今では“ガッツポーズ”というと片方の手で握り拳を作る姿形を思い浮かべる人が多いだろうが、本来はそれとは異なる。ガッツ石松が世界戦に勝利した際、リング上で飛び跳ねながら両腕を頭上に掲げる姿を、当時のスポーツ紙が『ガッツポーズ』と記したのが最初。つまり両腕で行うのが正しいスタイルなのだ。
 言葉自体は“ガッツボーリング”なるボーリング専門誌が使ったのが先だともいわれるが、日本全国にこれを広めたきっかけが石松であることには違いない。芸能タレントとしての振る舞いしか知らない人には意外かもしれないが、ボクサーとしての石松は、時にクレバー過ぎるほどの選手であった。

 世界初挑戦となった1973年、WBA世界ライト級王者だった伝説の名ボクサー“石の拳”ロベルト・デュランと対戦した際のこと。試合開始早々、数発の拳を交えたところで実力の差を思い知った石松は、そこからいかにダメージを受けずにリングを下りるかということばかりを考えていたという。
 他でも、形勢が悪くなると試合そのものを投げ出すことが度々あって、そもそもリングネームの“ガッツ”は、そんな試合ぶりに業を煮やしたジム会長が「もっと根性を見せてみろ!」との意図から命名したものだった。

 東洋ライト級王者時代、池袋で8人のヤクザ者を石松たった一人で倒したという伝説の私闘でも、相手に周りを囲まれないよう建物の隙間に入って一人ずつ倒していったという逸話が残っている。
 このことからも、世間から“おバカタレント”扱いされる石松とは全く異なる実像が見えてこよう。

 ボクシングスタイルは、しっかり左のリードブローを放ち、相手を止めたところで右の強打という純正統派。今の石松からは“本能のまま戦う野獣”のようなイメージを抱くかもしれないが、実は足を使ったアウトボクサーであり、本人はこれについて「モハメド・アリを参考にした」とも語っている。
 石松の代名詞となった“幻の右”も、アリの“ファントムブロー”--左ジャブを戻すよりも先に右のフィニッシュブローを放ち、相手にパンチを予測させないという、それにヒントを得たものだった。
 とはいえ、一朝一夕でアリの真似などできるはずもない。そのため練習量は他の選手とは比較にならないほど多かったと当時、トレーナーを担当したエディ・タウンゼントは述懐している(ただしランニングだけは嫌いで、汗をかいたと装って公園で水道水をかぶって帰ってくることもあったとか…)。

 清水次郎長の子分、森の石松を模した三度笠姿での入場が話題を呼び、勝利者インタビューでの朴訥とした話しぶりから一躍人気者となった石松は、そうしたキャラクターの部分だけでなく、実績面でも相当なものだった。選手層の厚いライト級での王座防衛回数5回、それも各国の英雄と呼ばれるような選手たちを撃破してのものだけに価値は高い。歴代日本王者と比べてもトップクラスの戦歴と言えるだろう。
 王座戴冠となったのは'74年4月11日、東京・日大講堂でのWBC世界ライト級王者ロドルフォ・ゴンザレス戦。この試合まで石松の戦績は26勝11敗6分。メキシコの英雄ロドルフォと比べて圧倒的不利と予想されたが、いざゴングが鳴ると互角か、やや石松有利で試合は進んでいく。
 毎ラウンド打ち合いが続き、会場はヒートアップ。そして第8R。疲れから動きの鈍った王者を石松の左右の連打が捕えて、ついにダウンを奪った。
 「このとき、レフェリーのカウントが遅かったことにブーイングなどはなかったのですが、次の場面に問題が起こりました」(スポーツ記者)

 何とか起き上がった王者に石松が詰めていくと、目立った追撃もないまま王者は再びダウン。最初のダウン時の石松のパンチが効いていたわけだが、これをレフェリーは「パンチを受けずに倒れた」=「スリップダウン」とジャッジ。そうしてマットにのびた王者の手を取って引き起こそうとまでしたのだ。
 当然セコンドは猛抗議するが、石松はこれを制して一言、「倒すから大丈夫」。
 宣言通り、再開と同時の猛ラッシュで王者をリングに這わせたのだった。