1991年、イトマン疑惑で初の強制捜査。イトマンの不明朗な絵画ビジネスと不動産投融資をめぐる疑惑で、家宅捜索を受けた「協和綜合開発研究所」から押収した書類を運び出す大阪府警の捜査員ら(写真・共同)

弔いの季節の8月、元検事総長の土肥孝治氏が亡くなった。90歳だった。

総長退任後も「関西検察のドン」として後輩の面倒を見続け、大阪の司法界周辺で絶大な影響力を維持した。私にとっては30年余り前に起きたイトマン事件の総指揮官という存在だ。土肥氏が当時、大阪地検の検事正でなければ複雑怪奇、魑魅魍魎が跋扈する「戦後最大の経済事件」は訴追に至らなかったのではないか、とも言われている。

大阪中心に人事が動く関西検察

大阪府出身の土肥氏は京都大法学部卒業後、1958年に検事となり、大阪地検在籍は15年余に及んだ。特捜部では自民党衆院議員らを逮捕・起訴した大阪タクシー協会をめぐる汚職事件(1967年)で贈賄業者を取り調べた。特捜部長時代は賭博遊戯機をめぐる警官汚職(1982年)などを、次席検事時代は阪大ワープロ汚職事件(1981年)を手がけた。

奈良、神戸地検検事正を経て、1990〜1992年に大阪地検検事正を務め、イトマン事件や東洋信金の巨額架空預金証書事件などを指揮した。その後、最高検次長検事、大阪高検検事長、東京高検検事長を経て、1996年1月に検事総長に就任した。

1998年の退官後は弁護士として関西電力、積水ハウス、小松製作所、マツダなどの社外監査役や大阪産業大理事長、関西テレビ取締役などを務めた。

検察庁はかつて、官僚組織としては珍しく人事が東京一極集中ではなかった。大阪を中心とした人事異動で検察人生をまっとうする人たちがたくさんいた。濃密な人間関係のなかで現役とヤメ検が強力なネットワークを築き、総体として「関西検察」と呼ばれた。

キャリアのほとんどを関西で過ごした検察官で、総長まで上り詰めたのは後にも先にも土肥氏だけである。退任後は後輩のヤメ検らに顧問先や重要事件の弁護、不祥事企業の第三者委員会委員の職などを世話し、隠然たる力を持ち続けた。土肥氏を中心としたOBの会も生まれた。捜査現場での実績に加えて面倒見の良さ、律儀な人柄もあり、自然と「関西検察」の顔役となり、唯一無二のボスであり続けた。

私は特段、土肥氏と親しかったわけではない。土肥氏は朝日新聞の大阪社会部時代に遭遇したイトマン事件で当時、捜査機関を代表する存在だった。「検事正の決断」が事件の行方を左右すると考えられていた。


1996年、検事総長に就任した直後の記者会見で抱負を語る土肥孝治氏(写真・共同)

イトマン事件とは、バブル経済期最終盤の1年足らずに住友銀行(現・三井住友銀行)系の商社・伊藤萬(その後、変更した社名イトマンに表記を統一)から数千億円が引き出され、株、土地、絵画、ゴルフ会員権など「バブルの神器」を通じて広域暴力団山口組ともつながる闇の世界に流失したとされる事案だ。

これを捜査した大阪地検特捜部と大阪府警がイトマンの河村良彦元社長、伊藤寿永光同社元常務、許永中不動産管理会社代表らを商法(特別背任)違反などの容疑で逮捕、起訴し、その後有罪が確定した。事件により日本を代表する企業の経営者多数が辞任に追い込まれ、イトマンや大阪府民信用組合をはじめ多くの組織が消滅した。

大阪地検は初公判の冒頭陳述で「戦後最大の経済事件」と位置付けた。動いた金額の大きさ、登場人物や手口の多彩さに加え、絶頂期の日本経済を代表する金融資本の本丸にアングラ勢力があと一歩まで迫った異様さを評したとみられる。

大阪特捜部・乾坤一擲の勝負

私は1992年4月、大阪社会部の司法キャップとなった。裁判所か検察を以前担当した記者がつくのが通例だったが、経験のない私が指名されたのはイトマン事件の公判が始まっていたからだ。巨大な金額と複雑な手口、人脈がからみあう事件を捜査開始前から主役らの逮捕、初公判までを見届けた記者が他にいなかった。

次長検事への転出が決まっていた土肥検事正にインタビューした。以下は記事の一部だ。

――イトマン事件を手掛けた経緯は。当初は東京地検がやるという話もあったが。

「あれだけ社会的影響の大きい事件で、しかもイトマンの本社も許永中の本拠も大阪。大阪の特捜部がこの事件をやれないのであれば、特捜部を大阪に置いておくことの意味が薄れる、という感じはしていた」

土肥氏が検事正になる前の大阪地検、なかでも特捜部は精彩を欠いていた。ロッキード、リクルートなど疑獄事件を手がけ「史上最強の捜査機関」ともてはやされた東京地検特捜部に対して、大阪で国会議員が絡む「赤じゅうたん」の事件は、土肥氏がヒラ検事の時代に手がけたタクシー汚職と、公明党の参議院議員を在宅で起訴した1988年の砂利船汚職だけだった。

1989年に発覚した大阪市公金詐取事件や1990年のニセ税理士事件は行政機関の根幹を揺るがす構造的な疑惑だったが、市幹部や市議の関与、国税局幹部職員への現金授受といった核心の問題を立件することなく、直接の当事者だけを起訴して幕引きした。納得できない市民らが検察審査会に処分の見直しを求めた。

そんな停滞ムードのなかで地検トップに就任した土肥氏は、暗中模索の捜査を強引に引っ張り、捜査史上初めて絵画取引を特別背任罪で起訴に持ち込むなど、積極的な指揮でバブル経済にとどめを刺す事件を仕上げたと評された。くすぶる大阪特捜の威信回復へ向けた乾坤一擲の勝負だったとも言われている。

インタビューで土肥氏は「特捜部を置くだけの意義のある事件、なかでも独自捜査を手がけることが大切だ。捜査機関は実績を残さなければならない」と語った。

検察は体制の安全装置なのか

――複雑で難しいといわれたイトマン事件だが、捜査に踏み切ろうと決断したのはいつか。

「当初から絵画取引に注目しており、許永中がイトマンに金を返せなくなった段階で、立件しなければ、ということになった。いわゆる財産犯の事件であり、金を返していれば、立件は難しかっただろう」

――捜査の意義は。

「企業は利益を上げればいいというものではなく、社会的な責任があることを明らかにしたと思う。大阪でいわれてきた『裏の経済』の一面をあぶりだすことができたのではないか、とも考えている」

――大銀行の幹部や政治家らの関与が指摘されたが、摘発には至らず、期待はずれの声もある。

「なぜやれないのだ、という気持ちはわかるが、刑事事件を立件するには、関係者の証言や物証が欠かせない。イトマンの場合も、現経営陣が証拠を出すなど捜査に協力してくれたから出来た面もある」

最後の問いには、イトマン事件の捜査に対する検察内部の評価とは裏腹に、物足りなさを感じていた私の思いが反映していた。

特捜部は、イトマンに食い込みメーンバンクの住友銀行の本丸にあと一歩に迫ったアングラ勢力を摘発した。土肥氏が言うところの大阪の「闇の経済」である。

しかしながら、もう一方の当事者である住友銀行にはまったく手を付けなかった。資本主義の総本山である大銀行を守るためアウトローを排除したとしても、事件解明に必要な捜査を尽くしたとは言えないのではないか。体制の安定装置である検察と総資本が結託した国策捜査ではなかったか……。

住友銀行は、異常に膨れるイトマンの債務と河村元社長の無茶ぶりに気づいていた。それでも、同行が首都圏で地歩を固めた平和相互銀行の吸収合併で、当時住銀の天皇と呼ばれた磯田一郎会長の意を受けて大きな役割を果たした河村氏を止めることはできなかった。

他方、河村氏も磯田氏のマンション購入の手続きから賃借人のあっせんまでを引き受け、磯田氏の娘婿の会社を物心両面でバックアップしていた。そもそも事件となった絵画取引は、磯田氏の娘が河村氏に持ち掛けたことが発端だった。

検察は、河村氏の犯行動機を解明し、事件の全体像を示すために当時の銀行内部の状況を検証する必要があったはずだが、強制捜査はもちろん、最も重要な証人であり当事者である磯田氏や磯田氏の長女夫妻について証人申請はおろか調書の証拠申請すらしなかった。

銀行の経営陣のなかで唯一申請した巽外夫頭取(当時)の調書を弁護側が不同意としたのに対し、証人申請もしなかった。意図的に避けたことは明らかだ。

捜査は、広島高検検事長を務めた住友銀行の顧問弁護士(故人)と同行融資3部が描いたシナリオに沿って進められた。私の目には、銀行をできるだけ傷つけずに、暴力団につらなるアングラ勢力だけを摘出することに注力しているように映った。

関西の検察幹部らは、住友グループの経営陣と「花月会」なる定期的な会合を持つなど以前から親密な関係にあった。

「銀行に強制捜査をかけなかったのは不満」

土肥氏死去の報を受けて、私はイトマン事件にも携わった旧知の特捜部長経験者を久しぶりに訪ねた。事件についての私の見立てを話すと、「少し違うのではないか」という。

「事件は土肥さんが検事正だったからできたのだろう。着手前は永田町や住友関係者から相当圧力があったはずだが、土肥さんが防波堤になった。銀行としては捜査そのものを避けたかった。それでも検察が着手の意思を固めたので、銀行中枢には手を伸ばさないという条件で全面協力するとの手打ちが上のほうであったのだと思う。現場の検事の間では、なぜ銀行にガサ(強制捜査)をかけないのかという不満はあった」

確かに1991年初めからマスコミの報道が次第に熱を帯びるなかで、多数の検事総長や高検検事長経験者ら大物ヤメ検が大阪地検に頻繁に出入りしていた。住友銀行、イトマンを始め関係企業や誰かしらの「代理人」だった。

これに対して大阪地検の特捜部長が1991年2月、記者会見で「いわゆるイトマン疑惑について関係者からの事情聴取を含めて資料収集をしている」との異例の宣言をした。

のちに土肥氏は「過熱する状況を鎮静化させるために特捜部長に言わせたが、結果として捜査開始宣言と受け取られ不本意だった」と語っている。一方で、住友銀行の全面協力を引き出す結果にもつながったと考えられる。

捜査の意義については、私と元特捜部長は意見が一致した。土肥氏も語っていた通り、それまで手付かずだった関西の闇経済の主要部分にメスを入れたということだ。

バブル経済に乗り、伊藤寿永光氏はイトマンだけではなく住銀の中枢にも食い込み、許永中氏は日韓をまたにかけてさまざまな事業を展開し、両国の有力政治家に近づいていた。「あそこで止めておかなかったら、手の付けられない存在になっていたかもしれない」という認識は共通する。

私が司法キャップになった時、大阪高検の検事長は故・吉永祐介氏だった。ロッキード事件で主任検事を務めるなど長く「特捜の顔」だった著名検事だ。現場を持つ検事正と違って中二階的な高検で吉永氏は時間を持て余していたのだろう、部屋ではよく話し相手になってくれた。

ここで退任とみられていたが、東京佐川急便事件で当時の金丸信・自民党副総裁を略式起訴とした検察への批判が高まったことを受け、世間を納得させる予想外の人事として東京高検検事長を経て検事総長に就任した。

後任にはやはり東京高検検事長を経た土肥氏が座ったため、同じ捜査畑の「現場派」として吉永氏が土肥氏を引き立てたとする説が流布している。しかし私の感触は違う。私との会話のなかで吉永氏は何かにつけて土肥氏を筆頭とする関西検察を批判していたからだ。とくに花月会との関係について、「異常だ」と吐き捨てるように語っていたことが印象に残っている。

土肥氏や吉永氏らが一世を風靡し、検察組織のなかで花形とされてきた特捜部だが、大阪地検特捜部の証拠改ざん事件が2010年に発覚した。証拠品のフロッピーディスクを書き換えて無実の官僚を陥れようとした前代未聞のスキャンダルだ。

そのころ新聞社で論説委員を務めていた私は「特捜部廃止」を社説で主張するべきだと部内で提起したが容れられず、個人の署名で「特捜部はもういらない」というコラムを書いた。

暴走する異形の集団

検察の本分は、警察などが捜査した事件を精査して起訴するかどうかを判断し、公判を維持することであり、独自捜査は例外であるはずだ。ところが特捜部は自ら捜査して起訴まで持ち込むことを業とする常設機関だ。

有罪率が99%を超える日本の司法制度のなかで、起訴権限を独占する検察の手がけた捜査がチェックされる機会は限られる。いわばプレイヤーが審判を兼ねる特捜部に歯止めをかけるのは容易ではない。

しかも功名心と自尊心が強いエリートの集まりだ。特捜検事に、特捜部長になったからには、と功を焦る。公益を代表し真実を発見するより、「実績」を優先させがちだ。

警察は政治権力に弱く、巨悪に立ち向かえないというのが特捜部の存在理由とされてきたが、しかるべき疑惑があれば警察を指導して捜査させるか、だめならその時にアドホックに検事を集めて捜査にあたればよい。常設である必要はあるのか。第一「巨悪」に立ち向かった事案はさほど多くはないし、むしろ政権与党に忖度しているのではと疑わしい例が近年目立つ。

河井克行元法相の公選法違反事件で、東京地検特捜部の検事が元広島市議らに買収を認めたら不起訴にすると持ちかけていたことが最近発覚した。暴走する危険性のある異形の集団という特捜部の本質は変わっていない。土肥氏や吉永氏が存命なら特捜部で相次ぐ事態をどう見るか、聞いてみたいと思うのは私だけではないだろう。

(柴田 直治 : ジャーナリスト、アジア政経社会フォーラム(APES)共同代表)