世界一の監督という栄冠にたどり着くまでの支えとなった独自の哲学や、日本ハムの監督時代の愛弟子であり、WBCをともに戦った大谷翔平選手のこと、自身のこれからについて聞いた(写真:矢口亨)

3月のWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)で侍ジャパンの監督としてチームを世界一に導いた栗山英樹氏には小学生の時からの気になった言葉や日々の戦績、プレーの細かな振り返りを書き留める「野球ノート」がある。

球界きっての読書家としても知られている栗山氏。ジャンルは、経営者や企業家の言葉のみならず、小説、古典にまで及ぶ。そして読んで気になった言葉は、その都度ノートに書き留め、思いや考えをまとめているのだという。

このノートを、書籍としてまとめたものが『栗山ノート』だ。続編として7月に出版された著書『栗山ノート2 世界一への軌跡』(光文社)には、世界一までの舞台裏とともに栗山がその都度書き留めた言葉が収められている。

栗山氏にとっての、世界一の監督という栄冠にたどり着くまでの支えとなった独自の哲学や日本ハムの監督時代の愛弟子であり、WBCをともに戦った大谷翔平選手のこと、自身のこれからについて聞いた。

(前回:『「斎藤佑樹」の活躍に目を細める栗山の野球哲学』)

栗山氏の持つ“哲学”

同書に書かれている栗山氏のWBCでの戦いからは、彼の持つ独特な哲学がうかがえる。それは、何が起ころうとも物事の本質を見据えることだ。

その具体例として、1次ラウンドの韓国戦において源田壮亮選手が右手小指を骨折した状況が挙げられる。この時、源田選手は痛みに耐えてプレーを続けることを選択した。栗山氏は源田選手の状況を冷静に評価し、彼がチームに留まりたいという熱望に応えた。

その結果、大事な試合で源田選手をスタメンに戻すことで、チーム全体の士気を高めることができた。栗山氏の見識と経験が、難局を乗り越える戦略に結びついた好例と言えるだろう。

それはまさに中国の古代哲学、特に儒教における「中庸」の概念。具体的な行動や判断において、その場の結果や出来事に一喜一憂せず、偏った視点を避けながら全体的かつ長期的な視野でバランスの取れた判断を行う。その事について、栗山氏はこう語る。

長期的なビジョンと即座の行動が重要

「物事の枝葉にとらわれないようにするのが大事。今何か起こってしまうと、人間ってそこに引っ張られがちじゃないですか。でも本当にやりたいことの本線であるところは、もっと違うところにある。

だいたい困ると人間って短期的にものを考えるので、つねに長期的に考えるようにする。選手は多分、今しか見えてない。(プロ野球の監督をやる場合)僕らは3年から5年先のイメージを、選手に対して持っている」


「明日のことは考えない」(栗山氏)その真因は?(写真:矢口亨)

ここで栗山氏が重要視するのは、選手が困難な状況に直面したとき、短期的な視点で物事を考えてしまいがちな人の傾向に注意を喚起することだ。栗山氏が指摘する「本線」は、長期的な視点に立ったときに見えてくる本質的な目標や課題を指す。

しかし、これは「“今”だけを見て行動する」ことを否定しているわけではない。むしろその矛盾する2つの視点――長期的なビジョンと即座の行動――が選手たちにとっても重要だという。

「でも、僕がつねに思っているのは、明日のことは考えないということ。明日からはどうでもいいけど、今日だけはできることをやり尽くそう。明日からはできなくてもいい。今日だけは絶対やる。また明日になったら、今日だけは絶対にやる。先の事も大事だけど、今できることを全力でやっていますか、できたんですかという問いを持ったほうがいい。

ご褒美は、いつか、どこかで来ます。そんなことよりも、『今日、俺やれた』と思うほうがうれしいじゃないですか。明日のこととか(未来の目標を)考えたほうが物事の考え方としてはいいんだけど、今日やって自分を褒めてあげたほうが結果は出やすいと思います。

結局、引退の時にもっとあの時にこうしておけばよかったって選手たちは思うんですよ。本当に明日引退、クビになると思ってないんで。思ってたら、やることが違ってくる。引退のシーズンに答えが出ているわけじゃなくて、もっと早い時に、選手たちは(結果を)求められているんですよ。そこを逃しちゃうと、先が苦しくなっちゃう。だから、今日やらなきゃ駄目なんだ、悔いを残すなと思います」

この意識の在り方は、一見すると「長期的な視野を持つこと」のアドバイスと対立するかのように思えるかもしれない。しかし、長期的な目標を持つことは、それを達成するためには何をすべきか、どんな行動が必要かを明らかにする。

そしてその行動は、今この瞬間に起こすべきものであり、「今日だけは絶対にやる」という栗山氏の言葉につながる。続いて栗山氏が引き合いに出したのは、投打の二刀流で大リーグを席巻している大谷翔平選手だった。

「翔平は『今じゃないんです』って、トレーニングしていてもずっと言っていました。将来こういう動きができないと、自分のやりたい野球ができないから、今、疲れていても、筋肉痛になろうとも、このトレーニングをしなきゃいけないって、彼はやっていました。

あの若さで『今じゃない』って言える選手、すげえなと思って見ていました。目標設定から逆算して今日やるべきことが分かれば、その積み重ねですよね」

大谷選手が花巻東高校1年生の時に作成した「目標達成シート」は、彼の成功への道筋を示す貴重なエピソードとなっている。このシートは、中央に一つの大きな目標を設定し、その周りに9×9のマスを配して、合計81の目標を書き込んだ形式をとっていて、このような手法は大きな目標に向かって一歩ずつ進むための具体的な行動を明確にするという意味で非常に効果的だと注目されている。

大谷翔平を褒めない理由

日本ハム時代の恩師である栗山氏は、今の大谷選手の姿を想像できていたのだろうか。


2023年3月9日 WBC1次ラウンド 日本×中国 8回1死満塁 山田哲人のレフトへのタイムリーヒットでホームに生還した大谷翔平(右)を出迎える栗山英樹監督(写真:東京スポーツ/アフロ)

「現実的な想像、感覚かどうかちょっと分からないですけど、僕が一番、(大谷選手の能力の)天井を高く見ていたのは間違いない気がします。どれだけ翔平が頑張っても、『こんなの普通でしょ』って思っている自分がいます。もっとすげーんだよ、大谷翔平は、と。

二刀流に挑戦することに対しても、僕は一切不安に思ったことがないです。もっとできる。もっとすごいからってそう思います。本当に翔平のことは信じているので、僕は今回のWBCでも、翔平なら絶対やってくれるという、そこの信頼は一切揺るぎませんでした。

だから褒めないのかもしれない。もっとすごいと思っているから。こんなので褒めたら失礼だよなと」

大谷選手はWBCの全7試合に3番打者として先発出場し、打率4割3分5厘1本塁打8打点を記録。投手としても計3試合で9イニング3分の2を2失点。2勝1セーブで防御率1.86と圧倒的な成績で大会MVPに輝いた。

「(日本ハムに入団した当時から)投打2つともできる能力は間違いなくあった。今でいうと、佐々木朗希と村上宗隆が一緒になっているような感じですよ。普通、村上に「バッターやめますか」って言わないじゃないですか。佐々木朗希に「ピッチャーやめますか」って言わない。

そういう感じ。いやいや、誰が言うんですか。神さま以外に言えないですけどっていう感覚です。2つともやめさせられない」

自分の可能性を心から信じてくれた栗山氏のような人間が近くにいた環境こそが、大谷選手にとって最も大きな幸運の1つだっただろう。

「ファイターズの当時のGMをしていた吉村浩と僕の2人に関しては、翔平の二刀流を疑うことは一切なかった。日本ハムの監督をやっていて一番記憶に残っている言葉は、翔平が1年目(の2013年)にプロ初勝利をあげたときに、吉村が僕に『監督、二刀流をやったことに関して、50年後に必ず評価してくれる人が、野球界に出てきますから』って言ったんですよ。

その言葉は忘れないですね。もっと先のビジョンで、吉村は見ていたと思う。野球界にこういう選手が必要なんだということ、二刀流をできる選手がいることの証明です」
 
当初は世間からの疑念や批判が少なからずあった二刀流への挑戦。大谷選手が連日のニュースになるほどの活躍を見せる今となっては、二刀流ができるということに対する証明はすでに完結したように見える。だが、栗山氏の考えは少し違う。 

「二刀流が正しかったかは“分からない”」

「思ったよりも翔平が頑張ったんで(笑)。二刀流に対して文句を言われることはなくなりましたけど、僕は本当に二刀流が正しかったかどうかは、まだ分からないです。いまだに、彼の能力に対しての必然が二刀流だと僕は思っていますが、でもこれが正しかったなんて、僕らは思っちゃいけないと考えています。

最後、翔平が野球をやめたときに、『二刀流やって良かったです』と言ってくれたら正解だったし、そうじゃなかったら、指導者として、もしかしたら僕らは間違ったんじゃないかと思う。そういう目線が必要かなと考えている」


「僕は本当に二刀流が正しかったかどうかは、まだ分からないです」と話す栗山氏。(写真:矢口亨)

栗山氏はまだ二刀流が正解だったかどうかを指導者として問い続けている。その自己問答は、ただ成果を追い求めるのではなく、そのプロセスを絶えず振り返り、真実を見つめる「中庸」の精神を体現している。選手として、そして人として大谷選手がどう成長するかという長期的な視点に立っているその姿勢こそが、栗山氏の監督としての稀有な資質なのかもしれない。

「何が正しいか。僕は(日本ハムで)監督を10年間やって、最後の日に正しいという言葉はあり得ないとノートに書きました。自分が正しいと思ってしまったら人の話を聞けないし、人の話を全部否定するじゃないですか。それだけはやめなきゃいけないというのが、10年間の答えだった」

栗山氏の侍ジャパンの監督任期は今年5月31日で満了した。日本代表チームを牽引するのに相応しい多くの優れた野球指導者がほかにも日本にいることを認識してのことだった。6月に開かれた監督退任会見で「やりたいことは2つ、3つある」と語り、次のステップに向けた意欲を明らかにした。具体的にはどのようなことを考えているのだろうか。


「こんなに人に褒められるのは、人を駄目にする」と言う栗山氏(写真:矢口亨)

「まずは僕がもっと成長できる場を踏まないと、誰かのためになれないなと思っています。WBCで世界一になりましたけど、世界一の監督になったわけじゃなくて、世界一になったチームのときに、たまたま監督をやっていた人なので。

人が成長する状況というのは艱難辛苦(かんなんしんく、困難で辛い事の意)なので、野球は長くやっちゃったからまったく違う世界で勝負したほうが、ドロドロになって、裸になって、がむしゃらに自分の良さが出るかなって、そんなことも思ったりする。

例えば小説を書いてみたいとか、いろいろあるんですよ。違うものにドロドロになる。今、ちょっと面白くないんです。みんなに褒められちゃうので。こんなに人に褒められるのは、人を駄目にする。早く野球と違うことを始めないと良くないですね」

野球の未来について思うこと

栗山氏の言葉からは、自己の成長に対しても長期的な視点を持ち続けていることが読み取れる。新たな挑戦への意欲を示す一方で、自身の経験と膨大な知識を背景に、野球の未来について深い思索を続けている。

「ほかのスポーツも素晴らしいんですけど、野球の持っている良さを、もっともっと広げるためには、どうしたらいいか考えている。野球の環境があまりにも難しくなっていますね。お金もかかるし、場所も必要だし、子どもの数も減っているし。


僕は僕なりに、野球というものがいい形で残っていく形をつくらなきゃいけない。そのためにはお金も必要だし、正しいお金を稼がなければ、それができない。そういうことが、野球のほうの夢だったりするところもある。タイミングを見ながら前に進みたいなと思っています」

「正しいお金を稼ぐ」という栗山氏の言葉には、渋沢栄一の著書『論語と算盤』に通じる価値観を読み取ることができる。

それは、利益追求と道徳的義務がバランス良く組み合わさった状態を示しており、具体的には製品やサービスを提供することで利益を得るとき、それが社会や消費者にとって真に有益であり、公正な方法で行われていることが重要になる。そしてそれは、野球が長く愛されるスポーツであり続けるために必要なことだと栗山氏は考えている。

野球がビジネスとして持続していくこと、社会的価値を保ち続けることを両立させるために、現時点で改善すべき環境を栗山氏は2つ提示した。

「都道府県全部に野球のプロのチームがあったりしたらいいと思います。自分の住んでいる地域にプロ野球があるというのは身近じゃないですか。ファームでもいいから、都道府県全部に野球チームって置けないのかなとか。

子どもの時は近くにあるものに(興味が)引っ張られるので、『あのお兄ちゃん、かっこいいな』というところに入る。そういう環境をつくっておきたいと思ったり、あとは女子野球の発展も考えている」

栗山氏は先日、日本プロバスケットボールリーグ(Bリーグ)の設立を牽引した川淵三郎氏に直接会いに行った。そこでBリーグが地域密着とアリーナ運営の戦略により、スポーツエンターテインメントとして人気を確立するまでの経緯を聞いた。

「これから勉強していかなきゃいけないところもあるし、やることがいっぱいあります。でも、僕は苦しいものが楽しいんです」

これからについて話す栗山氏はとてもうれしそうだ。今まで以上にペンを執る頻度も、ノートに書かれる言葉の彩りも増していくに違いない。

(矢口 亨 : フォトグラファー/ライター)