仕事先でお弁当を出していただくと、普段食べないご馳走満載でうれしい。ご馳走は人に作ってもらうのが一番です!(写真:筆者提供)

疫病、災害、老後……。これほど便利で豊かな時代なのに、なぜだか未来は不安でいっぱい。そんな中、50歳で早期退職し、コロナ禍で講演収入がほぼゼロとなっても、楽しく我慢なしの「買わない生活」をしているという稲垣えみ子氏。不安の時代の最強のライフスタイルを実践する筆者の徒然日記、連載第54回をお届けします。

フードロスのまさかの「犯人」第2弾

前回、冷蔵庫がフードロスの主要因だったというまさかの事実に気づいてしまった顛末について書かせていただいた。


稲垣えみ子氏による連載54回目です。

そうなんですよ。何でもかんでも冷蔵庫に入れておけば好きな時にウッシッシと食べられるもんね便利便利……と喜んでいたら、いつの間にか何をどれだけ貯めてあるのか把握できないのが当たり前になり、結局はあらゆるものを腐らせ捨てていた……という、まるで昔話に出てきそうなおっそろしい現実に、冷蔵庫を手放して初めて気づいた私である。

で、今回はその「まさか君が原因だったのか!」シリーズの第2弾。そう、なぜわれらはフードロスをなくしたくてもなくすことができないのか。意外な「犯人」はほかにもいたのであった。

冷蔵庫と並び、その原動力となっているのはなんと「レシピ本」だった!

……というのが、フードロスゼロ生活を7年以上続けている私の実感である。何しろ私、フードロスゼロ生活を始めてからレシピ本を見なくなった。正確に言えば、見たくても見ることができなくなったのである。

何しろ「フードロスをなくすこと」と「レシピ本を見て料理すること」は、とても「相性が悪い」のだ。

どういうことか。順を追って説明しよう。

フードロスとレシピ本の「相性が悪い」理由

冷蔵庫をなくしてから、原則として「その日に食べるものはその日に買う」生活を始めたことは前回書いた。そもそも食材を保存しないことにすれば、冷蔵庫がなくとも問題なく自炊できるのである。

でもそうなると、うかつに食材が買えなくなってしまったことも書いた。なぜなら、現実には「その日に食べるものはその日に買う」というのは一人暮らしの身にはまったくもって困難な目標で、野菜など懸命に食べても2、3日はどうしても持ち越してしまうのである。

となれば、それがなくならないうちに別の何かを買う「余裕」などない。「今あるものをとにかく食べ尽くさねば」と、つねに食材に追いまくられる日々を過ごすことになったのだった。

で、そうなるとたちまち、レシピ本の出番がガクッとなくなってしまったのである。

だって、レシピ本に載ってるような料理って、材料がそこそこ多い。複数の素材を組み合わせて完成するものがほとんどだ。

なので、ある料理を作ろうと思ったら、その日のうちに使い切れなかった複数の食材を抱え込むことになる。となると、その余ったやつをどうにかして食べきらなきゃいけないってことになり、でもここでまたレシピ本に頼ると、新たな別の食材を買い足さなきゃいけなくなる。

で、またその新たな使い切れない食材を抱え込むことになり、それをどうにかして食べきらなきゃとまたレシピ本を見てまた別の食材を買い……なーんてことををやっていたら、雪だるま式に使い切れない食材がどんどこ増え続けることになる。

つまりは、冷蔵庫のない身としては、レシピ本を見て料理することがまったく現実的ではなくなってしまったのだ。ってことで、山のように持っていたレシピ本のほとんどをがっさり処分することになったのである。

で、私の自炊生活はどうなったかといえば、レシピ本など見なくともサルでも作れるような、単純すぎる料理しか作れなくなった。

どんな料理かというと、主に2パターンである。

すなわち、味噌汁and漬物。

もう少し具体的に言えば、買ってきた食材は、まずは味噌汁の具にする。余ったらぬか床に埋めて保存。これが基本、そして最強パターンだ。

何しろやってみてわかったんだが、大体の野菜は味噌汁の具になる。例えば普通はサラダとかで食べるきゅうりとかレタスとかも、夏の味噌汁の具としては相当に美味しいのだよ。

さらに、大体の野菜はぬか漬けにもできるのである。ぬか漬けが無理なら塩漬けにしたりおから漬けという手もあり。いずれにせよ、この「汁と漬物」という2パターンさえ身につけていれば、どんな食材が余ろうがまったく動じることはなく、無念無想、瞑想のごとくただただ粛々と消費していくのみである。

で、これって考えてみたら「一汁一菜」ってやつだ。かの土井勝先生も推奨しておられるわが国が誇る伝統的な基本食である。

冷蔵庫のない時代の生活に学ぶ

言い換えれば、冷蔵庫が行き渡る前の日本人はおそらく今の私のようにして食材を使い回していたに違いない。念のため言うておくが、わが国に冷蔵庫が登場したのはほんの100年ほど前のことであって、それまでの日本の歴史のほうが圧倒的に長いことを忘れてはなりませんぞ。

世のほとんどの方が、私が冷蔵庫を持っていないというと「うっそー」「信じられない」などとおっしゃるが、昔の人から見れば、そのような反応こそ「うっそー」「信じられない」にちがいないのであって、圧倒的な経験値の高さという意味では、冷蔵庫のない時代のやり方のほうが、俄か仕込みの冷蔵庫時代とは比べるべくもなく、わが国の気候風土においてまったく合理的な、無理のないやり方であると考えるべきなのではないだろうか。

ついでに言えば味噌や漬物の発酵食を常食することになるので健康にもバッチリだ。

ってことで私、もう何の問題もなくこのような食生活を粛々と送り、結果としてフードロスと一気に無縁になったばかりか、料理にかける手間も時間も大幅に短縮されるという夢のような生活を始めて今に至るのである。

で、ここまで読んでいただいた方はきっと、これは冷蔵庫をやめた人間の特殊ケースであり、冷蔵庫のある普通の人たちは、何もこんなワンパターンすぎる食生活をせずとも、つまりはレシピ本を見てあれこれ料理したところで、余った食材は冷蔵庫に保存しておけば良いのだから、別にレシピ本がフードロスを生んでいるっていうわけじゃないのでは? と思われたのではないだろうか。

いや私もね、ちょっと前まではまったくもってそう思っていた。

でも最近、いやいや冷蔵庫があろうがなかろうが、レシピ本に頼っている限りフードロスは無くならないんじゃないかと思うようになったのである。

だってですよ、冷蔵庫は確かに、食材の寿命をある程度引き延ばすことができる。でもそれはあくまで「ある程度」であって、永遠に引き延ばすことができるわけじゃない。つまりは、いつかは腐らせるのだ。

で、先ほど書いたように、レシピ本に頼って料理していると、結局は「足りない食材」を永久に買い足していくことになる。するとどううまくやろうとしたって結局は使い切れない食材がどんどん溜まってしまうのである。となれば、結局は腐らせて捨てることなる。それがフードロスである。冷蔵庫があろうがなかろうがまったく同じことだ。

あるものでなんとかするのが料理

結局ね、こういうことなんじゃないだろうか?

レシピ本を見て料理すると、どうしても、ずらずらと並んだ「材料」の項目に「ない」ものをまずは手に入れなきゃならんということになる。「ないものを買う」。そこから料理がスタートするのだ。

でも、今の私はどうしているかというと、「あるものを食べきる」ためにどうにかするのが、私にとっての料理なのである。キャベツがまだ残っている。どうするか。汁にするか、漬けるか、それでも追いつかなければ生で食べるか……などと考えるわけですね。それで自動的に献立が決まる。足りないものを買ってくるなどという発想はどこにも入る余地がない。

つまりは、「ないものを買わなければ料理ができない」と考えるのか、「あるものでなんとかするのが料理」と考えるのか。

この差は実に大きいと私は思う。前者のように考えてしまうと、永遠に食材を買い続け永遠に腐らせるという魔のサイクルから抜け出すことはできないのは冷静に考えれば当然のことである。

あ、念のために言っておくが、レシピ本(ネットや雑誌の情報を含む)そのものが悪と言いたいわけではない。料理と言うものを学ぶうえで、レシピを見てあれこれと作ることはオンザジョブトレーニングであり、習うより慣れろ。私もそうやってさまざまなレシピに学び、料理というものが楽しくできる人間になった。感謝感激雨あられである。

「レシピを見ること=料理すること」ではない

でも問題なのは、レシピに頼るあまり、ふと気づけば「レシピを見ること=料理すること」と考えるようになってしまうことだ。レシピ本を見なければ料理なんてできないと思い込んでしまうことだ。

そう、それはかつての私自身である。レシピ本を見なくても作れたのはキムチ炒めとカレーと豚汁くらいで、それも「おいしく」作ろうと思えばやはりレシピ本どおりに作らねばダメであると決めつけていた。で、実際、レシピどおりに「一味違う絶品カレー」など作れば、確かに一味違う絶品な味がするのだった。ってことで、料理上手になるにはやっぱりレシピ本が欠かせないよねと心の底から信じていた。

でもね、実際本に頼らず自力で作ってみたら、これがもうまったく拍子抜けするくらい普通にイケたのである。

もちろんレシピ本に載ってるみたいな絶品料理が作れるわけじゃない。っていうか、そもそも味噌汁と漬物しか作っとらん。でもそれで、われながら驚いたことに何の不満もないのである。フツーに美味しければ十分であった。っていうか、味噌汁も漬物もそもそも「絶品」とかっていうジャンルはない。毎日食べるものって、普通に落ち着くやつが結局は一番ウマイ。普通であることにこそ価値があるのである。

そう気づいたらですね、レシピ本、あるいはネットとか雑誌とかに載っている絶品レシピとか無限ナントカ等、すべてにまったく興味がなくなった。そもそもよく考えたらさ、絶品レシピの味って、結局「調味料の味」なんだよね。

それに対して、私は素材の味を食べているのである。調理法が2つであっても、素材が違えばできあがったものの味は千差万別。キュウリの味噌汁とじゃがいもの味噌汁とでは月とスッポンの差である。

つまりはですね、自分で小賢しい調味料の組み合わせなどせずとも、すべては「あるもの」(つまりは余った食材)があんじょうやってくれるのである。「ないもの」を探して買ってこなくても、「あるもの」がなんだかんだと丸く収めてくれるのである。

レシピ本をなくして得られたもの

その事実は、私の精神も大いに癒してくれた。実は、自分には足りないものなどないのかもしれない。才能もお金も人間関係も、きっと今「あるもの」で十分なのだ。その「あるもの」をよく見ること、大切にすること、とことん使い切ること、それさえできれば、もう人生は十二分に安泰じゃないのか。

っていうか「ないもの」ばっかりに目を奪われていると、「あるもの」を大切にしなくなる。だからわれらはいつまでも、ないものを買いまくり、お金が足りないと惨めに思い、人を羨み、人生に不安を募らせてしまうんじゃないのかね?

ってことで、レシピ本から思わぬ壮大な話になってしまった。でもこれは私の偽らざる本音である。私はレシピ本と縁を切ったことで、ゴミをなくし、生涯の安心を得たのである。

(稲垣 えみ子 : フリーランサー)