2006年6月22日、サッカードイツワールドカップのグループF・第3戦でゴールを決めた玉田圭司(写真:ロイター/アフロ)

2022年カタールワールドカップを目指し、9月に本格始動した森保一監督率いるサッカー日本代表。年内5戦を4勝1分と無敗で乗り切り、1月の「AFC アジアカップ UAE 2019」制覇への期待が大いに高まっている。

中でも輝きを放っているのが、中島翔哉(ポルティモネンセ)、南野拓実(ザルツブルク)、堂安律(フローニンゲン)の「新2列目トリオ」だ。

ここまで4ゴールの南野を筆頭に、中島と堂安が1点ずつと高い決定力を発揮しているうえ、ゴールへ迫る迫力とタテへの推進力で相手を凌駕しているのだ。

「彼ら3人はすごくいいと思う。若いからこそできるプレーだね。見ていて面白そうだし、自分も若かったらあの中に入りたいね」

笑顔でこう語るのは、2006年ドイツ・2010年南アフリカのワールドカップ2大会に出場し、国際Aマッチ72試合出場16得点という偉大な記録を持つ玉田圭司(名古屋グランパス)だ。

2004年3月のドイツワールドカップアジア1次予選・シンガポール戦で初キャップを飾った頃の彼も「新2列目トリオ」を上回るほどの速さとドリブル突破力、タテへの推進力を見せていた。

今、改めて振り返る2004年のアジアカップ

「ジーコジャパン最大の発見」とも称されたスピードスターが日本代表で確固たる地位を築いたのが、2004年アジアカップ(中国)だった。

反日ムードが高まり、試合会場の重慶で「君が代」がかき消されるほどの大ブーイングを浴びせられる中、日本代表はオマーン、タイ、イランとの1次リーグを1位で通過。しかし準々決勝・ヨルダン戦ではPK戦で最初の2人が失敗する窮地に追い込まれた。

そこでキャプテン・宮本恒靖(現・ガンバ大阪監督)がレフリーに「ピッチが荒れている」と主張。使用するゴールを変えさせ、川口能活(相模原)の4連続セーブでミラクル勝利に持ち込んだのは忘れがたい歴史である。

玉田がブレークしたのは続く準決勝・バーレーン戦(済南)。壮絶な打ち合いの中、後半の2点目と延長戦での決勝弾となる4点目をたたき出したのがこの男だ。そして決勝・中国戦(北京)でもダメ押しとなる3点目をゲット。存在感を大いにアピールしたのだ。

「1次リーグの時は自分のプレーをまったく出せなかった。ジーコは使い続けてくれたけど、得点は取れてなかった。そんな自分が周りには悩んでるように見えたんだろうね。

ある時、アツ(三浦淳宏=現・ヴィッセル神戸GM)さんが『FWって90分の中で1点取ればいいんだよ』と声をかけてくれた。


日本代表当時を述懐する名古屋グランパスの玉田圭司(筆者撮影)

それで気が楽になり、開き直れた部分がありましたね。

代表に入った直後も柏レイソルの先輩だった土肥洋一(現・レノファ山口GKコーチ)さんや藤田俊哉(現・日本代表強化部員)さんも気にかけてくれた。

やっぱりベテランの人たちのサポートは大きかったですね」と彼は若かりし日を述懐する。

こうして代表に定着した玉田は、順当に2006年ドイツワールドカップに参戦を果たす。だが、与えられた出番は第2戦・クロアチア戦(ニュルンベルク)の後半途中からと最終戦・ブラジル戦(ドルトムント)に先発出場した2試合だけ。

2戦目終了時点で日本は敗退濃厚で、ブラジル戦は2点差以上で勝たなければ16強入りできない状況に追い詰められていた。そこで玉田が前半34分に奪った先制点は世界を震撼させることになった。

「あの時は正直、まったく緊張しなかったね。ブラジル相手に自分がスタメンで出られるんだから、『もうやってやろう』という気持ちしかなかった。試合前も試合中もホントに楽しかった。得点もスーパーゴールかと言ったらそうじゃないかもしれないけど、あの舞台でブラジル相手に取ったというのが意味あることなのかなとは思います」

「玉田ゾーン」から決め続けたサッカー人生

稲本潤一(コンサドーレ札幌)が左に展開し、三都主アレサンドロが中に入れたボールを受けた玉田がペナルティエリア左隅をドリブルでえぐって左足を振り抜くというあのゴールは、前述のバーレーン戦の2点目と酷似している。

左45度からのシュートは「玉田ゾーン」と言ってもいい得意な形。それを彼はサッカー人生で幾度ともなく決めてきた。

「『玉田ゾーン』なんてないでしょ(笑)。でもあそこでボールを持ったら左アウトで運んで打つという自分の形はあるし、決められる自信もあるよ。ブラジル戦のゴールもその積み重ねから生まれたものだね」

日本ワールドカップ史に残る一撃を本人はこう振り返るが、あの1点がブラジルを本気にさせたのは言うまでもない。ロナウド、ジュニーニョ・ベルナンブカノ、ジウベルト・シウバに合計4点をたたき込まれ、終わってみると1-4の惨敗。世界のすごさを若き玉田も痛感さざるをえなかった。

「ロナウジーニョなんか手を抜いてやってたと思う。そういう中で自分も楽しむし、味方も楽しませるみたいな余裕があった。僕も楽しんでいたけど、ブラジルの選手たちはそれ以上に楽しんでいましたよね。サッカーの奥深さを再認識させられたのはあの時。世界に出ていきたいという気持ちも湧きました」

だが、当時の彼は26歳。海外移籍を本気で考えるには少し年齢的に遅かった。J2降格した柏レイソルから名古屋グランパスへ移籍してまだ1年目というのも大きかっただろう。

2006〜2007年にかけてはケガも続き、代表からも外れ、本人も現状を打破するだけで精いっぱいだったのは確かだ。

本田圭佑に気づかされたメンタルの重要性

ちょうど同じ頃、名古屋にいた若手の本田圭佑(メルボルン・ビクトリー)がオランダ1部のVVVフェンロへ赴いた。彼は入団前から海外移籍の具体的ビジョンを描き、そのとおりに遂行していった。玉田らの世代とは取り巻く環境も考え方にも大きな差があった。

「本田は若い時から『主張する時は主張する』ってスタンスだったから、海外向きだったよね。彼のいちばんすごいところはメンタル。自分はそれがいちばんの問題だったし、特に若い頃は『ミスしたらどうしよう』とつねにオドオドしながらやっていたから」

そう語る玉田は2010年南アフリカワールドカップに近づくにつれて、本田らの世代に追走されることになる。岡田武史監督が再び指揮を執り始めた2008年から代表に本格復帰した玉田は最終予選途中までエースと位置づけられ、指揮官からも「FW陣を引っ張っていってくれ」と注文を受けていた。

が、2009年に入ってから肋骨骨折やグロインペイン症候群など予期せぬ負傷が続く。日本が南ア切符を獲得した2009年6月のウズベキスタン戦(タシケント)も欠場し、岡崎慎司(レスター)に主役の座を譲った。

それでもワールドカップイヤーの2010年には復帰し、2度目の世界舞台が近づくにつれてコンディションを上げていた。大木武コーチ(現・FC岐阜監督)からも「絶対チャンスが来るから頑張れ」と声を掛けられ、本人も南アを1つの集大成にすべく全力を注いでいた。

が、本大会で主力攻撃陣を形成したのは海外リーグでプレー経験のあった本田、松井大輔(横浜FC)、大久保嘉人(ジュビロ磐田)の3人。玉田は第2戦・オランダ戦(ダーバン)の後半途中からとラウンド16・パラグアイ戦(プレトリア)の延長戦でピッチに立っただけで、4年前のようなゴールという結果を残せないまま、代表キャリアを終えることになってしまった。

「ホントにあれだけケガが続いたのはあの年だけ。そういう時に本田や松井といった海外組、岡崎みたいな若手が出てきたのはデカかったし、痛かったよね(苦笑)。南アはもっと試合に出たかったし、フルで活躍したかった。

もちろんチームをサポートするだけじゃ満足できないから。ただ、1人の選手が少しでもチームを壊すようなことをしてしまったら、いいことは何もない。南アの時はみんながそう思っていたからチームがすごくまとまっていたし、一体感はあったよね」

2018年の代表躍進は先人たちのおかげでもある

当時30歳だった玉田は、川口や楢崎正剛(名古屋グランパス)、中村俊輔(ジュビロ磐田)ら年長者の空気を感じながら、自身もベテランに近い中堅選手の1人として必死にチームを盛り上げた。


玉田 圭司(たまだ けいじ)/名古屋グランパス所属のプロサッカー選手。1980年千葉県生まれ。1999年に柏レイソルに加入しプロデビュー。日本代表初選出は2004年。ワールドカップ本大会はドイツ・南アフリカの2大会に出場(筆者撮影)

そんな姿を見ていた本田や岡崎も8年後の2018年ロシアワールドカップでベンチから仲間を鼓舞し、結束を高めようと努めていた。玉田らの献身が8年後の代表につながり、成功の源となった。

それは今一度、強調しておきたい点だ。

「僕がアツさんの言葉で励まされたように、サッカーはやっぱりチームワークだと思う。

今の若手たちも勢いだけではできない時が来るかもしれない。アジアカップで壁にぶつかるかもしれないけど、そこでブレずにいろいろ考えて代表を底上げしてほしいよね」

ベテラン・中堅・若手がうまく融合してこそ、日本はアジアの頂点に立てる。玉田らが奮闘した14年前の再現を森保ジャパンにはぜひ見せてほしいものだ。

(文中敬称略、後編に続く)