先月、米国でのWBA世界スーパーフライ級タイトル戦で、王者の河野公平に敗れて現役引退を表明した亀田興毅。さらに次男の大毅も11月4日、網膜剥離による引退が明らかになった。世間のバッシングを受け続けたお騒がせ一家も、今や昔となりつつある。
 興毅はその後に出演したバラエティー番組で「自分はボクサーとしての一商品」と話し、現役当時のさまざまな批判に対しても鷹揚な姿勢を見せた。
 「これをもって“大人の態度”“冷静な自己評価”などと評する声もあるけれど、ちょっと待ってほしい。亀田一家として“そもそも批判されるだけのことが多々あった”という大前提が、まるで欠けています」(スポーツ紙ボクシング担当)

 中学卒業後、興毅は進学せず、父・史郎氏の指導の下でボクシングに打ち込んだ。そんな親子の姿に注目したTBSテレビは、早くから“大阪から世界を狙うボクシング一家”として番組で取り上げた。
 「社会人の試合で好成績を収め、大阪のグリーンツダジムから17歳でプロデビュー。タイ人相手に連勝したまでは良かったが、19歳で東京の協栄ジムへ移籍したことが、いろんな意味で転機となりました」(同)
 協栄ジムとTBSは系列ともいうべき深い関係で、TBSが以前から番組で取り上げていた亀田家を協栄が獲得するということは、以後も同局が亀田家を完全バックアップしていくということだった。

 最初からスター街道を約束された亀田家ではあったが、その素性はボクシング本来のハングリー精神と、かけ離れたものであった。
 そのため当初から周囲の厳しい目にさらされ、そんな中で迎えた世界戦。ファン・ランダエダ(ベネズエラ)を相手に2度のダウンを喫しながらも、興毅勝利の判定が下されたことで、多くのボクシング関係者やファンからは一層疑惑の目を向けられることになる。
 それでも、このときには擁護の声が少なからずあった。その後の再戦でも、ヒットアンドアウエー戦法で判定勝ちし、わずかではあるが批判の声を封じた。

 しかし、2007年10月11日、亀田家次男の大毅がWBC世界フライ級王者・内藤大助に挑戦したタイトルマッチで、世間の“アンチ亀田ムード”は決定的なものとなる。
 事の発端は'05年、興毅がインタビューにおいて、同級の内藤を「弱い」と切り捨てたことだった。対して内藤は「世界を獲ったら興毅を挑戦者に指名する」と挑発。そうして'07年、3度目の挑戦で32歳にして初の世界王者となった内藤であったが、その初防衛戦の相手は因縁深い兄・興毅ではなく大毅の方だった。
 「大毅が勝てば日本ボクシング史上最年少、18歳の世界王者として売り出せる。負けても次に興毅と内藤による因縁マッチが組めるという、極めて商売色の強いマッチメイクでした。TBSと協栄にとっての内藤は、亀田家売り出しのための捨て駒にすぎなかった」(テレビ関係者)
 内藤自身も試合前は、「スター街道を走る亀田家の行く手を阻む悪役」のつもりであったというが、試合前の会見で大毅が、王者を「ゴキブリ」や「イジメられっ子」などと罵倒する非礼もあって、ファンの支持は内藤に集まることになる。

 いざ試合になっても、両者の実力差は大きかった。ガードを固めてただ前に出るばかりの大毅に対し、内藤はボディー、顔面と的確にパンチを打ち込んでいく。
 さらに試合途中のスコアで内藤優勢が伝えられて以降、大毅はサミングやローブロー、果てはタックル、ヘッドロック、クリンチからの投げ飛ばしと、隠すことなく反則攻撃を繰り出し始める。当然、場内の観衆は内藤の応援一色。12R終了後、王者の大差判定勝ちが告げられると、大歓声が巻き起こったのだった。

 勝利者インタビューで「大毅は弱かった」と話した内藤は、それまでのスポンサー集めにも苦労する地味なロートル王者から、一転して国民的ヒーローにまで持ち上げられた。
 一方の亀田家は、あまりの非難の声に謝罪会見を開いたが、もはや後の祭り。その後、興毅が内藤にリベンジ勝利を果たしても、ついに逆風がやむことはなかった。