2022年1月、武道館でのワンマンライブは初めて都庁でストリートピアノを演奏してから947日目に実現した。現在も「ハラミちゃん47都道府県ピアノツアー〜特急ハラミ号、出発進行だぬ!〜」の真っ最中で、来年の東京ファイナルまで5万人を動員予定だという(写真提供:harami_piano)

楽しそうにピアノを弾いている姿が印象的な、ポップスピアニストのハラミちゃん。今やYouTubeのチャンネル登録者数は216万人、総再生回数は約6億5000万回を誇るが、一躍注目されたのは、2019年6月、ストリートピアノでの演奏動画がきっかけだった。その時点で、ハラミちゃんはIT企業の会社員、しかも休職中。

『脱会社員の選択』第12回は、現在、47都道府県すべてを巡るツアー真っ最中、2024年1月13日には東京ガーデンシアターでのFINAL公演が決定したハラミちゃん、その軌跡を追う。

【2023年8月22日9時30分追記】初出時、公演日程について間違いがありましたので上記のように修正しました。

小1で運命づけられたピアノの道

4歳のとき、先に習っていた兄を追いかけるように、通い始めたピアノ教室。早くから先生に見込まれたのか、小1にして音大受験用のテキストを渡されたほど、熱心に育ててもらった記憶がある。

音大に入ってピアニストになる、という夢が形づくられたこともあり、子ども時代は学校とピアノばかりの日々。土曜日は午後2時から10時までレッスン、平日のうち1日は電車で1時間をかけて別の先生のもとへも通った。

予定がない休日も家でずっと練習していたため、学校以外で友達と遊ぶ時間や、漫画を読んだり、映画を見たりすることは、ほとんどなかった。

両親は音楽家ではなく、共働きの会社員。どちらかと言えば、ピアニストになるより、安定した仕事に就いてほしいと考えていたらしい。一方、同居していた祖父は彫刻家、祖母は書道家で芸術に理解があり、父も「芸は身を助ける」という格言を大事にしていた。

そのため、娘がやりたいことならば、とグランドピアノを購入したり、上達する方法を考えてくれたり、最大限のサポートを惜しまなかった。


幼いころのハラミちゃん(右)と母。両親は音楽家ではなかったが、娘の夢を応援し、全力でサポートしてくれた(写真提供:harami_piano)

ストイックに練習する一方、ピアノで人を笑わせたい、喜んでもらいたい、という気持ちは小学生のころから強くあった。「自分でも謎なんですけれど、真面目にピアノを弾く前に、何か一芸をやらなければ気が済まないタイプで」、よく変顔や、ひょうきんなことをしながらピアノに向かっていた。憧れは、ピアノの弾き語りモノマネで知られるタレントの清水ミチコさん。

「学校で、アンパンマンやドラえもんのテーマ曲をマイナー調にアレンジして、悲しいバージョンとか、敵に負けそうなときバージョンで演奏すると、みんな面白そうに笑ってくれました。ピアノで人を喜ばせられるんだ、と分かって、うれしかったです」

夢はあっけなく絶たれた

高2のとき、第1志望の音大を受験するため、その道で有名な先生からレッスンを受けられることになった。だが、初めてのレッスンで1曲、聴いてもらったところ、その志望校は無理だと、あっさり言われてしまう。

続けざまに将来の夢を問われたが、タイミング的に、とても「ピアニスト」とは言えず、それまであまり考えたことがなかった、「音楽の先生」と、とっさに答えてしまった。

それを聞いた先生は、教員になるならこの大学、と進路を提示した。憧れの大学へ入り、ピアニストを目指す、という幼いころからの夢は、あっけなく絶たれてしまった。

「現実を突きつけられて、もちろんショックでしたし、十数年、積み上げてきたものがなくなっちゃう気がして、なかなか受け入れられませんでした。でも、いまさら音大以外へ行く道も考えられなくて」

結局、先生の厳しいレッスンを続け、勧められた通りの音大に合格した。

自分は世間知らずだという自覚があり、大学に入学してすぐ「大海へ飛び出す気持ちで」、他の一般大学も参加する軽音楽サークルに入った。すると、音大生に引けを取らないほど上手に演奏をする人が、偏差値の高い大学の学生だったり、起業までしていたり。

「音楽を趣味だと割り切って、一流企業に就職していく様子を見て、“わー、こんな感じなんだ”ってカルチャーショックを受けました。自分は勉強も、スポーツも捨て、ほぼピアノだけに集中し、今があると思っていたので、彼らと出会って、自分の小中高時代はなんだったんだ、と思ってしまいました」


大学時代は軽音サークルでバンドを組み、キーボードを担当。人と一緒に音楽を作る楽しさを初めて味わった(写真提供:harami_piano)

大学生になって、広がった視野。同時に卒業後、音楽で食べていくことの難しさも改めて知った。とは言え、教職課程を取り、教育実習にも行ったが、音楽の教員になる選択肢は選べなかった。「音楽の先生は素晴らしいお仕事だと思うのですが、自分が本気でやりたいかと問われれば、疑問に感じてしまいました」。

そこで、ピアノからはいったん離れる覚悟で、一般企業への就職活動を開始。音大では十分な情報が得られなかったので、サークル仲間がいる他大学の就職説明会に紛れ込んだり、説明会に登壇していた企業担当者にコンタクトをとってエントリーシートを見てもらったり。積極的に行動した結果、IT企業にサービスのプロデュースや企画職として就職できた。

パソコンを触ったことがなかった

だが、音大出身者は異例なうえ、自身はそれまでパソコンをまったく触ったことがなかった。

「おそらくポテンシャルで採用していただいたのだろう、と。それはありがたかったのですが、何もかもできなさすぎて、迷惑をかけてばかりだし、そんな自分が嫌になるし、どうしたらいいのかパニック状態。仕事を続ける自信がないから、1カ月分の通勤定期を買うことさえ怖くて、最初のころは毎日、切符を買って電車に乗っていました」

それでも上司や先輩たちに助けてもらいながら、どんな仕事にも全力で取り組み、知識やスキルを少しずつ身につけていった。「上司や先輩方には本当にお世話になり、愛情深く育てていただきました」。

仕事ができるようになると、自分は「ゼロか、100かの人ではないか」と思うようになった。「満遍なく、全部できるタイプではなくて、不得意なことは全然できないんだけれど、得意なことなら逆に、とんがることができる、と自己分析をしたんです」。

そういう考えにいたったとき、若者向けサービスについてリサーチが始まった。

「絶対、この部署の中で一番、詳しい人になろう」。週末に原宿・竹下通りで若者に声をかけ、スタバ一杯をおごる代わりにサービスを触ってもらったり、SNSでたくさんの若者とつながって情報収集をしたりして、ユーザーのニーズを的確にキャッチした。この頑張りが評価され、社内MVPに選んでもらった。

糸が切れたように休職

仕事への熱意はさらに高まり、もっと期待に応えたい、と自分を追い込むようになった。「ゴールが見えないまま走り続けて、どこで休んでいいのかわからず、仕事をやり過ぎてしまって」。

ピアノのときも似ていた。「レッスンまでに課題を100%、ないしは120%ぐらいまで仕上げなければ先生をガッカリさせてしまう、と思ったら、練習しないと、とにかく不安で休めませんでした。そう考える癖が子どものころから染み付いていたのかもしれません」。

それでもピアノであれば、練習すればするほど、結果につながった。しかし数人でチームを組んで取り組む仕事でまとめ役を任されるようになると、自分の力だけではどうしようもできない壁にもぶつかった。

チームメイトと一緒に課題を解決しなければならないのに、一人で抱え込んでしまったり、チームメイトの良さや強みを引き出せなかったり。そのうえ、うまくいかないと、他人を責めてしまうような気持ちになり、自己嫌悪に陥った。

自らを追い詰める日々が続いた結果、ある朝、プツンと糸が切れ、会社へ行けなくなった。次の日も、また次の日も。結局、休職することとなった。

子どものころから、まともに休んだことがなかった。最初は何をして過ごせばいいのかわからなかったが、次第に初めて『ワンピース』のアニメを見るなど、まるで「遅れてきた子ども時代」のような日々を送った。だがスマホでニュースやSNSを見るのは、世間から取り残されているようで怖かった。話し相手も家族だけ。

このままでいいのか、焦る気持ちもあり、じっくり自己分析に取り組んでみた。すると、それまでの人生はずっと、誰かの期待に応えたい、嫌われたくない、という思いから、本当に自分がしたいことに向き合っていなかったと気付かされた。

(この記事の後編:「休職中の彼女が“ハラミちゃん”になったキセキ」)


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(吉岡 名保恵 : フリーライター)