係になるのである)。

ちなみに、秀吉は信州の真田昌幸らに「家康が人質を出し、『如何様にも秀吉の仰せに任せる』と願ったので赦免した」と伝えたようだが、それは秀吉が大げさに話していただけのようだ。実際には先に述べたように、秀吉は実の妹・朝日姫を家康の正室として嫁がせているし、甲斐国・信濃国の支配は家康の裁量に任せられることになった。

突如怒り出した秀吉に、とまどう家康

さて家康は、朝日姫に嫁いでもらった御礼のため、家臣の天野康景を秀吉のもとに遣わした。

すると、秀吉が突如、怒り出したのだ。「儂(わし)の知らない家臣を派遣したな」という理由であった。

さらに「(家康の側近である)酒井忠次か、本多忠勝か、榊原康政のいずれかを派遣せよ」との要求もしてきたのだ。4月下旬に予定されていた朝日姫の輿入れも延期させてしまう。

無茶な怒りようであるが、家康も秀吉方がいろいろとやかましいことを言うので、手切れにしようと考えていたようだ。

そこにまたしても、織田信雄の仲介がやってきた。信雄の使者で重臣の土方雄良が「ここで秀吉と手切れしては、両者の仲をとり持った主君・信雄は面子を失ってしまう」と秀吉の言に従えと説得するのであった。

家康は信雄の説得に応じ、4月23日、本多忠勝を秀吉のもとに遣わした。これにより、朝日姫は無事に翌月14日に家康のもとに輿入れすることになった。

今回、秀吉はなぜ急に「自分の知らない家臣を遣わしたな」と徳川に怒ったのか。それは、たんなるわがままではなく、無理難題に家康がどう対応するかを見るためではなかったか。

このくらいの無理難題で家康が手切れを望み、それを実行するなら、やはり征伐してしまおうと秀吉は考えていた可能性もあるだろう。しかし、家康がぐっと我慢したことで、そうした事態は避けることができた。

さて秀吉は、家康に臣従の証しとしての上洛を求めてきた(9月24日)。それに対して家康は、秀吉に上洛中の自身の身の安全を保証するよう要求した。

もし家康が上洛しなければ、秀吉に従う気がないとみなされ、断交することになる。一方で上洛したとしても、秀吉が態度を急に変えて切腹を命じられることになるかもしれない、との懸念も残っていた。

秀吉は、上洛要請になかなか応じようとしない家康に、大政所(秀吉の生母)を三河に下向させることを伝える。家康に何かあった場合は、大政所は殺されることになるため、人質であるといえよう。

10月18日、大政所は三河岡崎城に入った。それを確認した家康はついに岡崎を立ち、京に向かうのである。

『三河物語』によると、上洛前に、酒井忠次が「上洛はおやめください。道理に合いません。考え直してください」と家康に迫ったようだ。

自分1人が死ぬことで、万民を助けることになる

忠次だけではなく、ほかの家臣も「秀吉と断交になるのを避けるために、上洛するのは納得いきません。考え直してください」と口々に家康に言上したという。

それに対し、家康は次のように述べた。

「皆、なぜそのようなことを言うか。私1人、腹を切って万民を助けるのだ。私が上洛しなければ断交となる。秀吉方が100万の軍勢で押し寄せてきても、打ち破ってみせるが、戦というのはそういうものではない。私1人の決断で、民百姓や諸侍たちを山野に野垂れ死にさせるならば、その亡霊の祟りのほうが恐ろしい。私1人が腹を切って多くの人の命を助ける。お前たちも、いろいろ言わず、(家康が上洛しなかったことを家臣も)謝罪し、多くの人命を助けよ」と語ったのだ。

家康のこの言葉に、上洛に反対していた家臣たちも「ごもっともにございます。そのお考えなら、上洛してください」と従う。家臣の返答に家康は「さすが、重臣の返事じゃ」と満足気であった。

同書には家康が、秀吉が母・大政所を岡崎まで人質として遣わせたことについて「そこまでには及びませんでしたのに、有難い」と言ったと記されている。

徳川家臣たちは、大政所の三河来訪を人質がきたと安心し、喜んだという。これで主君の身の安全が保証されたと思ったのだ。

だが、家康は気を抜いていなかったようで「もし私が腹を切ったら、大政所に腹を切らせよ。女房は助けて帰せ。『家康は女房を殺して腹を切った』と言われたなら、世間の聞こえもよくない。後々までの悪評となろうから、そのようなときは大政所を殺すのだ。女房に手を出してはならぬ」と井伊直政と大久保忠世に伝言したという。

家康が切腹していたら、どうなっていたのか

前述の家康の「私1人、腹を切って」という言葉は、断腸の想いで上洛し、秀吉に完全臣従するという意味合いではなく、場合によっては、秀吉から急に切腹を命じられて死ぬことも覚悟してのものだったのだ。

それは、自分1人が切腹すれば戦は回避され、民衆や諸侍が大きな苦しみを味わうことはないだろう、との家康の指導者としての覚悟であり矜持の吐露であった。

しかし、もし家康が上洛し切腹を命じられていたら、どうなっていただろう。三河武士は憤激し、大政所を殺す。秀吉もまたそれを怒り、結局は家康の想いも虚しく、戦になったのではないだろうか。

(濱田 浩一郎 : 歴史学者、作家、評論家)