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人間の「生きる」とは「決意する」こと!

またひとつ唸らされるような言葉でした。右足関節靭帯損傷により今週末のNHK杯を欠場することなった羽生結弦氏の新着インタビュー動画を見たのですが、またひとつ考えを深める言葉をもらいました。平易にして簡潔、ただ奥深い、一流の詩のような言葉にはこれまでも何度も感嘆させられてきましたが、またしてもそういう状況に巡り合いました。


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僕は困難なチャレンジに挑む選手が好きです。理想を持ち、さらにその先に行こうとする選手が好きです。そういう人が新しい世界を切り開いていくとき、心から感嘆しますし、気持ちよさを覚えます。勝ち負けよりも生き様が上位であって、理想を追求し、それを超えていこうとする生き様の果てで「結果として勝っちゃう」というだけのこと。勝てば何でもいいという話ではありません。

そうした理想を超えていく人に共通することのひとつに、「それが大好き」という特徴が挙げられます。それをやることが大好きで、やらずにはいられない。お金や名誉や地位の問題ではなく、まず自分自身がやらずにはいられない、そういう魂がある人なのであると。仕事としてお金のためにやることや、才能があるばかりにイヤイヤながらやれてしまっていることにはやはり限界があります。自分の生命をすべて捧げることは「お金のために」「イヤイヤながら」ではできませんから。

その「好き」に突き動かされて、自分の身体と自分に与えられた時間を「好き」に捧げていくことが、「生きる」なのだと考えてきました。それはどこか偶然のような感覚でした。自分の心の形がたまたまドーナツ型をしていたからドーナツ屋になるみたいな、成り行きというか、生まれつきというか、自然発生的なもののような気持ちで思っていました。猫がボールを追いかけていくくらいの本能的な行動として。

しかし、件のインタビューでは、似たような話がもっと人間らしく表現されていました。チャレンジすることの原動力を問われた羽生氏は、「決意とは人間が持てるものの象徴的なものである」と喝破しました。動物が生き延びるためにする本能的な行動とは違い、生き延びるためでなくとも「人間は決意することができる」と羽生氏は言います。だから、その決意をすごく大切にしているのであると。

これは「あぁ、なるほど」と、またしても先を行かれたような気持ちになりました。「好き」から始まった本能に近い生き様よりも上位に、それを「決意」で整えた人間らしい生き様があるのだと、思考の解像度が上がった気持ちになりました。「本能的に生きる」よりも、「決意して生きる」ことは、より強いチカラを生むのだと。これは確かに人間にしかできないことかもしれないなと思いました。





「決意した」結果として行なわれるのが、「ダイヤモンドの原石を磨いてあげる」や「(ゲームや遊びなどほかにやりたかったことを)全部ちゃんと捨ててきた」なわけですが、これがまさに本能的ではない、人間ならではの部分だなと思います。この行為は、ある面では「我慢」であり、ある面では「比較」です。練習するために友だちとの遊びは我慢しよう、練習のほうが好きだからゲームは止めておこう、大なり小なり誰しもがそうやって生きていることでしょう。

ただ、「決意」した場合のそれは、我慢や比較とは少し趣が変わったものとなるでしょう。未練を残したり、比較の問題で選んだだけのものは、何度も甦ってきます。我慢はつづきませんし、新作ゲームが出ればそちらのほうが面白くて没頭したい日もあるでしょう。我慢や比較ではなく、決意して、磨いて、ちゃんと捨てることで、可能性を自ら消していくことに人間の凄味があるのだなと思うのです。

心の形がたまたまドーナツ型というだけでは、ドーナツが辛くなったときに、「もしかしてコレはポテコなのでは?」と迷いが生まれるでしょう。そして、しばしポテコに逃げ、なげわに逃げ、ポテコとなげわの違いに悩み、最終的に「やっぱりドーナツだった」と戻ってくるようなことがよくありますが、それはまだまだ本能的で偶然による決着なのだなと改めて思います。

決意して、ドーナツ型の心がよりドーナツになるよう、ちゃんと磨いていくこと、削ぎ落とすべき部分をちゃんと捨てること、それが人間だからできる、より強い生き様なのだなと今さらのように思うのです。たまたま偶然そうなっているのではなく、そうなることを自らで決めて、そういう風に整えていくことに、人間らしさがある。

動物は「飛ぶのは止めて走るのに専念しよう」とか「舌の長さで勝負しよう」とか「糸を出すことに懸ける」とか心で決めてやっているわけではなく、生物としての進化の結果だんだんそうなっていくわけですが、人間はそれを決意によって自らに今すぐにでも課すことができるという点で決定的に異なるのです。「遊ぶのは止めてスケートに専念する」生き物に、自らを進化させることができる。「4回転アクセルを跳ぶ」生き物に、自らを進化させようと挑戦することができる。

生まれもったものに沿って生きているのではなく、

「こう生きる」を決意によって定められる。

自らの決意で進化することができる、そういう生き物なのである。

そこに「好き」なだけではない、一段高い世界がある。

だから、「こう生きる」を決意した人は、我慢とかストイックといった感覚すらないのかもしれません。ダチョウが空に未練を(たぶん)持たないように、それは決意によってすでに捨てたものなのですから。そのあたりが、インタビュー動画を見ているときも「遊べなくて大変だな」とか「バッティングセンター行けなくて可哀想だな」という感覚ではなく、決意した人の凄みにただただ圧倒されることにつながるのかなと思います。実際問題、バッセンから貸し切りのタダ券が送られてきても、行かないんでしょうしね。たぶん、そういうことじゃないのです。

そういう人が4回転アクセルを跳ぶんだと言うのなら、きっと跳ぶでしょう。ほかにまだ捨てられるものはないかと探してでも跳ぶでしょう。怪我により時期は少し遠のいたとしても、見たいという気持ちはさらに高まる想いです。跳べたかどうかよりも、それを目指すと決意して、生命を磨き、何かを捨てていく進化の果てを確かめたいという気持ちで。心配は尽きないわけですが、決意を鈍らせることがないよう、「待ってる」「挑戦を」「楽しみ」という気持ちを放っていきたいなと思います。「できればこの目で〜、できればこの目で〜」という念とともに!(※邪念ではないはず)

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捨てることは我慢ではなく、進化することなのだと理解しました!