社員の個人的犯罪まで社長が謝罪する違和感
日本の「謝罪文化」の特殊性とは(写真:RichLegg/iStock)
不適切かつ不十分な謝罪で、大炎上した日大アメフト部の反則問題がメディアの報道や人々の口端に上ることもめっきり減った今日この頃。人の心は移ろいやすいものである。一方で、なんとも違和感のある企業や組織の「謝罪事案」が次々と表ざたになり、日本の「謝罪文化」の特殊性を浮かび上がらせている。3つの実例をもとに説明していこう。
まず1つ目は、プロ野球・阪神タイガースのスコアラーが盗撮容疑で逮捕されたことについて、揚塩健治・阪神球団社長が6月13日、メディアの前で深々と頭を下げて、謝罪したというものだ。
盗撮は社員と企業の連帯責任?
社員が犯罪を犯した場合、果たして会社はどこまで責任を取るべきか。危機管理の定石では、たとえば、その犯罪が就業の場や業務に関連する仕事上で起こされた場合、組織ぐるみの場合には、会社にも責任の一端はあると考えられると解釈されることが多い。また、社会に範を垂れるべき存在の人の場合、任用責任が問われることもある。たとえば、銀行員の横領や学校の先生の犯罪などの場合は組織の側も、謝罪しておくべきという判断は一般的だ。
一方で、まったく業務と関係のない場での犯罪については、防ぎようがないところはある。コンプライアンス教育が重視され、企業も研修などに力を入れるが、その犯罪抑止効果は限定的だ。
万引きでも盗撮でも、社員個人の意志による犯罪を会社の力で食い止めることなど基本的にはできない。揚塩社長は「被害に遭われた方に心よりおわび申し上げるとともに、皆様に多大なご迷惑とご心配をおかけしたことを深くおわびします」と、平身低頭、謝罪したが、球団が責任を表明するような事案かというと、首をひねらざるをえない。そもそも、盗撮は社員と企業の連帯責任なのだろうか。頭を下げるべきは罪を犯した本人だろう。
2つ目の事案は、少し前になるが、2017年11月14日、「つくばエクスプレス」を運営する首都圏新都市鉄道が、南流山駅で下りの列車が定刻より20秒早く発車したとして、その日のうちに謝罪のプレスリリースを発表したというものだ。
出発予定時刻は9時44分40秒だったが、列車は9時44分20秒に発車した。この件でお客様からの苦情等はなかったというが、発車メロディや「ドアが閉まります」のアナウンスが発車後に流れるという事態になったため、「お客様には大変ご迷惑をおかけしましたことを、深くお詫び申し上げます」と陳謝した。
ルール違反であり、もちろん看過できるわけではない。しかし、この事案は、海外では驚愕をもって受け止められ、多くのメディアに面白おかしく取り上げられた。そもそも、海外では電車が定刻に発車することのほうが珍しい。筆者もアメリカやイギリスでの生活で、何度となく泣かされた。突然、停車すべき駅を飛ばしたり、何の前触れもなく運休する地下鉄。週末、駅に行くと、今日は1日電車が来ません、などということもざらだ。
停留所に人が待っていようが満員でもないのに、平気で無視して行ってしまう路線バスもある。長距離バスに乗って旅した時は、突然、バスが故障し、高速道路の途中で、足止めを食らったが、代替えバスを出すでもなく、のんびり修理するのを8時間待たされるということもあった。
それでも、不思議なのは「誰も大して怒らないこと」。こんなものだろう、と平然としているのだ。日本であれば、駅員に詰め寄り、怒りだす人もいそうなもの。そもそも日本ではこうした「サービス」への期待値が海外に比べて圧倒的に高い。いや、高すぎるところがある。
「弁当注文」で謝罪会見
3つめの事案は、神戸市職員が勤務中に弁当を注文するために、職場を離れる「中抜け」を繰り返し、減給処分されたというものだった。
大阪の放送局ABCテレビによると、神戸市水道局の64歳の男性職員は、勤務時間中に近くにある飲食店に弁当の注文をするため、3分程度の中抜けを半年間に26回したという。結果、この職員は半日分の減給処分となったというが、驚いたのは、6月15日、神戸市の水道局の課長ら4人が並んで会見を開き、深々と頭を下げ、「このような不祥事が生じ、大変遺憾。申し訳ございませんでした」と謝罪をしたことだ。
半年間に26回ということは1カ月4回、つまり1週間に1回程度、3分間の中抜けということだが、これがダメなら、たばこを吸いに喫煙所に行ったり、就業時間内に居眠りをしたり、業務に関係のないおしゃべりをすることも処分の対象にあたるということにならないだろうか。
神戸市の広報課に問い合わせたところ、「すべての職員の処分について同様の形で発表している」という。「ご迷惑をおかけした(納税者である)市民に対し、お知らせする意味合いがある」と説明するが、その一方で、ホームページでリリースを掲出するなどして、直接、その市民に謝罪するわけでもない。前例に従って、メディア向けの会見発表を営々と続けてきたという。
こうした謝罪会見を開くのは本来、被害者に対する反省や謝罪、今後の対応策について表明することが目的であるはずだ。しかし、後々非難されることがないように、とりあえず、メディアに対して謝っておこう、といったアリバイ的なパフォーマンスのような会見も少なくない。
些末な粗相であっても、針小棒大、揚げ足取りのように会社を責め立てるメディアも少なくないからだ。企業としても「とりあえずメディアに発表しておこう」という思考になるのは致し方ないかもしれないが、市民への告知というよりは会見という儀式が目的化している印象もぬぐえない。
「迷惑」恐怖症
このように「過剰感」のある日本の謝罪文化。その背景の1つにあるのが、日本人の過度な「迷惑」恐怖症だ。この3つの事案すべてに共通した謝罪の言葉は「ご迷惑をおかけして申し訳ない」という常套句だ。つまり、被害者に対する謝罪というよりは、不祥事によって、不快感を持つであろうすべての第三者に対しても謝るべきである、という日本独特の考え方がある。
東京理科大学の奥村哲史教授らの研究では、アメリカ人の学生が1週間に謝った回数は4.51回に対し、日本人の学生は11.5回も謝っていた。この研究では「謝罪は、アメリカでは責任の所在を明らかにするためのものであるのに対し、日本では、反省を表すためのもので、自らがかかわっていない行為に対しても謝るのが特徴的。謝罪は(日本という閉鎖的社会の中の)一種の社会的潤滑油」と結論づけられた。
不祥事会見で、いやというほど多用されるこの「迷惑をかけてすまない」という言葉は、人様に迷惑をかけてはいけないという日本独特の価値観の表れであると同時に、その裏には、迷惑はかけられるのも嫌だ、という精神性が隠されている。そもそも、人は本来、生きている限り、誰かに迷惑をかけ、かけられる存在のはずだ。しかし、日本では、迷惑はかけてはいけないという意識の一方で、相手の迷惑も一切、受け入れない「不寛容」が生まれている。
「迷惑」を過剰に恐れ、つねに人の目を気にして、一挙手一投足に過敏にならざるをえない。行き過ぎた謝罪の根っこにあるのは、こうした日本社会の集団的抑圧、同調圧力だ。とりあえず、謝っておこう。「謝罪の安売り」はそんな日本の息苦しさの象徴でもある。
謝るべき時は、肝を据えて、真摯に責任を認める潔さはもちろん必要だろう。一方で、そもそも、リスクや間違いを過度に恐れる「リスク回避志向」の強い日本人が、ますます縮こまり、内向きに走る現状もどうかと思えるのだ。
「謝罪」はある意味、同質的な日本人同士の独特の「折り合い方」の知恵なのかもしれないが、グローバル化で、価値観が多様化する中で、誰かの常識は違う誰かの非常識ということも増えている。「とりあえず謝罪」だけで片付く時代ではないのである。